しぎい

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6/27/2025, 3:42:04 AM

シートベルト着用のランプが消えた。機内の客がいっせいに金具を外す音で機内を埋め尽くす。
俺は緩くカーブが描かれた四角い窓に目をやりながら、運ばれてきたコーヒーに口をつける。
飛行機に乗るのなんか何年ぶりで、少し恐怖心もあったが、乗ってしまえばなんてことはない。一番気になっていた離陸時の浮遊感も、そんなに不快なものではなかった。それどころか少し癖になりそうなくらいだ。

(なんだ、案外いいもんじゃん。飛行機って)

エコノミークラスでも座り心地は十分だし、コーヒーもそれなりにうまい。
なぜあんなに毛嫌いしていたんだろう、と思い当たる理由をぼんやりと考え連ねていると、真ん中の座席の俺の後方から、大きなものが倒れたような音がした。
機内中の視線がその音のした方向へ集中する。俺もコーヒーをトレイに置いて、大勢の客に倣ってそちらを見る。
目線の先には、さきほどコーヒーを笑顔で手渡してくれたキャビンアテンダントの女性が倒れていた。飲料やカップ、スナック菓子を載せたワゴンごと倒れている。
全身をびくびくと痙攣させ、手や足があらぬ方向に曲がっている。目の焦点があっていない。時おり奇声のようなものを発していた。

キャビンアテンダントの豹変に、機内は騒然とした。近くにいた乗客はなるべく倒れる彼女から距離を取ろうとする。密閉された空間でその対処は、上手な世渡り術としては適切だと思った。
しかし俺はどうだろう、と胸に手を当てる。コーヒーを手渡してくれたときの、優しい笑顔が頭から離れなかった。

俺は隣で呆然と背後の喧騒を見物していた客に「すいません」と断り、通路に抜けた。好奇心と冷やかしがないまぜになった視線を浴びながら、後方めがけて通路をずんずん歩く。
現場はもっと悲惨な状況だった。紙コップや菓子類が散乱している。恐らく注いでいる最中だったのだろう、熱々のコーヒーが彼女の腕とはいわずを全身にかかっていた。

地面に膝をつき、「大丈夫ですか」と声をかける。周囲のキャビンアテンダントたちが「医療関係の方ですか?」と泣き出しそうな声で縋り付いてくる。
申し訳なくなって、「いや、俺は……」と自分の身分を明かそうとしたそのとき、地面に倒れていたキャビンアテンダントがいきなり強い力で俺の腕を掴んできた。
俺も周囲も驚きに目を見開いていると、般若のような形相をしていた彼女が、俺にコーヒーを差し出してくれたときみたいな優しい顔になって、

「この中に、お医者様はいらっしゃいませんか」

そう微笑んだきり、彼女は糸が切れたようにぱたりと意識を手放した。俺の腕を掴む力はそのままで。

6/22/2025, 4:36:56 AM

男を待ち続ける女の背中は、今まで老若男女のあらゆる背中を見てきた俺から見ても、最も汚く見えた。
その女は裸で寝台に仰向けに寝転びつつ、肩越しに振り向きはにかむ。

「あの人のことを刻みつけるように、できるだけ痛く彫って」

白い歯をこぼした笑顔は凄まじく綺麗なのに。
言われなくても、という言葉を口にする前に、俺は雪原のように真っ白な背中に申し訳程度の下準備を施したら、予告もなく針を刺した。
とたん、引き攣れたような声が狭いスタジオ内に響き渡る。
痙攣を引き起こしそうなくらいの痛がりように、いったん施術をストップせざるを得なかった。

「痛くしろって言ったのはあんただろ」

キャスターがついた丸椅子を、涙や鼻水まみれで情けない顔に寄せ、血が昇り真っ赤になった耳元で囁く。
すると息も絶え絶えな女がこちらを見て、懇願してきた。

「これじゃ持たないって。もっと優しく、ゆっくりお願い」

俺はそれを腕を組みながら見下ろす。私情が入り込んでいたのは否めない。それでもやはり「だめだ」と一刀両断した。

「なんでよ」
「奴を忘れないための手伝いなんて胸糞悪い仕事、俺がお優しくするかっつーの。手元が狂って心臓を一突きされたくなかったら、他のスタジオを探すんだな」

女が不満そうにむっと口を尖らせる。
上げかけていた上半身をまた仰向けにし、「串刺しにでもどうにでもしろよ」とぷりぷりと怒った口ぶりで言った。

怒れる背中からは葛藤のようなものが感じ取れた。しかし完全に拒絶されたわけではない。
針を手にしていた男は、女の背後で顔を緩めた。

「お前なら、そう言ってくれると信じていたよ」

6/15/2025, 4:02:33 PM

マグカップで作るプリンを占いみたいに使ってる。
縁が焦げれば明日は晴れ。どろどろに溶けてたら大雨。そうそうおいしくできることはないから安心だけど、もし完成度が高いプリンができたら地震。

明日は雨が降ったらいいなって、わざと失敗する方向に仕向けた。

思いが届いたのか知らんけど、縁は焦げてるけど中身が生焼けの最悪の出来だった。晴れ時々暴風雨……?

6/9/2025, 3:48:57 PM

深夜帯のコンビニの店員のぼそぼそした挨拶を素通りして、カゴに詰められるだけの食料を詰めていく。
このコンビニの商品の配置は把握している。目を閉じていても完璧な動線で動ける自信がある。
いっぱいになったカゴの中身は、スイーツから弁当から雑誌まで、ない品目はないといった感じ。それだけで私の充足感は満たされ、スキップしたいような心地で店を出る。
そこがピーク。外に出てしばらく夜道を歩いていたら、こんなに食料買い込んでどうすんの、と反動が来る。
大きくて重いだけのビニール袋の中身を覗き見る。弁当やパスタやカップ麺の上に、謎に大量に買い込んだコンビニ価格のチロルチョコが、星のように散りばめられている。
頭上だけでなく袋の中にも広がる夜空が、今わたしが縋りつきながら生きている世界なんて信じたくないけど。

5/30/2025, 2:32:43 PM

おやすみ、って言葉がずっと嫌い。

その言葉を口にしたら最後、翌朝、いつもどおりの朝が訪れてくれなさそうで無理。人が言うのはいいんだけど、自分が言うのは本当に無理。
目を覚ましたら息をしてなかったとか心臓が止まってるとかほんと想像しただけで無理。いやそういうことは今までないけど、それも今まで言ってこなかった甲斐あってのものかと思うとなおさら無理。

どこまで行っても天邪鬼な私は代わりに「明日も会おうね。約束だよ」ってしつこいくらい念を押す。なんかメンヘラじみてて草。

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