手紙を開くと 2025.5.4
「ただいま」
弟はむっつりと黙ったまま俺の傍を通り過ぎる。
なぜか弟はぼんやりとしていた。
先ほどからなぜか目を合わせない弟に、俺は一体何をしたのだろうかと考える。
何かしただろうか。
弟のタオルを勝手に使ったわけでもなく、ジーンズを乾燥機に入れたわけでもない。
食事当番は確か弟で、料理に文句を言ったわけでもない。思いつくことと言えば、弟の靴下を履いてしまったことだろうか。
謝るか。
俺は弟の部屋のドアをノックする。
明らかにいる気配がするのに無視された。
靴下を勝手に履いたことを謝りたいと思い、俺は1時間扉の前に張り付いて弟が出てくるのを待った。
1時間半後。
弟はようやく扉を開けてくれた。
「兄さん………もしかしてずっとここにいたのか? 暇だな」
確かに特にするべきことは無かったが、それはないだろう。
俺が口を開こうとしたその時、
「兄さん……これ……」
弟は俺にピンクの封筒を渡してきた。どうやら手紙らしい。
珍しいな。一体何が書いてあるんだ。
俺はリビングにハサミを取りに行くと、慎重に封を切る。なぜか弟もついてきて、俺の向かいに座る。
俺は封を切ると、中を開いた。
「ひと目見たあの日から、ずっと愛していました……」で始まるそれは、明らかにラブレターである。
弟……! これは一体!! 俺は目を見開いて弟を見た。
弟はおもむろに封筒を5通ほど取り出し、俺の眼の前に置いた。
「以前大学の文化祭に来てくれただろ? その時に兄さんに惚れた女子から」
お前あてのはなかったのか、などと俺は恐ろしくて聞くことができなかったが、よく見ると、中に一通、弟あてのものが混じっていた。
俺はその手紙を弟に渡した。
弟は手紙を受け取ると、舞い上がったのか、部屋中をウロウロしだした。慎重に便せんを開いては閉じ、開いては閉じを繰り返して気持ちの悪い笑みを浮かべて部屋へ戻っていった。
後日、俺は弟にラブレターの返事(内容はお断りである)を渡した。直接がいいのだろうが、部外者が立ち入るわけにはいかない。
弟は、無事に渡してくれたらしいが、弟はなぜか手紙をくれた女子とは付き合わなかったようだ。
勿体ない。
すれ違う瞳 2025.5.3
朝食後。すでに出ていく準備を終えて、まだ家を出るまでに時間があった俺はのんびりとテレビに映る天気予報を眺めていた。
ふと壁のカレンダーに見た後、時計を目にした。
……俺はこのとき思ったんだ。
兄さんに俺のこの思いをわかってほしい。俺の望みをかなえて欲しい。
俺はテレビから目を離すと、兄さんに熱い視線を送った。
ああ、兄さん……。
俺はソファに転がって兄さんの背中を見つめる。
俺の願い、わかってるんだろ?
俺の考えてること、わかってるはずなのに、どうして振り向いてくれないんだ?
兄さんは俺に背を向けて、出社の準備をしている。見つめる俺の瞳になど、気づきもしないで。
*****
朝食後のこと。
俺はテレビから流れてくる天気予報に耳を傾けながら、ワイシャツを羽織り、ネクタイを締めていた。
背後から視線を感じたが、気のせいだろう。
特に気にすることもなく、髪を整えて鏡でチェックする。
すると、壁に貼ってあったカレンダーが目に入る。隣の時計も見ると、そろそろ出社の時間だ。
ああ、弟よ。
俺の願いが伝わるだろうか。そう願いながら弟に熱い眼差しを送る。
気づいてくれ。この思いにどうか。
しかし弟は俺の方に瞳を向けず、スマホをいじっていた。
不意に弟がスマホから目を離し、俺の方を見た。ひたと見つめる眼差しが、俺に何かを訴えかける強いものを宿していた。
*****
俺はスマホから目を離して顔を上げ、願いを込めて兄さんの瞳を見つめた。兄さんの瞳には、何かを期待する色が浮かんでいる。
俺の中にある期待は、兄さんに伝わるだろうか。
見つめ合って、どれくらいの時間が過ぎんだろうか。
ようやく俺はソファから起き上がると、兄さんに近づいた。兄さんは俺がいたソファに近づいてくる。
俺は、兄さんに気持ちをぶつけた。
兄さんも俺に思いを伝えてきた。
「ゴミ出しに行ってくれよ」
ゴミ捨て場自体はマンションに付属している。
しかしずいぶんと奥まったところにあるため、一旦ゴミ捨て場に行ってから、引き返して道路に出ないといけない。
歩いていくのが面倒だった俺は兄さんに訴えたのだが、どうやら兄さんも同じ気持ちだったらしい。
お互いに分かりあった俺たちは、用意したゴミ袋を押し付け合い、遅刻ギリギリまで粘る。
「あっ」
そんな俺たちのあいだにあったもみくちゃにされたゴミ袋は裂け、この時期の生ゴミが玄関にーー
お互いにブツブツ言い合いながらごみを片付けた。
そして結局ささやかな争いに負けた俺がゴミを持って家を出ることに。
その時、兄さんが会社に遅れることを連絡しているのが見えた。
だったら最初から兄さんがゴミ出しすればいいのに。
結局ごみ出しには遅刻し、
俺も授業に遅刻した。
sweet memories
「今日はありがとう」
あなたは、私を振り返って微笑んだ。彼女の頬がどことなく赤く染まっているように見えたが、僕の気のせいだったのかもしれない。
夕陽で空がオレンジ色に染まり、僕たちもオレンジ色に照らす。彼女の顔が夕陽に照らされて夕焼け色に染まる。
そんな彼女の表情に一瞬見惚れた。
先程浮かべた笑顔が、今はなんだか少しだけ物言いたげに僕の方を見る。
彼女の今まで見せたことのなかった表情に目を奪われる。
「あのね、私……」
彼女の頬が染まるのは、夕焼けのせいなのか、それとも、僕が期待してしまったからなのか。
伝えるのなら今だ。
僕は思わず彼女の名前を呼んだ。
彼女はハッとして僕の目を見つめる。
「好きなんだ」
彼女の目に涙が滲み、僕の胸に飛び込んできた。
「そんなこともあったね」
ソファに坐った彼女は、僕と一緒に写った写真を何枚も眺めながら、僕に向かって微笑んだ。
家で2人でじっと部屋で過ごした時の写真。
海や山に行って撮ってきたたくさんの写真。
そして、あの日告白する前に撮った夕焼け色。
あの日と同じ夕焼け色が窓から差し込み、あの時と同じように彼女の頬を照らす。
その時のことを思い出して、僕の顔も思わず胸が高鳴る。
今では僕の妻となった彼女は、隣に座る僕に身を寄せ、銀色にきらりと光る指を絡めた。
好きになれない 嫌いになれない 2025.4.29
「悪いが、頼みたいことがあるんだ」
兄さんの声がする。
ああ、それどころじゃないんだ。
俺は今、あいつのために時間を取られているのだから。
パソコンの前に座って、今あいつと向き合っている。
あいつの存在は、思い出すだけで辛い時がある。
あいつさえなければ、もしかしたらずっと楽しい日々が続くと思うんだ。
だけど、あいつからは逃げられない。
あいつのことが頭から離れない。
例えば、そう。
バイトが忙しくてあいつにかかりっきりになれない時とか。
来週の3日までになんとかしないといけなくて、あいつと向き合わないといけなくなるときとか。
あいつに付き合わないといけない時に限って、疲れてしまってすぐベッドに入りたくなったり机を片付けたくなったりする。
そんな時には、特にあいつのことをうっとうしく感じるんだ。
分かっている。本当はもう、あいつと向き合わなければならないんだと。逃げられないんだと。
分かっているからこそ、いつもあいつのことが頭から離れない。
バイトをしていても、食事をしていても、ゲームをしていても、朝起きてから、夜寝る前でさえ。
だから、どんなにあいつを好きになろうとしても、それでも好きになれないでいる。
だからといってあいつのことが嫌いになれない。本当は、嫌いじゃないから。
それに、完全に嫌いになってしまったら、もう人生詰んでしまう。
結局、俺はあいつと逃げずに向き合って、言葉にするしかないんだ。
俺はパソコンの前に渋々座ると、目の前の画面を見てため息をついた。
そんな時だった。兄さんがようやく何を言っているのかわかった。
「弟、聞こえてるか? コンビニに醤油買いに行って欲しいんだが」
俺はパソコンの前で唸りながら返事する。
「今レポート書いてんだよ」
ふとした瞬間 2025.4.27
「そっかぁ。お前、小説書き始めたんだな」
テーブルを挟んだ向かいで缶ビールを開けている、親友のカオルに俺は声をかけた。
「実は、俺も小説書いててさ」
俺はさきイカを口に放り込んでいるカオルに向かって、ビールをついでやりながら打ち明ける。
「へぇ~コウキもなんだ。ペンネームとかあんの?」
「ああ、俺の名前『コウキ(光輝)』からは、わからないかもしれないけど『エレノア』にしたんだ」
エレノアというのは、編集者がつけた名前だ。
何でも、俺の作品はとても繊細とのことで、売り出すなら、女性名のほうが良いと言う提案を受けたからだった。そうしてこっそりと作家活動をしていたのだ。カオルにも内緒で。
「あ〜。だから分かんなかったんだ」
カオルはポテチをつまみながら俺の方を見た。
前から思っていたが、カオルは細身のくせによく食べる。しかし、今日初めて知った。文章を書くとは。
「そういえば、コウキはどんな話を書くんだ?」
カオルが俺にチューハイを渡してくれる。
俺は缶を開けると、一口飲んでから言った。
「ちょっと恥ずかしいけど、ラブストーリー書いててさ」
実は俺の得意分野である。
男女の繊細な心の動きが素晴らしい、という高い評価をいただいて売り出したのだった。今はまだデビューしたばかりでまだまだ下積みではあるが。
「へぇ~。ラブストーリー書いてるんだ」
カオルは足を組み替えると、大きく伸びをする。
「実は、切ない恋愛書きたくって。今のテーマは遠距離恋愛の切なさみたいなのを考えててさ……でも恥ずかしいから言うなよ」
俺は現在考えているプロットをポロリとこぼしてしまった。口止めしたし、あいつはあちこちでしゃべらないタイプだ。大丈夫だろう。
「奇遇だな、俺もだよ。遠距離恋愛をテーマにした、切ない恋愛物も外せなくてさ」
外せなくて?
ふとした瞬間、俺の中で嫌な予感がした。
「なあ、おいひょっとして」俺が尋ねると、
「やっぱカッコイイアクションシーンもりもり入れたいよな! それに切ない2人の濃厚なラブシーンも。なあ、合作しよう?」
俺は断りきれず、匿名でカオルと合作したのだが、結果は繊細な話が好きな層にはアクションが受けず、アクションが好きな層には俺の話は展開が遅かったと、評判は今ひとつだったことは言うまでもない。
「お前の展開、悪くないんだけどもうちょっとこう波乱万丈でも良くね?」
「いや、ここは男女の機微に焦点を当てたやりとりをしっとりと味わうところで」
俺とカオルは創作の方向性が違いすぎ、お互いを否定しあっていた。だが、やはり作家に敬意を払えなかった俺が悪い。
俺はカオルに頭を下げて、カオルはそれを許してくれて、仲直りが出来た。
こうして、書き手としての俺とカオルの縁は一度切れた。
しかし、俺たちは通常の親友としての付き合いをやめたわけではない。
一緒に酒を飲んだり、遊びに行ったりと付かず離れずの付き合いだ。
ただ、創作の話題が一切出ないだけで。
そして、大学卒業とともに、疎遠になってから10年後。
カオルは昨年賞を取り、新進気鋭の作家、パフューム.Yとなって部数を伸ばしているようだ。出版業界に身を置いていると、こんな話が耳に入る。
そして俺も、文壇では心の機微を描く繊細な作家という評価を受け、派手さはないが一定数のファンがついている。ファンにはとても感謝している。
俺達は共に作家になったわけだが、作品傾向は交わらない。なので疎遠のままだと思ってたのだが……。
まさか企画もので合作することになるとは。
あの惨憺たる結果を今一度出す気なのか企画者は。
しかし、大手のスポンサーだ。逆らうことも出来ない。
前編担当の、俺が書いたあの作品傾向の話を、カオルは一体どうやって回収する気だ。
俺の心のなかで、俺が作った、繊細な作品世界が破壊される恐怖と、もやもや、同時に怖いもの見たさが戦っていた。