あいつはこの世界の王様だ。
このジャングルジムの頂上に立つ者が一番の強者だ。
昨日も今日も明日も来週も来月もずっとずっとあいつが王様なんだ。だから僕はずっとずっとあいつに仕える従者だ。
今日も城の上に立つあいつの命令に従って、下から攻めてくる敵を追っ払う。
僕はあいつには勝てない。ドッヂボールじゃいつもあいつにボールを当てられる。こないだの昼休みのサッカーはゴール手前であいつにボールを奪われた。さっき返された算数のテストもあいつは100点満点、僕は76点。喧嘩だって勝てた試しがない。
あいつになりたい。
なんで僕はあいつじゃないんだ。あいつとして生まれてたら僕の人生は最高なものになるはずなのに。
ずっと金魚のフンみたいにあいつの後ろについて過ごしてるけどあいつのことが好きなわけじゃない。本当は嫌いだ。あいつがいる限り僕は1番にはなれない。僕だって天下を取りたい。王様になりたい。
嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ…!!!!!
気づくと身体が勝手に動いていた。
明智光秀もびっくりの裏切り劇の開幕だ。
ジャングルジムをありったけの力を込めて駆け上る。
あいつはポカンとした顔をしている。
今がチャンスとあいつに手を伸ばした。
その瞬間視界が揺れ、真っ暗になった。
痛い。
あいつの他の従者に止められ、バランスを崩してジャングルジムの頂上から落ちたらしい。右腕骨折の大怪我だ。
ギプスが取れるまでの間、あいつは僕に優しかった。やっぱり嫌いだ。普段なら絶対こんなに優しくしないくせに。
僕には天下は取れなかった。でもいいんだ。僕は僕を僕の世界の王様にしてあげよう。
秋になると毎年彼女のことを思い出す。
高校生のころ好きだった人。
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僕の友達グループと彼女のグループは仲が良かったからたまに昼休みにみんなで弁当を食べたり、何度か大人数で一緒に遊びに出掛けたりもした。
でも、それだけ。
彼女はいつも友達のそばでニコニコしてるばかり。あまり自分からは話をしない人だった。
僕も内気なほう。男友達になら普通に話しかけられるが相手が女子となるとさっぱりだ。
僕は彼女のことをほとんど知らない。
知っているのは彼女が友達とよく盛り上がって話しているドラマのタイトルくらい。少しでも彼女に近づきたくてそのドラマを見てみたがありきたりな恋愛もので彼女と語り合えるほどの興味は持てなかった。
彼女のことを知りたい、話したいとは思うものの話すきっかけが掴めない。友達に彼女のことが気になっていることは伏せつつ相談したが、きっかけがどうとかそんなことを考えていたら一生話せないぞと笑われた。
いつ彼女に話しかけるか考えるばかりで一日一日は過ぎていった。
考えすぎてもうわけがわからない。
恋愛って難しい。
なぜ他人の恋愛は心底どうでもいいのに自分の恋愛となると頭の中がそれでいっぱいになってしまうのか。
恋愛なんてしなくたって生きていけるのに。付き合えるかも両思いになれるかもわからない人間のことを考えるより晩ご飯のメニューに思いを馳せるほうがよっぽどマシだと思っていたはずなのに。
2年生の秋、中間テストを来週に控えた水曜日の放課後に昇降口で彼女と目が合った。
彼女がいつも一緒に帰る友達は体調不良で欠席。僕の友達は部活が休みだからみんなでカラオケに行くんだとダッシュで帰ってしまった。
駅のほうだよね?
急に聞かれて驚いた。一瞬なんのことだかわからなかった。回らない頭をどうにか動かしてその問いに頷いた。
一緒に帰ることになってしまった。
これはもう負けイベだ。こんなに突然出された難問、勝つほうが難しいだろう。
しばらくはやっと暑さが和らいで過ごしやすくなったことや趣味など当たり障りのない話をしていたが、その会話のレパートリーも尽きて静かに2人で歩いていた。
駅がもうすぐ見えてくるというところで彼女に遠回りをしないかと提案された。どこに行くのか聞くと内緒だと悪戯っぽく笑いかけられてしまった。全身が途端に脈を打つ。
会話のネタは相変わらず思い浮かばず、気まずさに耐えながら彼女についていく。駅を超えたらもう僕は知らない道だ。駅前のビルに囲まれた道を抜けると住宅街だった。下町風情の残る古い家が多い。毎日近くまで来ているというのに知らなかった。
そこからまたしばらく歩いて河川敷に出た。遊歩道こそ整備されているがその両脇には草が生い茂った跡が残っていた。夏は背の高い草に囲まれるのだと彼女が教えてくれた。
もう元気のなくなった草たちと妙に高い空、それに長袖のシャツを通る風がもう秋なのだと強く訴えていた。数ヶ月前より広くなった世界で少しの寂しさを感じた。
2人で遊歩道を歩く時間は一瞬だったようにも永遠にも感じられた。
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7年前のこの時期だったなと思い返しながら当時とは似ても似つかない暑さと夏の圧迫感に寂しさを掻き消された。
これでいいのかもしれない。
家に帰りたくなくてカラオケで一晩過ごした。
家族と仲が悪いわけでも喧嘩したわけでもないがなんとなくひとりでいたかった。
もうすぐ5時だ。会計を済ませて外に出る。
まだバスも走らない時間。家まで1時間ちょっとの道を歩いて帰る。
これから朝が来るなんてとても思えないくらい真っ暗な空を見上げながら帰ったら親になんて言われるかと考え憂鬱になる。
あまり帰りたくはないがかといってお金もなければ行くあてもない。
少しだけ回り道して川沿いの遊歩道を歩く。
走っている人、犬の散歩をしている人、意外とこんな時間でも人通りがあるのだと驚く。
立ち並ぶマンションの間から覗く山際がだんだんとくっきりしてきた。と思えばどんどんと空は明るくなる。
黒と青の間のオレンジは私みたい。
夜にも朝にもなれない曖昧な色。
道端の石、小さな花、葉っぱのうえにちょこんと乗る天道虫。幼い頃は全てが目新しくて、ワクワクして、キラキラして見えた。
今じゃただの石に花に虫だ。
私の心はいつの間にこんなに貧しくなったの?
美味しいものを食べれば美味しいとは思うけどそれを宝石箱だとは思えない。
毎日生きるために仕事して、生きるためにご飯を食べて、寝るだけの生活。
子供のころは母の作ってくれるご飯が大好きでご飯を食べるために生きていたのに。
あの頃の世界のきらめきはもう二度と戻ってこないのだろうと思っていた。
私の世界からきらめきが消えてから20年ほど経ち、私は親になった。
娘の世界はキラキラしているみたい。
私にはそのキラキラを直接見ることはできないけれど、いつも彼女の目にキラキラが反射している。
今日も彼女の目は幼稚園からの帰り道にあるキラキラを教えてくれた。
このキラキラを同じ目線で一緒に見ることはできないけれど、彼女の目を通してみるキラキラもなかなか良いもんかもしれない。
郵便受けを覗くと、届いていた。
とても丁寧な字で私の名前と住所が書かれている。
封筒からは少しのバニラの香りが漂う。
ウキウキで2階の自分の部屋まで駆け上がる。
丁寧に開封すると今まで微かだったバニラの香りが強くなる。彼の匂いだ。
封筒には購入したアクキー10個にお礼の手紙、おまけにサインまで同封してある。これだからオタクは辞められないんだ。
私の推しはいわゆる新人歌い手だ。チャンネル登録者は3桁、フォロワーも最近やっと1000人を超えたところ。配信の同接は良くて10人くらい。正直に言えばそんなに人気はない。
でもだからこそファン一人一人を大切にしてくれる。今までにも何人か推してきたがこんなに素敵な推しと出会ったのは初めてだ。彼が最初で最後だろう。
同じ匂いになりたくて使っている香水をDMで尋ねてみる。
すぐに返信が来た。即購入した。
学校へもおでかけの時も家にいる時もその香水を身につけた。
友達に推しと同じ匂いなのだと言うと「気持ち悪いな」と冗談交じりに笑われた。「推しとか手届かない人間追ってないで彼氏でもつくりなよ」だって。
手が届かないなんてそんなのはわかってる。推しとワンチャン繋がれるんじゃないかとかそんなバカみたいなことも考えてないよ。高校生の私なんて繋がったってきっと遊ばれて終わり。でもほんのちょっとだけ夢見てたい。