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泡になりたい

 クーラーの効いた、落ち着いたレトロな喫茶店の中、彼はここではないどこかを見ているような声で、ポツリと言った。

「泡になりたい」

 薄暗い喫茶店のなかには、私と彼以外の客はいない。マスターも奥に入っているのか、気配もない。

「そうなんだ」

 それだけしか言えなかった。
 彼の表情を見ることができず、うつむいたままアイスコーヒーの雫を見ている。
 向かいの彼が青いクリームソーダのストローを回す。からりと氷の音がした。
 私たちの間からはまた、言葉が消える。

「あの人が、僕の目の前で白いドレスを着てるのが辛かった」

 再び彼が呟いた。
 グレイのスーツを着た彼の、長い足が組み替えられる。磨かれた革靴が私の目にはいった。
 私は手を組み替えた。いつもよりきれいなネイル。慣れないクリスタルが光るブレスレット。組み替えた音さえ聞こえるかと錯覚するほど、流れる音ははささやかで、エアコンの音は静かだった。

「そう……」

 彼の気持ちは痛い程わかった。
 晴れやかな席の中で祝いの言葉をのべながら、瞳の奥に深い何かが宿っていることに、少なくとも私は気付いていたから。

「見るのが辛いんだ……だから」

 彼はうつむいた。半分ほど残っているクリームソーダは、青とアイスの白が混じりあって、夏の空のように見えた。
 私は、彼の言葉に答えられなかった。

 結局、喫茶店を出るときも、私たちの間にほとんど言葉はなく、本当にささやかなありがとうと、またね、だけが残された。
 私は、そのときの彼の表情を見ることが出来なかった。それ以上に自分の顔を見られたくなかった。


 それから数ヵ月後。
 彼は青空のクリームソーダ、その泡の一粒となって、彼方へ溶けていった。

 晴れ渡った夏の空を見上げながら、彼の思いを探してみたけれど、私には欠片ひとつも見つけられなかった。

 ああ、彼は私の届かないところへ行ったのだと。
最後まで、私の心は彼に届かなかったのだと。

 私は彼のいるかもしれない青空へと、手を伸ばした。

8/6/2025, 9:21:32 AM