シートベルト着用のランプが消えた。機内の客がいっせいに金具を外す音で機内を埋め尽くす。
俺は緩くカーブが描かれた四角い窓に目をやりながら、運ばれてきたコーヒーに口をつける。
飛行機に乗るのなんか何年ぶりで、少し恐怖心もあったが、乗ってしまえばなんてことはない。一番気になっていた離陸時の浮遊感も、そんなに不快なものではなかった。それどころか少し癖になりそうなくらいだ。
(なんだ、案外いいもんじゃん。飛行機って)
エコノミークラスでも座り心地は十分だし、コーヒーもそれなりにうまい。
なぜあんなに毛嫌いしていたんだろう、と思い当たる理由をぼんやりと考え連ねていると、真ん中の座席の俺の後方から、大きなものが倒れたような音がした。
機内中の視線がその音のした方向へ集中する。俺もコーヒーをトレイに置いて、大勢の客に倣ってそちらを見る。
目線の先には、さきほどコーヒーを笑顔で手渡してくれたキャビンアテンダントの女性が倒れていた。飲料やカップ、スナック菓子を載せたワゴンごと倒れている。
全身をびくびくと痙攣させ、手や足があらぬ方向に曲がっている。目の焦点があっていない。時おり奇声のようなものを発していた。
キャビンアテンダントの豹変に、機内は騒然とした。近くにいた乗客はなるべく倒れる彼女から距離を取ろうとする。密閉された空間でその対処は、上手な世渡り術としては適切だと思った。
しかし俺はどうだろう、と胸に手を当てる。コーヒーを手渡してくれたときの、優しい笑顔が頭から離れなかった。
俺は隣で呆然と背後の喧騒を見物していた客に「すいません」と断り、通路に抜けた。好奇心と冷やかしがないまぜになった視線を浴びながら、後方めがけて通路をずんずん歩く。
現場はもっと悲惨な状況だった。紙コップや菓子類が散乱している。恐らく注いでいる最中だったのだろう、熱々のコーヒーが彼女の腕とはいわずを全身にかかっていた。
地面に膝をつき、「大丈夫ですか」と声をかける。周囲のキャビンアテンダントたちが「医療関係の方ですか?」と泣き出しそうな声で縋り付いてくる。
申し訳なくなって、「いや、俺は……」と自分の身分を明かそうとしたそのとき、地面に倒れていたキャビンアテンダントがいきなり強い力で俺の腕を掴んできた。
俺も周囲も驚きに目を見開いていると、般若のような形相をしていた彼女が、俺にコーヒーを差し出してくれたときみたいな優しい顔になって、
「この中に、お医者様はいらっしゃいませんか」
そう微笑んだきり、彼女は糸が切れたようにぱたりと意識を手放した。俺の腕を掴む力はそのままで。
6/27/2025, 3:42:04 AM