忘れたくても忘れられない
あの日から、ぴぃとは話をしていない。
話かけない…というより、彼女が私を避けているような気がする。
避けられるたびに後悔と罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、なにより一番頭に残り続けている後悔と罪悪感は、まちがいなくあの時の行動だろう。
どうして引き止められた時手を振り払わなかったのだろう、引き寄せて翼で抱きしめたのだろう。
あの時、素直に彼女を抱きしめたいなんて思っただろうか。いや、そんな事思わなかった。それならなんで……
…きっと、
あの時言われたあの言葉を思い出したからだろう。
「なぁあんたさ、女の子を翼で抱きしめたら可愛いと思わへん?」
なんて聞かれて正常に答えられる人間の方が少ない。
それを忘れる人間も少ないはず。
それなのに私はあの日までずっと忘れていた。
……いや、友人で居る事に、目の前の出来事に必死になりすぎていて過去すら思い出そうとしなかったのだろう。
とっさの行動で、私は言い合いの末、白い羽毛の多い翼で彼女を抱きしめた。
困惑の表情を浮かべながらも彼女は包みこまれながらそっと私の翼を撫でていた。
なにはともあれ、後悔と罪悪感と嫌悪、様々な負の感情が募ったって避けられている事に変わりはない。
それでも何かが変わるというわけではなかった。
元々私の行く先行く先にぴぃが着いてきていただけで、行動する時に二人だったのが一人になっただけ。
変わらないけれど何処か嫌悪が邪魔をする。授業中だったとしても、私の目線は彼女を探し求めていた。
彼女を見つける。じっと見つめていると彼女と目があった。
私があっけにとられているうちに彼女はそっぽを向く。
そのたびに私はあのときの罵詈雑言を思い出して自分に嫌気がさす。
昼食ももちろん一人。屋上に行って黙々とコンビニ弁当を食べる。家族が作ってくれないわけではない。コンビニ弁当が好きだから好んで食べているだけだ。
コンビニ弁当が良いと相談された母は少し悲しそうな顔をしながらも「わかった」とだけ言ってくれた。
その表情が不思議とぴぃに似ている。
でも根本的に変わっている所は、劣情を持つか持たないかだけだ。
私は、彼女の悲しそうな顔を見て、心の奥底で劣情を抱いた。
私は忘れるように、梅干しとゴマが乗った白米にがっつき、おかずを口に放り込む。
昔の大失態も罵詈雑言も劣情も食事と一緒に全て消えてなくなってくれたらいいのにと願うように、私は弁当の中身を口に入れては飲み込んだ。
こんな感情、消えて欲しい。無くなれ。
葛藤している中で劣情を感じる私も嫌だし、寂しそうに笑って無理に誤魔化そうとしている彼女がこびりついて離れない。
いつもはしょっぱくてとても濃く感じるコンビニ弁当が、今日は不思議と味がしなかった。
昔からいつもそうだった。
人に流されて、嫌なことから逃げ続ける。そのわりに嫌になったらがっついて色々まくしたてる。
これじゃあ弁当の食べ方と同じだ。
昔、今みたいな食べ方をしていたら犬みたいと笑われた。
それを言うならお前だって鳥頭じゃねぇか。
…なんて小学生では言えなかった。
いくら忘れたい過去があったとしても、嫌でも脳は覚えていてたまーに頭の収納箱から取り出してくる。
結局、今日も彼女と話すことはなかった。
部活もないし、私は急いで家に帰る予定だ。私はそそくさと学校を出ていく。
走ろうと思っていたのに、外は大雨が降っていた。
天気予報では曇りのち晴れと言ってたのに、私のテレビは嘘つきだ。
このまま待つのも良いけど、ぴぃと話すのは何故か少し嫌だった。
私はびしょ濡れ覚悟で外へと出た。
大雨に当たってメガネがよく見えなくなる。翼もたくさんの羽毛が水を吸い取ってかなり重くなる。
とうとうマスクもびしょびしょに濡れてしまい、仕方なくマスクを取った。
見えづらいし、少しだけメガネも拭いておこうかな…
なんて考えていたら、懐かしいような、それでも何処かで何回も聞いたような声が耳に入ってくる。
「けー、こ……!…ケーコ!!」
私は思わず振り返った。振り返るとそこには、今まで話さなかった、話してくれなかった奴だった。
ぴぃは右手に見たこともないくらい大きな黒い傘をさしていたのにも関わらず、走ったのかローファーと靴下、肩までもびしょびしょに濡れていた。
「あー、っと……おは、ようさん。ケーコ。」
なにか言い訳を言われるのかと受け身を取っていたのに、言われた言葉は何故か挨拶だった。しかも朝の。
「…こんにちはでしょ、普通。」
と、こちらも口が動いていた。先程まで普通な雰囲気どころか険悪という話ではないような重苦しい雰囲気だったのに、会話はそれを感じさせることのない程普通で、私は若干拍子抜けした。
しばらく何も言えずにお互い見つめ合っている、と言うよりその場で固まっていると、雨がやみ、日の光が雲の隙間から差し込んできて私を照らした。
日の光は眩しい分、冷えた体を温めてくれた。
「傘忘れたん?」
ぴぃがそう聞いてくる。
「まぁね。」
私はたった一言そう返した。自慢気に言うつもりもない。でも、他の返し方なんて私は分からなかった。
私は彼女に手を伸ばして一緒に帰るように促す。
手を払いのけられるのが怖かったが、彼女はそっと手を握ってくれた。
私の手が雨で濡れて冷えているのか、彼女の手はとても暖かかった。
冷たさにぴぃは驚いていた。というか、若干引いていた。
そう文句を言ってても、私の手を離さなかった。
私はそっと翼を彼女に寄せるが、雨で濡れてとても重く、このままひっつけば彼女まで濡れてしまう。
私はそっと翼を数センチ離してぴぃを濡れない程度に包み込むような体制にした。
彼女はいつものように他愛もないつまらない話を私に話してくれていた。
この感情は、きっと彼女のどうでもいい話よりもくだらないだろう。
私は名前を呼ぶとそっと顔を近づけた。
ベタなドラマの展開のように彼女は持っていた黒い傘を落とす。
内気なくせに衝動ですぐ勝手に動く。
そのせいで私は後悔と罪悪感、嫌悪感までも抱え込む羽目になる。
きっとこの行動だってその一つだ。
いつだって私は忘れたくても忘れられない嫌悪につきまとわれるのだろう。
やわらかな光
「今日の天気は、曇りのち晴れ、太陽があまり見えない1日となりますが、雨の心配はないでしょう。」
テレビの天気予報を聞きながら焦げた食パンに崩れた目玉焼きを乗せてケチャップをかける。
毎朝目玉焼きトーストを食べて学校に行くのが日課となっていた。
ウチの家族は共働き。両親は毎月一ヶ月分の食材費を置いて仕事に集中する。どちらも夜まで帰ってこず、朝方になって帰って来てウチに挨拶もせず、すぐに寝る。
そのため、自分のご飯はもちろん、両親のご飯まで作らなければいけない。
金さえ置けば勝手に育ってくれる。
なんてこの親達は思っているのだろうか。まぁ、実際一人でもきちんと暮らして育っているのは事実やけど。
時間になると制服を来て家を出る。
「行ってきます。」
ウチの挨拶への返事は帰ってこなかった。
曇りのち晴れと天気予報士は言っていたが、ウチは折り畳み傘と、それじゃ雨を防げないかもしれない。途中で折れて壊れるかもしれない。
そつ疑って大きな傘も持っていった。
黒くて大きい変な傘。しかし、大きい分雨を防ぎやすい。
外に出ると雲の隙間からうっすらと朝日が差し込んでいた。
ウチは一度だけ朝日を見つめる。眩しくて目が痛くなる。そんな日の光が、数日前、自分を包みこんだあの白い翼と重なって、目を背けた。
あれからケーコとは話どころか、顔すら合わせてない。
数少ない友人と話さなくなれば悲しくなるかな。なんて思っていたのに、そんなことちっとも感じなかった。
いつも屋上で食べていた昼食も、教室で一人で食べた。
あまり話さなくなって喉が枯れることもなくなった。
でも、悲しさは感じなかったけど、何かが足りなかった。
今日も普通のように授業を受ける。
中学生になるまでの普通に戻ったはずなのに、何処かからっぽな気がしていた。
来週からテストなのに、授業が左耳から入って右耳から抜けていく。
赤点回避したかったのにこれじゃあ補修確定だ。
……いや、そもそもなんで赤点を取りたくないんだっけ。
補修がめんどうだから?多分それも理由なんだろう。両親に叱られるから?いや、あの大人達はウチの事なんか見てすらいない。
……あぁ、そっか。
理由に気づいた瞬間、勉強も何もかもどうでも良くなった気がした。
毎回のテストを赤点回避できたら、ケーコと遊ぶはずだった。
もう話さないんだから、どうだっていい。
もうこのまま授業を聞かずに赤点を取ってやろうか。補修も悪くないかもしれない。
そもそもウチは要領が悪い方で、優秀な自分の仮面を飾らないと行けない人間だった。
これからそんなこともなくなるのは気が楽だ。
ウチのはそんなどうでもいいことばかり考えながらシャープペンを回していた。
カラスのマスコットのチャームがついたキーホルダー。ケーコに貰ったものだ。
結局その日は授業なんて頭に入らなかった。
どうせやる気がないんだからどうでもいいのかもしれないけれど。
心の奥底でそう言い訳をしながら教科書をカバンに詰める。
最近の教科書は重くて本当に疲れる。なんで国語が二個もあるわけ?
教科書だけでこんなに分厚くなるか?
そんな事思っても学校がなんとかしてくれるわけでもない。結局ウチの愚痴は全て無意味なんだ。
だからずっと黙っていたんだろうな。
結局天気予報では雨の心配はないって言ってたくせに帰り道は信じられないほどの大雨が振っていた。
傘を持ってきて良かった。きっとこの様子だと折り畳み傘は無理だろう。
ウチは黒くて大きな傘をさして家に向かって歩き始める。
コンクリートのへこんだ場所に水が溜まって濁った水たまりができている。
歩道橋を渡って、そっと下を見下ろす。
目線の先を見て、頭が真っ白になった。
ケーコが歩道を歩いていた。
考える間もなく、歩道橋を渡り、階段を降りる。
「けー、こ……!」
ウチの声は雨の音と車の音にかき消された。
「ケーコ!」
久々に声を出した気がした。彼女はようやく気づき、後ろを振り返る。
思い切り走ったせいで水たまりの水が跳ね、足元はもちろん、傘もうまく持てずに体中が濡れていた。
彼女は傘もささずに豆鉄砲をくらったような顔でこちらを見ている。
ケーコも体、それと自慢のふわふわな翼もびしゃびしゃで、メガネにも水滴がついていた。
傘をさしていないのは、きっと傘を忘れたからだろう。
傘忘れたん?
今日曇りのち晴れ言うてたのに嘘やん
来週テストやのに風邪ひくで。
その場で言わなければいけないことは頭の中に思いついていた。
そうだったのに、たった一言、放った言葉にまた自分自身で幻滅した。
ケーコはしばらく固まったあと、ボソッと
「…こんにちはでしょ、普通。」
なんて返した。
その瞬間、ザーと聞こえていた雨音が急に鳴り止み、雲がどけていく。
雨がやんだのだろう。今更かよ。もうお互いびしょびしょだっての。
どけられた雲の隙間から日が差し込む。朝にみた日とは違って、少し赤みがかっていて、目に優しくない。
「傘、忘れたん?」
「まぁね。」
まぁねってなんだよ。自慢気に言いやがって。
ウチは若干不服に思いながらもうつむいていた目線をまず、ケーコの足元に当てる。徐々に自分の顔を上げていって、おそるおそる彼女の顔を見た。
髪も服もびしゃびしゃで、メガネは水滴まみれで恐れていた彼女の眼差しなんて見れない。でも、きっとメガネの奥はいつも通りの何気ない顔なんだろう。何気ない顔だったらいいのに。
太陽が移動して日がケーコに当たる。
彼女の翼は黒い髪の色と相反していつも綺麗なのに、今日はやわらかな光が差し込んでさらに美しく感じていた。
でも、この感情は美しさからの感動なんかじゃない。
彼女に向けるウチの感情は、きっと、
これは、駄目だ。言葉にすると戻れなくなりそうだった。
そんな汚い感情なんか知りもせず、ケーコはやわらかな光に当てられながら「帰ろう。」とウチに手を差し伸べた。
天使みたいやな。
なんて、感想はこれまたあっさりしていた。
鋭い眼差し
どうして人々には必ず翼が生えると神様は決めたのだろうか。
翼がないウチは、人間ですらないと言うんやろか。
翼がない。ただそれだけで色んな人から奇妙な目を向けられる。
不思議そうな人の目
不気味に思う人の目
逆に美しいと捉えた人の目
全てが気持ち悪かった。
なんで翼がないのなんて聞くな。ウチも好きで翼を無くして生まれたわけやない。
美しいとか変とかその言葉が自体が全部気持ち悪い。
翼が無いのが美しいってとらえるなら自分の翼を切り落としてみろよ。
翼がないのが変ならそんなやつが居ないところに勝手に行けよ。
でも、そんな事を言えば世間はもっと自分を不審に思う、特別な目で見てくる。
やから、自分の思考、感情、全部封をした。
とりあえず何かしらの面白い返しをすれば人間は馬鹿みたいに笑う。
人間なんて所詮単純な思考しか持たへん。
目の前の事で精一杯で脳を使うことすらしない。
そう考えれば、自分が上に立った気がして、気がすごい楽になった。
中学生になって、親の勝手な都合で地元からトーキョーに住むことになった。
ただでさえ都会だった地元と比べてさらに都会だったこの場所は、とてもうるさくて人の目につかない場所が多かった。
転校初日、白い翼を持った女の子と隣になった。
良く言えば白鳥、悪く言えば百均で売ってある偽物の羽みたいに真っ白で、ふかふかしていた。
だから、少し彼女の前でおどけてみせた。
「なぁあんたさ、女の子を翼で抱きしめたら可愛いと思わへん?」
半分本音、半分ギャグだった。
翼なんかで抱けるものなら抱いてみろ。抱いたって何かが得られるわけじゃないし、何か変わるわけでもないから。羽毛で邪魔だし痒くなるし。
なんて彼女を見てそう奥底でそう馬鹿にしていた。
それなのに、
「貴方にはそれができないからそんな事聞くわけ?」
困惑しながらもそんな言葉を返された。
彼女は、今まであった人間達と少し変わっていた。
翼がないという事実を突きつけてくる。それは同じなのに、こんなにあっさりと申し訳無さそうに言われると逆にすがすがしい。
それから会話が続いて、趣味の曲が同じで、初対面なのに、出会って当日なのに、二人で帰った。
それから、ウチが話題を複数ふって、彼女が返す。そんな関係が続いていた。
名前はケーコらしい。会話は続くけど、友達とは呼べないような変な子。
話をして、笑って、笑い続けていたら、いつの間にか、彼女と一緒に高校生になってた。
ケーコは青空が好き。昼になれば屋上で弁当を食べに行く彼女を犬のように着いていく。そのたびにうんざりそうにウチを「犬みたい」なんて言うけれど。
ある日、ウチはケーコに聞いた。
ただの興味本位だった。あんなにきれいな翼があるのに、空が好きなのに、どうしてそんな大きな翼で空を飛ばないんだろう。と、
それを口に出すと彼女の顔つきが変わった。
あ、これ、だめなやつだ。
人の目線、眼差ししか見てこなかったウチにはすぐわかった。きっと嫌がって泣くか悲しそうな顔をするだけだ。
なら、挽回すればいい。
ウチが笑いながら話を続けるとケーコはそれを遮った。ウチよりも大きな声で。
罵詈雑言、ウチへの不満、ベタベタ黒い感情を投げつけられた感触だった。
綺麗に全て言い終わった彼女ははっと我に返った。
ウチは、ケーコのあの圧に圧倒されて、声が出なかった。広角も上がらなかった。
ウチの事を犬みたいって笑うけど、まくし立てて罵詈雑言話すあんたも十分犬っころみたいやったで。
……なんてウチが言えるわけ無い。
とにかく笑わなきゃ、いい雰囲気が大切。
いやいや、二重人格の漫画の主人公やないんやから。
って簡単にツッコんでさえしておけば良かった。
それなのに、口から出た言葉はあまりにも素直すぎた。
なんとか挽回したくて、話をまくしたてる。そうだ。先程の話とは真逆に進もう。カラス?機能の晩ごはんの事?なんだっていい。
自分が作った不格好なおにぎりにわざとらしくかぶりついて話を続ける。
ケーコはこちらもみずにぱくぱくと無言で弁当を食べ進めていた。
やがて最後の一口を食べ終えると弁当箱や割り箸を袋に乱雑にしまった。
「………………帰る。」
そう言って立ち上がって屋上をあとにしようとする。
ケーコが離れていく。
慌ててウチはケーコの腕を必死につかんでいた。
頭に何かしらの言葉が浮かんでいた気がしたが、そんな事気にすることもなく腕を掴む。
ウチはもう、何も言えなかった。でも、彼女の肩に顔を置けば。
彼女は自分の白い翼でウチをそっと包み込んだ。
へー、できる人もいるんだ。
なんて、実際に包まれたらそれっぽっちしか感想が出てこなかった。
人間はモノサシでしかないと思っていた。
相手が見下す前にこっちが見下す。誰だって所詮おんなじ。それなら翼が無い分上に立ってやろうと。
でも、裏をめくればウチの方が目の前の事で精一杯で脳を使うことすらしない人間と同じだった。
翼で抱くなんて、半分ギャグだった。
でも、今わかったかもしれない。残りの本音は……
ただの汚い自分自身の欲望だと。
翼がないのと同時に、ウチは普通ではない。普通の翼もないし、普通の恋すらできない。
そう考えながらウチを包み込む翼に身を委ねた。
翼に血液は流れてるはずなのに、何故か冷たく感じたのは、冷たい風が強いからだろうか。
それとも……
ケーコに質問した時、反論を返された時、黙々と弁当を食べていた時……
そんな時と同じような
鋭い眼差しでケーコはこちらを見つめていた。
自分の心を無理矢理ぐちゃぐちゃに覗かれて、引き裂かれて、長時間見続ければ情緒がおかしくなりそうな表情と眼差しだった。
そんな彼女の眼差しがゆっくりと目を閉じてもまぶたの裏にくっついて離れないでいた。
高く高く
私は空を飛ぶことが苦手だ。
この世界の人間達には、それぞれ翼が生えている。黒い翼だったり、小さな翼だったり、ボロボロに見える翼も。
私も白くて羽毛が厚い大きな翼を持っている。
みんなはそれぞれ持つ翼で空を飛ぶ。
でも、それが私にはできない。
翼が悪いわけではない。飛ぼうと思えば私も飛ぶことができる。
そう。私は怖いのだ。
私達人間の飛び方は通常の鳥達とは違い、その場で飛ぶことができない。
まず、高い所から落ちて羽を羽ばたかせて体制を整える。
整えることができたら羽を広げて飛び続ける。
着地は体制を整えてうまく滑空する。
ただそれだけ。でも、一番初めの一歩が進めない。
私は高い場所から飛ぶことが怖くてできないのだ。
「なんで飛ばないのー?」
「面白いのに。」
「変なの」
むかしからそう言われ続けている。
私だって飛びたい。
だって、私は空が大好きだから。
透き通ったような水色とも藍色とも言えるような空に、はっきりと白く見える大きな雲。
昔からそんな大空に手を伸ばしたいと思っていた。
大きく跳びはねて、羽を広げて、空を見たい。
でも、好奇心や悔しさよりも恐怖が勝ってしまう。
根性の問題だなんて言われてしまえば、それまでなのかもしれないけれど。
でも、高校に入ってから、皆は空に執着することをやめてしまっていた。
それと同時に、私も空を飛ぶことを諦めてしまった。
「なぁ、ケーコ。あんたが空飛んでる所見たことあらへん、なんでなん?」
ある日、友人のぴぃが私に聞いてきた。
ぴぃは中学の頃からの友人。オーサカから引っ越してきて、突然隣の私に話しかけてきた事から関係が始まった。
「なぁあんたさ、女の子を翼で抱きしめたら可愛いと思わへん?」
初対面の私に話しかけた第一声がそれだった。
隣の席に座った見知らぬ人間が突然、ただぽつりと、昨日食べた晩御飯を聞かれたような感覚だった。
それなのに目を引いた理由はただ一つ、
彼女には翼がなかったかのだ。
他の人にはあるはずの翼が、彼女の背中には見当たらない。ただそれだけなのに、何処か魅力を感じた。
会話を続けてみるとたまたま好きな音楽が一緒のようで、それから気軽に話すようになっていき、流れるようにそのまま高校も同じところへと一緒に入った。
人と話すのが怖くて屋上に行けば彼女もついてきた。
人の視線が怖くてマスクをつけていたのに、彼女の前では取る事が多くなっていた。
彼女の前で話してないことの方が少ないと思っていた。
もし話さなくても、私の考えを読んで何も言わないでくれるのかなと思っていた。
「あ、もしかして怖かったり?」
それが突然、予想もしなかったことが彼女の口から出てきた。聞かれたくない事を、いつものように何食わぬ顔で聞いてきた。
彼女は考えを読んでいるわけじゃなかったのかもしれない。ただただ、たまたま私と都合があっていただけだったのかもしれない。
そんな嫌悪感と自分の身勝手な思考が恥ずかしくて、それを隠したくて、消したくて、見たくなくて。
「ねぇ、そんなの今関係ある?貴方も空を飛べとか言って人に押し付けるような人間なのね。そもそもお前は翼すらないし。翼が無いくせに私の事どうこう言われるの迷惑なんだけど。お前のそれ何?嫉妬?憧れ?なら勝手にやっててどうぞ。でも私には言わないで自分の中でボソボソ地味にやってろよ。」
口が勝手に動いていた。
私にそう言われると彼女は豆鉄砲をくらったような顔で固まったままじっと私の方を見つめていた。
自分が口にした言葉に気づき思わず口を塞いだ。しかし、言ってしまったときにはもう遅かった。彼女の顔を見れない。
私に嫌悪を抱いたかもしれない。そんな不安から私はずっとうつむいていた。
この沈黙が重苦しい。早くこの場から逃げれるものなら逃げたかった。
しばらくずっとうつむいていると、彼女が口を開いた。
彼女の口から出てきたのは、乾いた笑い声だった。
「ケーコのそんな言葉、初めて聞いたわ。」
彼女は笑っていたが、私は何も言えなかった。
「あ、そういや今日の朝なー、ウチの顔面にカラスが飛んできてー」
ぴぃはいつものように話し始めた。屋上の空を見て話し始め、昨日の事を思い出したと言って話し始める。
不格好に握られてあるおにぎりをぱくぱくと食べながら話していた。まるで先程の会話がなかったかのように。
私はそんな彼女を見ることができずにぱくぱくと無言で弁当を食べ続けた。
甘い卵焼きも、塩気のあるごぼうも、味を感じなかった。
笑いながら話を受け流す彼女が、遠くに行ってしまったような空気が漂って息が重苦しくなる。
まるで翼のない彼女の方が何故か空に届くほど高く飛んで地に沈む自分を見下ろしているような
そこには今まで感じたことのないような
なんとも言えない距離があった。