校舎裏をひとり歩いてた。
すると自分の名前を呼ぶ声が頭上から聞こえてきた。反射的に上を見上げる。
瞬間、視界が白で染まった。とたん、顔面にびしゃりと打ちつけられる顔面にぬるい液体。春先に浴びせかけられるにはまだ冷たい。
止めていた息を再開すると、生臭く、どこか懐かしい匂いがした。
数拍置いて、僕はそれがようやく牛乳だと気がついた。中学校の給食以来とんと縁がなかったので忘れていた。
口の中にも少し入ってしまった。
何を入れられてるのか分からないのに、そんなときに行儀とか気にしていられない。地面に白い唾を吐いた。
ついで元凶を睨みあげる。そこにはやはり、潰した牛乳パックを逆に持ち、恍惚とした浮かべる女がいた。
「あー、その絶対殺してやるって目いい。好き。もっとそういう目で見て。てかいっそ殺して」
清楚な女子高生のお手本みたいなその女は、だらしなく相好を崩壊させながら、牛乳パックを持っていない片手を頬に添えている。
僕が一つ盛大な舌打ちを漏らすと、女は甲高い奇声を発し窓ガラスをばんばんと叩いた。
湿り気と臭いを髪だけならず制服にもまとわりつかせながら、僕は全学年共同の水道に向かった。
水圧をマックスにしてもちょろちょろとしか出てこない水道に殺意を覚えつつも、何とか頭に降り掛かった牛乳は洗い流せた。濡れた髪は自然乾燥しかない。
「好きだったのになあ」
次は制服を脱いでごしごし水洗いしているその間、僕は気がつくと不満顔になってぼやいていた。
「ていうかあのハイとローの谷間のジェットコースターみたいな性癖なければ好きなんだよ、今も」
問題は、その性癖を人に押し付けないでほしいな。いったん口に出してしまうと、自然こする力が強くなる。
きゅっと蛇口をひねって濡れたシャツを絞り、適当なところで切り上げる。上着を着ていなくて助かった。
「そもそもなんで僕があいつの欲望のために我慢しなきゃいけないんだよ。好きだって言ってきたの向こうだっつーのに」
それで「僕も好きだよ」と言ったら、「私に優しくしないで! もっと憎んで! 蔑んで!」と逃げられたことがある。じゃあどうしろと。
どうにもうまくいかない、とまだ濡れたシャツを羽織る。
「好きだよ、殺したいくらい……だめか」
第一そんなことを言ったら、本当にそうしてくれると期待した彼女がナイフやロープを持ってきそうだ。
そんなのじゃなくって。
――僕はただ、君と健全な付き合いがしたいだけなんだ。
「これでいくか……?」
次の一手をもんもんと考えながら、僕はチャイムが鳴っている校舎に戻った。
母が敬虔なカトリック信者です。話を聞いていただけますか。
……少しだけ。はい、それでもいいてす。こんな時間に駆け込んできた私も私ですから。
――今朝、ある男子生徒の死体で発見されました。その男子生徒は私が担当しているクラスの生徒の一人です。
第一発見者は、朝早くから掃除に赴いていた用務員です。
今日は特別寒かったですね。ですから早朝の校庭には朝もやが立ち込めていました。
その用務員の方は、はじめ巨大なハチの巣がぶら下がっているように見えたのだとか。その後に死体とわかったらしいのですが、そのときの用務員の方の心中を察すると、申し訳ないやら羨ましいやら……。
……あ、羨ましいというのは語弊がありますが。
申し訳ありません。なにせまだ発見から一日も経っていませんから。私もかなり気が動転しているようで。曲がりなりにも国語教師が情けない。
私は思います。冷え冷えとした朝もやがかかる中、散りかけの桜の樹の下でハチの巣よろしくぶら下がる彼は、どんな絶景にも勝る美しさだったことでしょう。想像するだけで……やめましょう。神の御前で。
彼の死の報せが入ってからというものの、私の存在が彼を追い詰めていたと、周りの教職員は口には出さずとも私を白い目で見てきました。
有象無象の生徒がひしめく中、確かにその男子生徒の美しさはいつも私を捉えて離しませんでした。そして彼もまた、私を常に視界に捉えていた。
私たちは間違いなく惹かれ合っていた。一線を越えるのにそう時間はかからなかった。
ですが考えてもみてください。わざわざ苦しい自殺の道を自ら選んで実行した彼の苦悩を。
つまり自殺に至るまでの苦悩すら、彼という人間を最も美しく完成させるための演出に過ぎないということです。それは彼を最も美しく見せる桜の下を死に場所に選んだことからも明らか。
彼を最も美しく見せる季節を知っていますか? それは桜が咲き乱れる春です。
そんな彼の選択を否定することは、彼の人生そのものも否定することに繋がる。そのことを連中は分かっていない!
……真実の愛を全うしたという自負はあるのです。短い間ですが、彼に愛を与えられたという自信も。ですが、私の中の良心の部分が「自首しろ」と叫ぶ。
慈悲深き神。どうか私の頼りない背中を押してください。良心を蹴って、前を向いて再び歩き出す勇気を私にください。
「青春したい!」
身体を前のめりにして彼女はそう言った。
僕は、また病気が始まった、と内心溜め息をつく。
「この前、新社会人を見たの。もうきらきらしてて。それで思ったの。青春したいって」
頬杖をつきながら適当に相槌を打つ。
「何で社会人イコール青春なの? 学生なら分かるけど」
聞くと、彼女は待ってましたと言わんばかりに胸を張って答えた。
「だって、人間って感じがしたんだもの」
青春は人間の義務でしょ、と言う彼女の目に映るのは後悔ばかりで、青春特有の甘酸っぱい恋愛や熱い友情などは決して映っていなかった。
見上げなければ終わりが見えないほどの高さの煙突から、煙がえんえんと吹き出していく。
吐き出される煙は空に溶け込んでもはや雲と同化している。
私はその光景を、まるで神秘的なものを目の当たりにしたように目を細めて見いっていた。口の中でつぶやく。
「最後まで素直になれなくてごめんね」
人生チョロいもんでしたわー!まったねー!