『遠くの空へ』をテーマに書かれた作文集
小説・日記・エッセーなど
「私、旅することにしたんだ〜!」
そう言って彼女は、
遠くの空へと、住む場所を変えた。
#『遠くの空』
No.90
#8 【遠くの空へ】
あの日見た
遠くの空へ
君の面影を映す
ただそれだけ
それだけでいい
お題:遠くの空へ
どこまでが空でどこからが宙なのだろうか。
飛行機という名の鉄と技術の塊に身体を預けながら、窓の外をぼんやりと眺める。
眼下に見える綿雲の先、色の抜けた淡い空も、見つめ続けるとその先に藍色を確かめることができて、不思議なものだと思う。
「僕らは同じ空の下」なんて言うけれど、何もないだだっ広い空間でしかない空に、上も下もないだろう。見つめれば見つめるほど広大で、イヤになるくらい突き抜けたこの空の中、私はちっぽけだ。
こつりと人差し指を窓に当てる。だからあの空の向こう、遠くの宙へ。どこかの星で同じ藍色を見つめている誰かに、機械仕掛けの船から心の中で信号を送るくらいでいいのだ。
遠くの空へ
鳥はつばさがあるから空を飛べるのかな
でも飛べない鳥だっている
だったら人だって空を飛べるはず
もしも空を飛べたら
遠くの空へ…あなたに会いに行きたい
話したいことも伝えたいこともあるから
遠くの空へ
遠くの空に行ってしまいたい。
なんにもいいことがない私。
どこに行ってもみられている気がする。
自分で何とかしようとすればするほど
わからなくなる
高次元存在から教わったこと 5
「肉を極力食べないほうがよい理由」
明治時代になってフリーメーソンたちによる
外国人たちの文化が入ってくるまで、
仏教の影響を受けて、日本では
牛肉、豚肉を食べる文化はなかったようだ。
そもそもなぜ、江戸時代の人たちまで
鳥肉以外の肉を食べなかったのか?
仏教の教えで当時の人たちは、四つ足動物を
食べるのは忌み嫌っていたという。
高次元存在から見たら、地球人が肉を食べるのも、
3次元世界ゆえにある意味仕方ないことだという。
なかには、肉が口に合わない、体質として
受け付けない方もお見えになるかと察している。
ビーガン、ベジタリアンの方もお見えに
なられるかと思う。
ただ、高次元存在から見たら肉は極力食べない
ほうがよいという。
なぜなら、豚、牛にしても人間と同じ心
を持っている高貴な生き物だからだ。
心を持っているということは、
姿、形、役割は違えど魂レベルが高い生き物
だからである。
それだけ、食べたりするとどうしても波動が
下がるという。5次元世界以上の世界において
肉を食べるという世界はないそうだ。
私も恥ずかしながら、高次元存在たちにご指導を
いただいている立場でありながら、
肉を時々食べてしまうのは、彼らに
申し訳ない氣分でいっぱいになる。
話は変わるが、どうしても仕事上、
肉をさばいたりしている
職場でも供養をすると聞いたことがある。
私たちは、食べ物をいただくことによって
まさに命の交換をしているのである。
そのため、「いただきます」という食べる
ことに対しての儀式を行う。
そのため、スマホ、テレビをみながら
食事をするのは、ありがたく食事をする
というより、食事は作業のような感覚では
ないかと私は見てしまう。
明らかに同じ食事をするにしても、
スマホをみながら食事をするのと、
食事をすることに集中して味わって、
食事をできることへの感謝で食事を摂る
のとでは同じものでも美味しさが違う。
このことは、改めて実験してみたら、
一目瞭然である。
話はそれてしまったが、肉を食べることに
ついて私たちと同じ心を持った存在だと
いうことを頭の片隅にでも入れて
いただけたら、うれしい限りである。
ビルの隙間から覗く空はとても窮屈で、
鳥も少し飛びづらそうに羽ばたいている。
それに比べ山あいを悠然と飛ぶ鳥は、
しがらみもなくとても自由に見える。
それはきっと私もあなたも同じだった。
お互いを縛りたくなくて、縛られたくなくて、
ひとつの括りに収まることを望まなかった。
お互いを結ぶのは一通の手紙だけ。
あなたは今海の上にいると言った。
私は今広く青い草原の中にいる。
遠くの空へ投げかけるように、
私はまた筆を取って手紙を書く。
きっとあなたも同じでしょう。
「どこにいても空は繋がっている」
それが私とあなたの合言葉だったから。
【遠くの空へ】
遠くの空へ
「死んでしまいましたか」とエイレンが聞いた。棺を見つめても望む返事は返ってこない。ああ、なんでこんなことに。これは、すべてエイレンのせい。涙は出なかったけれど、徐々に妙な罪悪感が渦巻き、ひどく煮えた感情が胸の中を囲った。
風が冷たい日。気晴らしにでもと外に出て、地平線のまたその先を見つめていた。ふと、横を見つめるとあなたがいる。目を見つめれば必然と、風に踊らされている髪に目が行ってしまう。思わずエイレンは手を伸ばした。
「飛んでいってしまいそうか?」
「違うのです。そうではなくて」
彼は面白おかしそうに尋ねる。何か誤解を、と弁明をしようとしている様子を見て、彼は耐えきれず笑い出した。
「すまない」
「いいのです……別に」
エイレンが不服そうに頬を膨らませると、今度は彼が両手を動かし、慌て出す。
今でもくっきりと記憶に残る、彼の声。
名前も知らなかった。けれど、何かの拍子を境に消えてしまいそうな素振りを見せる彼を放ってはおけない。だからずっと側にいたのに。
エイレンの質問に対して、最後の返事はなかった。
遠く遠い。近く近い。遠くて近い、近くて遠い。
空より上は、いろいろ薄い…ごみの多い昨今らしいが。
自分の中に「こんな反応・考えもあるのか」と知った昨日、パズルのピースのいくつかがはまるように腑に落ちることに黙る今日。
人間らしいのは人間だからだろう。
空が遠いとは思わないが、鎖をぶっちぎりたい。
新幹線で3時間、車で8時間。ここで暮らす私と、私が生まれて育った場所の距離。考え方のクセやら、人間関係への基本姿勢やら、価値観とか信念とかいう私のパーソナリティの根本ができた場所で、最近は、人生の全てが結局そこにあるような気がしている。いまだにその、遠い空のあの町に自分が暮らしているかのように、それか、あの町で暮らしていた自分が今を生きているかのように思う。
いわゆる大学デビューというやつで、恥ずかしくて耐えがたい私を断ち切れたと思ったときに、それまでの自分が剥離して、それがむくむくと形になったような。乖離してあっちで生きてる。今、あの頃のようにうまくいってなくて、情けなくて、悲しくて、なんにもできない人間だと思いながら過ごすことが多いから、あっちの私に引っ張られてるという気にでもなってるんだと思う。
どうやら周りはそれほど自分のことを無価値とは思わないらしい。ああいうときこういうときに自分を責めたりしないらしい。自分を責めて、自分に絶望するのがふつうだから、人を責めるのも見限るのも簡単にできる。
そりゃ変わらないか。同じ人間だもん、環境が変わってもたくさん経験をしても。だけど
置いてきてごめんね。いらないって思ってごめんね。いろいろあって、少しずつ、自分を大切に思えるようになったんだよ。いつか抱きしめに、ちゃんと迎えにいくからね。
「遠くの空へ」
私はまだ近くの芝生ばかり見てしまう
隣のは芝生は青く見える
悲しい気持ちになる時は決まって
あの子と違って私なんてダメなやつ
遠くの空は水色のような気持ちいい青空
これから私が進む道を青くすればいい
今がダメだと思って落ち込んで進むのをやめるより
これからの気持ちを肥料だと思って
時間がかかっても良い
いつか自信を持てる私になるために
今は前を向いて進んでいこう
きっと気づいたら周りは
素晴らしい芝生が広がっている
ちっちゃい頃から、
お父さんの仕事の都合で海外を転々としてきた。
たくさんの出会いと別れがあって、その度に悲しかった
けど、今や本当に色んな所に友達がいる。
小学生のとき。日本とは地続きですらない場所で、
空だけはおんなじものを共有できているのだと気づいた時から、空が好きになったよ。
高校生。日本に引っ越してきて遠くの友達と同じ時間を
生きて、同じ月の話を報告しあうのが楽しかったよ。
今日の空は綺麗だなぁ、とか。月がいい感じだ、とか。
そう思った時にふと考えること。
「あの子が住んでる場所はどんな空の色してるんだろ」
「今日の天気はイギリスを思い出すなぁ」
「あの県でも月は見えるのかな」
遠くの空なんてないよ。繋がりすらない場所の景色を、
私たちは想像しようとしない。空はいちばん近くにある
「綺麗だね」って私たちが共有できるもの。
だから遠くの空なんてないよ。
#1 遠くの空へ
ずっと〜笑顔・・に向かう。
強くになりました♥️🍀
みんなは笑顔になれるべき👌🏻🥰
コミュニケーションがお大事・・👌🏻😔
天つ風 雲の通路 吹き閉じよ をとめの姿 しばし留めん。中学2年生の時に百人一首の宿題があった時に覚えたものだ。何も知識もない私からみるとこれを詠んだひとは下衆い人なんだなと思った。
それから3年半ば少し経った私は今その歌を反芻している。家で作ったサンドウィッチを食んで真っ白なきゃんばすに絵の具という情報をこぼしている。
絵を描こうと思ったのは中学3年生の頃だ。絵を描くより本を書く方が好きだった私は絵がとても下手で98点だったのに評定は四だった。だから内申点もとりたかったし絵を練習し始めた。すると存外これが楽しい。目が自分なりに上手く描けると舞い上がってしまう。
やがて私は絵師を志すようになった。志望校もかなぐり捨てて美術の専門高校に入った。
でも生まれつきの不器用さゆえか凡人より上程度の実力にしか到達することはできなかった。
だから単位が吊り橋の様に危機的な状況になっている。教師にも親にも怒られて私はこの道はダメなんだろうか。と思いながら何となくふらっとこの丘に立ち寄った。公園っていうのはつまらないものだなと私は思うけど描いてしまう。私にはこれくらいがちょうどいい。やっぱり普通に進学すべきだったのだろうか。
絵を描いていると気分が重くなってしまってすぐに描くのをやめてしまった。雲を眺めてあれは羊だ。あれはアイスだとか幼児がやる様な遊びをしているといきなり天が割れた。文字通り。雲が晴れて青空が切り裂かれてそこに何が蠢いている。それは白い龍だった。あまりの美しさに私は無意識に筆を握っていた。
写真とか無粋なことはしない。このキャンバスにこの光景を閉じ込めたかった。何かが変わって何かが終わる音がした。これが芸術というものか。美しさの化身である龍は鳴いた。その音はどんな名曲にも勝る天上の音色だった。背景を描き終わって龍に取り掛かろうとしたら雲がまた集まり出した。待って、待ってくれ。まだ見ていたい。天つ風が雲を吹き閉じてくれる様に私は願った。その詩人の気持ちを身をもって理解した様な瞬間だった。それから5年私の家の壁には美しい空と真っ白な龍の様なシルエットが浮かんでいた。
お題遠くの空へ
この物語は半分フィクションです。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
テーマ 遠くの空へ
高く飛び立つように
もっとこの世界を見たいから
遠くの空へ
《遠くの空へ》
月のない夜空を割いたのは、夏の風物詩。
実は地面と平行に打ち上がっており、真横からではそれとわからないものもあるという。
火で色彩を放ち、大輪を咲かせることの美しさ。夜の闇が深ければ深い程、その輝きはより一層人々の心を捕らえて離さないのだろう。
職人の手によって何時間も掛けて作られ、されど誰かの前で咲く時間はその何分の一にも満たないもの。
努力が儚く宵に消えてしまうからこそ、人は美しいと思うのだろうか。
ただの色の違うだけの、火であるというのに。
とはいえ、そんな野暮なことを考えていられるのは花を前にしていないからだ。
職人の手によって、空へと打ち上げられて。
ただ一心に遠くの空へと光の軌跡を伸ばして。
ある一点、花咲くことを定められた場所で光を霧散させて。
ようやっと、空に散った色が姿を現すのだ。
それが、思わず溜め息が出るような、打ち上げ花火というものではないだろうか。
光と音に圧倒されて、苦しくなるくらいに魅入って、花火を見る。
それを大会にした最初の人には感謝しかない。
屋台の灯りとも違って、普段よく目にする人工的な灯りとも、太陽の光とも、月の光とも違って。
花火、というもの自体も美しいのである。
#遠くの空へ
遠くへ遠くへ
あの綺麗な花畑へ
あの綺麗な海へ
あの綺麗な空の元へ
この窮屈な場所を飛び出して
どうか、どうか
いつもいつも苦しかった
いつもいつも辛かった
いつもいつも1人になれなかった
学校でも家でも、誰かがついてくる
すごく……辛かった
ねぇ神様
この窮屈な場所を飛び出して
どうか、どうか
連れてって
あの夕日の先まで…
#5 遠くの空へ
飛んで、飛んで、飛んで。
まだ辿り着くことはない。
私が夢見る遠くの空へ。
私の羽はまだ届かない。
遠くの空を見上げる。
近くの液晶を見ないように、見ないように……
(今日は眼精疲労がすごい為、お休みです)
遠くの空へ
遠く、遠くへゆくたびに、近く、身近にあるものが際立った。然とそこにあったろう と、あたりまえにいました と言うのです。