終わらない夏
20XX年8月31日。
俺は机の前で頭を抱えていた。手を付けていない山積みになった宿題の数々。
一緒に遊んでたアイツも、同じように苦しんでいると電話で愚痴っていた。少しのつもりが話し込んでしまって、母さんに怒られてようやく電話を切った。ふと時計をみたら、もう21時。
結果、俺はアイツを道連れにしてしまった。
スマン、この埋め合わせはどこかでしよう。
俺は机の参考書の山から目をそらし、カーテンを開けて夜空を見た。空には煌々と輝く満月が見える。
風が強いのか、さあっと稲が風にあおられる音が聞こえる。入り込んだ風がひんやりとして、気持ち良い。
明日は2学期の始まりなのだと、思い知らされた。
はあ。
俺は大きなため息を付いた。だからといって宿題が終わるわけでもない。だから俺はふと思ったんだ。
『8月が終わらなければいいのに』
20XX年8月10982日。
いまや、あの涼しいと思っていた8月31日は遠い昔のことだ。
あれから地球の温度は上がり、この時期は窓を開けても生ぬるい風しか入らなくなってしまった。あの遠い日が懐かしい。
俺が『8月が終わらなければいいのに』と願った次の日から、カレンダーはなぜか8月32日に書き変わっていた。
しかし8月31日の翌日は始業式。この定めからは逃げられなかった。
なんてことはない。8月は終わらなかったけど、2学期は何事もなかったかのように始まった。
なんなら定期テストもきっちり来たし、冬休みにお年玉ももらった。
卒業式もあったし、入学式もある。すべて、8月の出来事だったけど。
最初は大したことがないと思ってたけど、そのうち俺はこの状況が気持ち悪くなった。
こんなことなら宿題をきっちりやっておけば良かった。 今度は必ず宿題します……。
俺は今までが嘘のように、勉強に没頭するようになった。
早く9月1日が来るようにと願掛けをしていたのだけど、そんな俺の気も知らないで、8月は続いていく。
勉強をした結果、一流大学に入学した際も、就職活動を始めた時も8月だ。
内定が決まり、大企業への入社日も8月。
そこから働きを認められて今に至るが、それでも8月は続いていた。
若い頃の俺は、9月が来る方法を探していた。
現在はもうあきらめた。もう特に何の変化もない。
このまま8月でもいいのではないかと思い始めていた。
そんなある日、出張の帰りに実家に寄った。掃除をしてくれていたとはいえ、少しばかりほこりのかぶった自分の部屋で、日に焼けたカーテンを開く。
空には、あの日宿題を終えられなかった晩と同じ、満月が煌々と輝いていた。
昔のあの日のように、稲がさわさわと音を立てることはなくなったが、月は変わらず照らしている。
俺はあの日と同じように願った。
『9月1日が来ますように』
その瞬間、俺の顔を涼しい風が吹き上げ、カーテンがふわりとふくらんだ。
実家の周りは家ばかりになり、田んぼが消えたはずなのに、稲の葉のにおいがする。部屋の色褪せたカレンダーも、バタバタと音を立てた。
俺は思わず目を閉じた。
目を開けると、月は何事もなかったように浮いている。
ふと、風で落ちたカレンダーをみた。
9月だ!
学生の時は8月32日から始まっていたのに!
俺は何度もカレンダーを手にとって、めくって中を確認した。嘘じゃない。9月だ!
俺は思わず年甲斐もなくはしゃいでしまい、階段を上ってきた母に気がつくのが遅れてしまった。
翌日は何の騒ぎもなく、8月10983日は今年から9月1日になった。
あれは一体なんだったんだ。
もしかしたら、あの日の俺のような無数の誰かの願いが、時空を歪ませたのではないか、等とも想像してしまう。
遠くの空へ
深い夜空の中に、綺麗な星が浮かんでいる。この場所から遠くの空へと思いをはせる。
ああ、何て美しいのだろう。
星になって空の一部になってしまいそう。このまま意識ごと、吸い込まれるような気がする。
私は目の前に広がる天球を見てため息をついた。空に浮かぶ満点の空が、星々が時間を共に天球をめぐり、時間の流れを肌で感じた。
瞬く星座に、遠く空へ手を伸ばそうとしたが、やめた。
天球に響く女神のような声に身をゆだねる。このまま闇に吸い込まれたい。何度もまばたきをしながら、目を開いて必死に空を見つめ続ける。
女神の声と共に、銀河が、天の川が、星座が、星たちが天球を巡る。その動きを眺めながら、この流れゆく時にそのまま吸い込まれていきそうになっていく。
どうしてこの天球を見つめていると、意識がそのまま溶けて行ってしまいそうになるのだろう。
「…………この銀河は……」
何度も繰り返される、女神の様な声に耳を傾けながら、私のまぶたは重さに逆らえず、そのまま意識は遠のいていった。
「君の寝息が隣で聞こえてたよ」
プラネタリウムを出ていく人々の中に混じって、彼は歩きながら私の方をそっと見た。天文学が大好きな彼。私は彼の趣味についていこうとしたけれど、場所を聞いてイヤな予感はした。
やっぱりこうなった。
「ごめんなさい……どうしてもあの声を聴いていると眠くなって……」
「大丈夫だよ。君以外に結構寝てる人いたから」
彼のフォローが少々いたたまれない。
「ありがとう……あの」私は顔を真っ赤にしながら、彼の方を向いた。
「こんな私でもいい?」
「君だから、どこへ一緒に出来るだけで嬉しいよ」彼は耳の端を染めながらそう言うと、私の手を取って、望遠鏡の方へ一緒に歩いて行った。
少なくとも、天文台で居眠りはしないだろうと安心していたのだけど。
今日の流星群を見ようと、長蛇の列ができているという事は予測できなかった。彼はまったく気にしてなかったが。
正直、立ちっぱなしでパンプス履いていた足には少々きつかった。流星群はきれいなのだろうけど、それ以上に早く座ることだけを考えていた。
真夏の記憶
単一短歌五種
天の川光る三角見上げては 彼ら三角関係疑う
ひまわりが広がる畑の向こう側あなたと共にあの日を共に
パラソルの花咲く砂浜がよく見える海の家僕は夕日と海へ
宿題は存在しないと逃げて見た先の日めくり9月1日で
実家の縁遠い親戚顔を会わせても名前呼ばずに過ごす盆
泡になりたい
クーラーの効いた、落ち着いたレトロな喫茶店の中、彼はここではないどこかを見ているような声で、ポツリと言った。
「泡になりたい」
薄暗い喫茶店のなかには、私と彼以外の客はいない。マスターも奥に入っているのか、気配もない。
「そうなんだ」
それだけしか言えなかった。
彼の表情を見ることができず、うつむいたままアイスコーヒーの雫を見ている。
向かいの彼が青いクリームソーダのストローを回す。からりと氷の音がした。
私たちの間からはまた、言葉が消える。
「あの人が、僕の目の前で白いドレスを着てるのが辛かった」
再び彼が呟いた。
グレイのスーツを着た彼の、長い足が組み替えられる。磨かれた革靴が私の目にはいった。
私は手を組み替えた。いつもよりきれいなネイル。慣れないクリスタルが光るブレスレット。組み替えた音さえ聞こえるかと錯覚するほど、流れる音ははささやかで、エアコンの音は静かだった。
「そう……」
彼の気持ちは痛い程わかった。
晴れやかな席の中で祝いの言葉をのべながら、瞳の奥に深い何かが宿っていることに、少なくとも私は気付いていたから。
「見るのが辛いんだ……だから」
彼はうつむいた。半分ほど残っているクリームソーダは、青とアイスの白が混じりあって、夏の空のように見えた。
私は、彼の言葉に答えられなかった。
結局、喫茶店を出るときも、私たちの間にほとんど言葉はなく、本当にささやかなありがとうと、またね、だけが残された。
私は、そのときの彼の表情を見ることが出来なかった。それ以上に自分の顔を見られたくなかった。
それから数ヵ月後。
彼は青空のクリームソーダ、その泡の一粒となって、彼方へ溶けていった。
晴れ渡った夏の空を見上げながら、彼の思いを探してみたけれど、私には欠片ひとつも見つけられなかった。
ああ、彼は私の届かないところへ行ったのだと。
最後まで、私の心は彼に届かなかったのだと。
私は彼のいるかもしれない青空へと、手を伸ばした。
ただいま、夏
「あちー」
ペダルを漕ぐだけで汗がたらたらと流れる。近くだからと日焼け止めを塗らなかったせいで、半袖から延びる腕はじりじりと焼けていた。
「兄さんは鬼だ!」
この暑さのなか、アイスの買い出しに行かせた兄さんに文句を言う。今回もじゃんけんで負けた。アイス代は負けた方の負担だ。お金ないから、次負けたら安めのカップアイスにしようかと考えてたら、コンビニに着いた。
中で涼みながら、今日は何にするかとアイスコーナーを眺める。今回はレアな味が置いてあった。コーヒーリキュール味? すごいな。見たことない。
俺は迷わず二つ手に取る。あとは定番のバニラとストロベリーを1個ずつ。
店員さんの声に見送られて、再び自転車に乗る。急がないと溶けてしまう。
「ただいま」
俺はダイニングに駆け込んだ。
「お帰り」
兄さんはダイニングの机にぴったりと上半身を付けて座ったまま、俺の方に顔だけを向ける。
俺たちは、家に帰ってエアコンを付けたばかりだからまだ効いていない。蒸し暑い。
既に少し柔らかくなりかけてるアイスを2個冷蔵庫に入れて、兄さんの前にコーヒーリキュール味のアイスを置いた。
アイスを見ると、シャキッと起き上がった兄は、既に用意してあったスプーンをとって食べ始めた。顔を見るに、ハズレではなかったらしい。しばらく静かだった。ハズレならば口数が多い。
その間、俺が冷蔵庫から麦茶を出して飲んでいる時にふと兄さんの方を見ると、二つ目のアイスを食べていた。
俺は奪い返そうとしたが、間に合わなかった。
「名前を書いてなかったからな」
堂々と言う兄さんに、俺は思わず言い返した。
「そんな暇がいつあったと思ってんだよ!」
兄さんはそっと目をそらした。
悔しかったので、俺も兄さんのアイスを食べようとして、やめた。
いつかの夏も、それがバレてひどい目に遭ったし。
なんだかんだで、兄さんに勝てたためしはない。後が怖い俺は、今回はおとなしく泣き寝入りした。