砂時計の音
「好きです。」
その言葉に断りを告げる。
「俺のとこに来たら幸せにしてみせます。」
そんな言葉を自信もって言える姿を羨ましく思いながら、断りを告げる。
「俺に沼らせてみせます!」
無理だよ。と、断りを告げる。
何度繰り返しただろうか。断ることにも疲弊してきた私は、ある時断り以外の言葉を口にした。
「わかった、いいよ。」
その言葉と共に砂時計の音が響き始めた。
砂時計が落ちるにつれ、彼は敬語を使わなくなった。
「好き。」
ありがとう。
その繰り返し。
砂時計が有限であることを忘れた私は、気づかないうちに彼の沼に沈んでいた。
「ねぇ、ぎゅーして?」
「ねぇ、どうして笑ってくれないの?」
「ねぇ、こっち見てよ。」
私が沼に沈んだ頃には、砂時計は半分を切っていて、彼の心は離れかけていた。
「どうして笑ってくれないの!どうしていつもいないの!どうして?」
どうして?なんで?
砂時計の残りが減ると共に、私は不安定になった。音がうるさくて、彼の声が聞こえなくなった。
「嫌いにならないで!ごめんなさい、ごめんなさい!すぐ出ていくから!嫌いにならないで....。」
壊れた私は荷物をまとめて彼の家から飛び出した。
砂時計の最後の1粒が落ちきった。
サーっと響いていた音が無くなると、魔法が解けたように涙がこぼれ出し、感情を知った。
「好きに、なってたんだ....。」
沼らせる。彼は有言実行していて、私は気づかないうちに沼に落ちていたのだった。
それからどれだけもがいても、砂時計の砂が元に戻ることはなかった。
音と彼が無くなった世界で、涙を零し続けた。
一輪のコスモス
あなたに贈りたい。
そう思って花屋で買ったのは、1輪のコスモスだった。
小ぶりでありながらも綺麗な色をしたこの花はあなたにそっくりだと思ったから。
家に帰り、あなたに渡した。
「どうしたの?」
あなたは不思議そうに私を見る。
ただ綺麗だったからと押し付けるようにあなたの視線を避けた。小っ恥ずかしかった。
背を向けた自分を見て、あなたは、ふふっと笑いをこぼした。
「どうして赤いコスモスだったの?」
「....似てたから。」
そう。と言いながら、更にあなたは笑いをこぼした。
ソファに少し小さくなって座る自分の横にあなたは座って、顔の横にコスモスを近づけて、似てる?と尋ねる。
恥ずかしくて、無視してスマホを見る自分を横に、あなたは話し出した。
「コスモスの花言葉はね、調和や純粋なのよ。」
花言葉や宝石言葉が好きなあなたは嬉しそうに話を進める。
「それで、赤いコスモスは、愛情なの。」
「知ってる。」
小さい頃からよく聞かされた花言葉の知識には自信があった。自分は素っ気なく返す。
「だから花束じゃなくて1輪だけにした。」
その言葉を聞いて、あなたは少し目を見開いた。そして、目尻を和らげて、ありがとう。と呟いた。
いつも素っ気なく、感謝を口にできない自分だが、あなたに感謝を伝えたかった。
非行に走って家族と開いた溝にいつも橋をかけてくれる、母であるあなたに。
何があっても自分に真正面向かって話をしてくれる、母であるあなたに。
物静かな暖かい優しさを注いで育ててくれる、母であるあなたに。
抱えきれないほどの愛を注いで育ててくれる、母であるあなたに。
こんな自分なのに、母であるあなただけが味方でい続けてくれる。その、感謝を花に込めた。
花が好きな母なら、きっと気づいてくれると思ったから。
【備考】
コスモス:調和/謙虚/純粋
赤いコスモス:愛情
1輪のコスモス:命を大切にしてね/あなただけ
今日だけ許して
『はじめましてー!どこ住み?』
ポンとなった通知と共に、メッセージが画面に表示される。
“𓏸𓏸です”
『近いねー』
『てか見た目めっちゃ好みで!今晩とか会えない?』
すぐに帰ってきたメッセージを横目に、1つ大きく息を吸った。
“はい、大丈夫です”
そこからはトントン拍子に会話が進んで、待ち合わせの時間と場所が決まった。
服は適当でいい。どうせすぐ脱ぐのだから。
メイクは崩れにくいものにしよう。きっと擦れるから。
お金は現金だけにしよう。カードや個人情報を抜かれたら困るから。
支度をすると共に流れる時間の波が、とてつもなく重たく感じる。後ろ髪を引かれる思いで、時計を無視した。
「𓏸𓏸ちゃん写真とまんまじゃん!」
待ち合わせの場所でしばらく待つと、知らない男の人に私ではない名前を呼ばれる。写真と違う顔をしているけど、顔はどうでもいい。
「ーーさんですね、はじめまして」
できる限りの笑顔を顔に貼り付けて返事を返す。挨拶もそこそこに、知らない男の人に連れられて建物に入った。
「てか𓏸𓏸ちゃんなんでアプリ入れたの?彼氏に困らなさそうじゃん」
事が終わって、タバコの煙の中知らない男の人は尋ねてきた。
「アプリ入れた理由ですか....?」
服を着直しながら、どうして?を自問自答するが、どれもこれも違う気がして答えられない。
カバンから消えたものがないことを確認して、無事なことに一息ついた。
相手がタバコを吸い終わりそうなのを横目に見ながら、今度は私がタバコに火をつける。
1度煙を肺に入れ、煙を吐き出すと共にありきたりな返答をした。
「今日は1人でいたくなかったからです」
ふーんと、知らない男の人はそれ以上追及してくることは無かった。
私は手元の煙を吐き出す灯をぼんやりと見つめた。
「....くさい....」
ボソッと声に出てしまった言葉に知らない男の人は気づいていない。
白いパッケージに入ったセッターは、私には美味しいと思えない。むしろタバコくさくて、吐きそうになる。
それでもふとコンビニに立ち寄ると買ってしまう。夜になると火をつけてしまう。大嫌いな匂いを求めてしまうようになって、1年になる。
建物を出て、知らない男の人は夜の街に消えて行った。
私は空を見上げて、また火をつける。口から煙が出ると共に、街灯がぼやっとしてはくっきりとする。その繰り返し。
スマホが日付が変わったことを知らすバイブが1度なった。
「お誕生日おめでと。....ごめんなさい。」
空に向けてつぶやく声は静かに消えて行った。
セッターが大好きなあの人と別れて、1年が過ぎた。
誰か
誰か殺して
誰か轢いて
そんな心の叫びを抱えながら、1日が終わる。
誰か時計を止めて
誰か明日をなくして
そんな心の叫びを抱えても、明日がやってくる。
誰か、誰でもいい。それなのに叶えてくれない。
神も仏も信じられない。悲痛な願いを叶えてくれないのだから。
誰かじゃなくて、あなたがそばにいて
誰かじゃなくて、あなたに抱きしめられたい
誰かじゃなくて、あなたに涙を拭って欲しい
そんな願いも、叶わない。
あなたも、誰も、叶えてくれない。
あなたも誰も信じられない。悲痛な願いを叶えてくれないのだから。
いつだっただろう。
誰かに、何かに、あなたに、頼ることをやめた。
ひとりぼっちで、自分の足で立ち続ける事に疲れながら、明日を迎える。
全てに願うことを辞めると、心が傷つかなくなった。
全てに願うことを辞めると、孤独が隣にいた。
孤独と共に、不安定な足元に立ち続ける。
時計の針が重なって
ニコニコ笑うことが疲れた。
朝起きることが疲れた。
人と話すことが疲れた。
ものを食べることが疲れた。
何もしたくない。
全て疲れた。
そうして足が向いたのは建物の屋上だった。
目を閉じた。
1歩踏み出した先は何も無くて、ジェットコースターのように落ちていった。
目を開けると、私の体はブルーシートに覆われた空間からストレッチャーで運ばれて消えた。
笑いが込み上げてきて、腹の底から笑う。涙が溢れる。何が面白いのか分からない。何が悲しいのか分からない。泣き声にも笑い声にも似ても似つかない声は空を切るように響くが誰の耳にも届かない。
ボーン
どこか古めかしい音が聞こえて振り返る。
どうやら音の主はアンティークにも新品にも見える大きな振り子時計らしい。カタカタと振り子時計の中で忙しなく動く歯車の音が聞こえる。
これはなんだろうと近づくと、針が23:56を示していた。先程の音は23:55を知らす音だったようだ。
振り子時計の中を覗き込むと、大小様々な歯車が見える。さらによく見ると、歯車に模様が刻み込まれていることに気づいた。
友達と笑ってる姿、部活動をしている姿、家族と談笑してる姿、アルバイトをしている姿、黒板に向かっている姿、振袖姿、制服姿。全て、私の過去の1ページを切り取った模様が浮かび上がる。
ただただ幸せに笑ってる姿や何かに真剣になってる姿を目にして、涙が溢れてくる。
泣いたその声もまた、誰の耳にも届かない。
カチッと確かに何か違う音がして、振り子時計を見上げる。
0:00、アナログの針と針がちょうど重なった瞬間だったらしい。
ボーン ボーン ボーン ボーンと、大きな音が鳴り響き、振り子時計が眩しく光り、さらに大きく、扉付きの時計へと姿を変える。
ギィと音を立てて開いた扉の先は何も見えないただただ白い空間。
少し後ずさる私に、扉から伸びたいくつもの白い手が絡みつく。抗えない強い力に引きずられ、白い空間へ私は飲み込まれた。