《楽園》
好きなジャンルの本ばかりが取り揃えられているその専門書店は私にとって楽園とも言うべき場所である。
この店を教えてくれた同じ趣味の友人には感謝してもし足りない。
家からだと少し遠いからとわざわざ車を出してくれるのも更にありがたい。
圧倒的感謝の念を込めてハンドルを握るその姿を助手席からひたすら拝む。
「相変わらず大袈裟だな」
「大袈裟じゃないよ! やっぱり持つべきものは好みの合う趣味友だね!」
「はいはい」
この男と知り合ったのは、とある会員制SNSだ。
といっても怪しいものではない。
そこは趣味に特化した同好の士ばかりが集うSNSで、興味のない人からしたらちょっとマニアックかもしれないが、ただそれぞれが延々好きなものを語るだけの至って健全なものである。
熱量が強すぎてたまに会員同士で意見がぶつかり合うこともあるけど、平時は概ね平和と言っていい。
彼とはたまたま出た話題から同じ大学に通っていることが分かり、しかも同じ授業を取っているという偶然まで重なったことから、すっかり意気投合して趣味友達となった。
それから友情を育み、今ではこうして月に2~3度、一緒に書店巡りなどに出かける仲になっている。
同い年だけど、知識量といい行動力といい、私にとっては師匠のような存在とも言える。
「それにしても、あの店、本当に特殊だよね。個人経営のお店だからってのを差し引いても、あれだけあのジャンルに特化した品揃えってかなり珍しくない?」
「あそこは店主が趣味でやってる店だからね。伝手で希覯本なんかも扱ってるし」
「ほんと凄すぎ。そんで、そんな特殊な店をよく見つけたよね」
「あれ、言ってなかったっけ? あそこは俺の叔父さんの店なんだよ。叔父さん独身だし、ゆくゆくは俺が継ぐことになってる」
「え、そうだったの!?」
「そう。つまり、俺と結婚したら、漏れなくあの店も付いてくるってわけ」
思わず心がぐらりと揺れる。
趣味が合って、一緒にいて楽しい趣味友達。
ただの友達というにはあまりに至れり尽くせりで、正直なところ、もしかして私に気があるのでは……なんて冗談半分で自惚れそうになったことは一度や二度じゃ済まない。
私の方だって、全く気のない相手とこんな風に頻繁に2人きりで出かけるわけもなく。
何かきっかけがあれば恋に発展するかも、と期待をしなかったと言えば嘘になる。
告白をすっ飛ばして告げられたプロポーズめいた言葉。
でも彼の口調はとてもフラットで、冗談か本気かの区別もつかない。
いや、普通に考えれば冗談だろう。そうに違いない。
それなのに、私の心臓はその言葉を勝手に深読みしてバクバクと速いビートを刻み出してしまう。
ヤバい。どんな顔していいか分からない。
頬はどんどん熱を持って火照りだすし、思考は完全に飽和状態だ。
ほんの数分前まで好きな作家の本のことでいっぱいだった頭の中が、今や彼で埋め尽くされてる。
「良かった、全然脈がないわけじゃなさそうだ」
「えっ」
小さく漏れた独り言。
私に聞かせようとした言葉ではなかったのかもしれない。
でも、軽自動車の狭い車内、運転席と助手席はとても近くて、私の耳はしっかりそれを拾ってしまう。
つまり、それは、そういうことだよね?
私の都合のいい妄想とかじゃないよね?
斯くして彼は気の合う趣味友達から恋人へと関係を変え、数年の時を経て結婚し。
それから更に数年の時を経て、その楽園は私達の終の棲家となったのだった。
《風に乗って》
風に乗って微かに声が聞こえてくる。
懐かしい旋律は高校の頃に見たアニメ映画の主題歌。
時おり音程を外すその歌声に、思わず笑みがこぼれる。
歌詞は覚えていなかったから、こっそりハミングで合わせて口ずさむ。
外で洗濯物を干す妻には、きっと部屋の中にいる私の声は聞こえないだろう。
歌いながら脳裏に蘇るのは、スクリーンの鮮やかな光景。
そして、初めてのデートに緊張して手に汗をかいていた若かりし頃の自分。
隣に座る彼女をチラチラと横目で盗み見るばかりで、映画の内容はろくに頭に入ってこなかった。
「今日のお昼はオムライスにしようと思うんだけど」
「いいね、ちょうど食べたいと思ってたんだ」
あの初デートの日、映画の後に食べた昼食もオムライスだった。
そんなことを今もしっかり覚えている自分に笑いが込み上げてくる。
しかし、あの歌を口ずさんでいた妻が昼食のメニューをこれにしてくれたことが嬉しいのも事実で。
それがたまたまなのか、自分と同じくあの日を思い出してのことなのかは分からないけれど。
今夜は久しぶりに2人であの映画を見たいといったら、妻はなんて言うだろうか。
笑顔になってくれることを祈りながら、その日の午後、私はしまい込んだDVDのケースを引っ張り出したのだった。
《刹那》
それは熱病のようなもの。
時が経てばすぐ冷めてしまう刹那的なもの。
若いうちにありがちな盲目的な恋。
周りの大人達は口を揃えてそう言うけれど、じゃあ、それのどこが悪いのかと問うても苦笑いするばかり。
今は熱に浮かされてるからそんな風に思うのだ、と。
諭す言葉は正論かもしれない。
だけど私の心を動かすものではない。
だってこんなに好きなのだ。
焦がれて焦がれて、身も心も焦げつきそうなほど。
寝ても覚めても考えるのはあの人のことばかり。
物語の令嬢のように婚約者がいるわけではない。
あの人にだって、恋人や想う人がいるわけじゃない。
何より、恋人になりたいだとか、両想いになりたいだとか、そんな大それたことを考えているわけではない。
ただ、想って、恋い焦がれて、遠くから見つめていられればそれで充分なのに。
時折、何かの拍子に目が合うだけで満足なのに。
叶わない想いなのは、言われなくても知っている。
身分違いだなんて、諭されるまでもなく分かってる。
だからどうか。
たとえ刹那の熱病であっても構わないから。
せめてこの胸の内の熱が冷めるまで、想い続けることを許してほしい。
絡む眼差しに、私と同じ熱が籠もっているなんて夢物語のような錯覚を、信じたりなどしないから。
《生きる意味》
生まれたときから体が弱かった。
人生の半分ほどはベッドの上の住人で。
家族にもたくさん心配と迷惑をかけていて。
それでも、生きることを諦められなかったのは……
「少し熱が下がってきたかな」
落ち着いた声で問われ、こくりと頷く。
高熱のピークは脱したようで、体はさっきまでより幾分か楽になっている。
心配そうに覗き込む大好きな人の顔にちりちりと罪悪感が疼いた。
でも、それと同じくらいに、嬉しい気持ちもある。
まだ彼の心はわたしから離れていないのだと実感して。
「いつもごめんね」
「謝るなって。こないだも言っただろ」
「そうだけど」
「ぼくの方こそ、ごめん」
「何が」
言いたいことは分かっていたけど、気づかぬふりで問い返す。
彼の回復魔法のおかげでわたしは生き永らえている。
彼の魔法がなかったら、きっと明日にもわたしの命は儚く消えてしまうだろう。
わたしが生きているのは彼のおかげ。
同時に、わたしが死ねないのは彼のせいでもある。
彼が魔法をかけるのを止めてしまえば、わたしはこれ以上病に苦しむことなく楽になれる。
彼は、自分のエゴがわたしを生かしているのだと、楽にしてやれないのだと、悔やんでいる。
でも、それはわたしもおんなじだ。
わたしが一言「楽にして」と言えば、きっと彼は叶えてくれる。
それを分かっていて、手を離してあげられない。
「安心して。わたしはずっと、死ぬまであなたのものだから」
「……うん」
わたしの生きる意味はあなたと共に在ること。
他人からどんなに憐れまれても、それでもこれがわたしたちの幸せの形。
死が二人を別つまで、わたしたちはお互いに縛りつけられ続ける。
《善悪》
ぼくのクラスにはとっても可愛い女の子がいる。
男の子は苦手みたいで、男子が近づくといつも友達の後ろに隠れてしまう。
クラスの男子の半分くらいはその子のことが気になってて、その中の更に半分はちょっかいを出しては泣かせてしまう。
その度にその子の友達の女子がそいつらを撃退するのがいつものパターンだ。
「好きなら優しくしてあげればいいのに、どうして意地悪ばっかするんだろう。あんなことしてたら嫌われるだけなのに」
ぼくは不思議でたまらなくて、帰ってからお兄ちゃんに聞いてみた。
お兄ちゃんはぼくより10歳上で、ぼくのお母さんのお兄さんの子供……イトコだ。
ぼくのお姉ちゃんに勉強を教えるカテーキョーシのアルバイトでよく家に遊びにきてる。
お兄ちゃんは何でも知ってるから、ぼくは分からないことがあるといつもお兄ちゃんに質問するんだ。
ドリルをやってるお姉ちゃんの横でスマホで動画を見てたお兄ちゃんは、ぼくの言葉にぷはっと笑った。
「そいつらはその子の気を惹きたいんだよ。でも、照れくさかったり、どうやって接したらいいか分からないんだろうな」
「男子ってほんとバカ。やられた方は嫌な思いするだけだし、そんなことする奴らなんか好きになるわけないのに」
お兄ちゃんは拗らせてるなって言って笑ってるけど、お姉ちゃんはドリルの問題を睨みつけながらぷりぷり怒り出してしまった。
お姉ちゃんもぼくと同じくらいの頃に男子に何度もちょっかい出されて泣かされてたんだって。
ぼくは慌てて首を振った。
「ぼくは意地悪してないよ!」
「当たり前でしょ。もしあんたがそんなことしたらもう一緒にゲームしてやんないからね」
「やらないよ!」
意地悪してる男子たちはクラスでもちょっと乱暴な子たちで、ぼくはあまり仲良くない。
あの子への意地悪をゲームみたいに楽しんでるみたいなのが見ていてムカムカする。
「まあ、好きな子に意地悪したくなる気持ちも分からなくないけど……」
「えっ?」
「それはともかく。庇えるようならなるべく庇ってあげな。1人じゃ無理なら友達と何人かで対抗すればいい。撃退してる女子も味方になってくれるだろうし、そいつらも自分達が孤立したらさすがに懲りてやめるだろ。それに、庇ってくれたらその子もきっとおまえのこと良いやつだって思ってくれるよ」
「うん……」
いつも絶対正しいはずのお兄ちゃんが、さっきは何だか少し変なことを言った気がしたけど……きっとぼくの聞き間違いだよね。
お兄ちゃんに限って、好きな子に意地悪するなんてありえないし。
「好きな子に意地悪とか、小学生と同じレベルじゃん」
「お姉ちゃん、今なんか言った?」
「別に! 何も言ってない!」
「……その問題、簡単すぎたみたいだな。次はもっと難易度高いのを出題してやろう」
楽しそうに言うお兄ちゃんに、お姉ちゃんが涙目でぷくっと頬を膨らませる。
それから、お勉強の邪魔になるからって、ぼくはお姉ちゃんの部屋を出るように言われた。
お兄ちゃんの高校のジュケンは難しいみたいだし、お姉ちゃんがお兄ちゃんと同じ高校に入るのの邪魔はしたくない。
「お姉ちゃん、お勉強がんばってね」
「待って! いていいから! 邪魔じゃないから!」
「駄目駄目。すぐ気を散らしちゃうんだから」
引き止めるお姉ちゃんの声と宥めるお兄ちゃんの声を聞きながら、ぼくは手を振って部屋を出た。
階段を降りながら、明日はどうやってあの子を庇ってあげようか考える。
格好良く庇ってあげられたら、もしかしたらあの子がぼくのことちょっとは気にしてくれるようになるかも。
お姉ちゃんは小さい頃、いじめっ子たちから庇ってくれてお兄ちゃんのこと好きになったって言ってたから、きっと可能性はあるんじゃないかな。
ぼくも、お兄ちゃんみたいに、あの子のヒーローになれるといいな。
10年後、お兄ちゃんと同じく、好きな子に意地悪したくなる気持ちを理解できるようになってしまうなんて、そのときのぼくは知る由もないのだった。