忘れられない。いつまでも
私は子供の頃食べたパンの味が忘れられない。
まあるいパン。
茶色い焦げ目がついていた。
綿みたいにふわふわだった。
半分に割るといちごジャムが顔をのぞかせる。
そのいちごジャムの甘い匂いと、焼きたての匂いがたまらなく好きだった。
特別なパンではない。
ごく普通のジャムパンだ。
おばあさんとおじいさんが2人で経営している店の。
しわしわの手がパンを上手にこねるのは見ていて夢中になった。
「また来てねぇ」と、
2人のくしゃくしゃの笑顔は誰だってまた行きたくなるだろう。
大人になった今、ふとそのことを思い出した。
そのパンが食べたい。
いや、またあの頃の温かさに触れたい。
猛烈にそう思った。
ふらふらと街を歩けば子供の頃を思い出して足が勝手に進む。
あの時の焼きたての匂い。
ふわっと香るパンの匂い。
パンをこねるしわしわの手。
忘れられない。いつまでも
一年前
一年前の春、私は目の前で電車を見た。
色あせた赤色の車体と鈍く動く車輪
踏切が赤色を点滅させて降りてくる。
桜の花びらが音と共に危険を知らせる。
踏切を越えた先には私が想っている人がいる。
―けれど私は迷いなく―
私は今、
想っている人を一番近くで見ている。
隣に歩くのは私じゃない。
けれど私は隣を歩いている。
繋いだ手は気づかれることはないけれど。
耳を澄ますと
耳を澄ますと、いろいろな音が聞こえてくる。
教室で僕はずっと耳を澄ましている。
楽しそうに笑う声
嬉しそうに話す声
今日の夕飯がどうとか、
お母さんのお弁当がどうとか、
ゲームとか推しの話。
もちろん悪い話も聞こえてくる。
あの子がうざい、あの子が嫌い。
噂話だって毎日だ。
けれども僕はずっと耳を澄ましている。
誰にも気づかれずみんなの話を聞くのが好きだ。
誰にも気づかれず。
教室の端で、みんなを眺めている。
「二人だけの秘密」
僕は1時間目の数学の授業を初めてサボった。
きっかけは隣の席の少女だった。
黒くて綺麗な髪をまっすぐに下ろして、
白くて雪みたいな肌の少女だ。
今は8月。僕と少女の席はエアコンが当たらない席だから、暑くて暑くて仕方がなかった。
僕は頬に次々と落ちてくる汗を手で拭っていた。
少女も額の汗をハンカチで拭っていた。
するとふと少女が言った。
「授業を抜け出してアイスでも食べない?」
僕は授業を抜け出すことに抵抗があったが、この暑い中ではアイスという言葉がとても魅力的だった。
先生にはバレないようにするから。と少女は笑って、迷っていた僕の手を引いて屋上へ向かった。
先生や周りの生徒にはバレなかった。
今思い返せばなぜだかわからないが、
その時の僕はそんなの気にしていなかった。
屋上に着くと青い空に入道雲。絵に描いたような景色だった。
少女と僕は屋上の冷たい床に座り込んだ。
少女はどこから持ってきたのかわからないソーダ味の棒アイスを2つ出した。
「二人だけの秘密。」
そう笑った少女の顔は誰よりも美しかった。
「優しさだけで、きっと」
私の夢は裁判官でした。
小さい頃にテレビドラマで見た裁判官はとても
かっこよかった。
悪い人から良い人を守る。
それが、小さい頃憧れるには充分な要素でした。
裁判官は皆、優しくて正義感があって、いつでも正しい。
そう、思っていました。
私は、気づけばもう32歳になっていました。
毎日なんの変哲もない日常、家、会社、社会。
子供はいません。妻もいません。家には私だけです。
毎日上司の顔色を伺っています。
毎日嫌々、印刷機の前に立っています。
社会の闇に触れ、ドロドロな人間関係、孤独、序列、差別、政治。
気づけば裁判官になるという立派な夢は、いつしか社会への希望とともに消えていました。
優しさだけで、きっと。
私はここしばらく、テレビなんて見ていません。