あの男のもとに来てから、もう何日経つだろう。
自発的に来たわけではない。強制的に連れてこられたのだ。それも〝自分から〟の体を装わされて。
『了承しなけりゃ、こいつら全員殺すぜ』
こちらの側近の首に刃を当てながら、そう言ってのけたあの男の顔に嫌気が差した。なまじ整った顔立ちをしているぶん、嫌悪感はいや増す。
自分が言えた義理ではないが、なんてこずるい男だと奥歯を噛みしめた。要求を飲んだときの、側近の絶望した顔が忘れられない。
扉の前の気配に気を配る。見張りの男が扉の両隣に二人。屈強な男の空気がする。よほど逃げられるのが怖いらしい。
悟ったわけではないが、今のところは脱走を諦めて、切り取られた窓を見る。時間が分からないが、外はもう暗く、空に星が瞬いていた。ちらちらとひらめく星を見ていると、男のもとへ行くことを許諾したときの、側近の絶望の顔を思い出す。
あんな顔をさせるくらいなら、要求を飲まないほうが正しかったのかもしれない。だがあの男の言う通りにしなければ、側近を含めその場で皆殺しにされていた。そう考えると、やはり正しい選択だったと思う。
けど、と寂しく思う自分もいた。
(最後に見る顔があんな顔なんて、やっぱりやりきれないわ)
私は目の前の人物に対する無礼も構わず、思わず眼前の光景を凝視してしまった。
(宰相が……小さき生き物を抱いている)
目を剥きながら視線を逸らせない私を、宰相は氷のように冷たい瞳によって射抜いた。
「なんだ」
たった一言。それだけなのに、まるでその一声で世界を支配できてしまうのではないか、と錯覚を覚えるほどの重たい音。
聞く者の意思を捻じ曲げるような低い声は、逞しい喉を震わせて発せられる。宰相補佐に着いてからもうずいぶん経つというのに、私はふいに聞くその声にいつまでも慣れることができない。
「その、猫」
私は口を間抜けにあけたまま、宰相の膝の上に寝転がっている小さな黒猫を指さした。彼は「ああ」と極めてめんどうくさそうに答えた。
毛玉やほつれというものを知らないその黒猫の艶々とした毛並みのなかに沈む宰相の武骨な指は、いっさい毛に絡みつくことなく、すいすいと泳ぐように梳かれてゆく。黒猫を愛でる手つきは恭しいを通り越して、もはや淫靡なものに思えてならなかった。
「あいつに」
「は」
我ながら間の抜けた声を出してしまった自覚を持った直後、宰相がいきなりまだ小さな黒猫の首を片手で掴み上げた。それまで腿の上で安らいでいたはずの猫は、突然の暴挙にたまらず鳴き声とも取れない悲鳴を上げる。
「似てるだろ、あいつに」
彼は自身の整った相貌にぐっと黒猫を近づける。猫が持つ爪で傷つけられることも厭わないらしい。だが意外にも、黒猫は首根っこを掴まれたまま静かにしていた。睨んでいた、という表現のほうが正しい。
だが表面上は文字通り借りてきた猫のように大人しくしている黒猫を見て、宰相は自嘲するように言った。
「ま、こいつはオスだけどな」
「……メスも揃いにしてはどうですか」
「言われなくてもそうすらあ」
黒猫をゆっくり地面に着地させると、猫はさっさとあらぬ方向へ逃げていった。
その光景を見届けた宰相は、愉悦を含んだ表情を歪ませて笑った。
秋風が似合う美人。そう言われてさっと思いつくのは、佐々木希。
もしもあの薄茶がかった瞳に秋波を送られたら、面食いの私はきっと卒倒してしまう。
彼女はたしか秋田出身では。
秋田美人とはよく言ったものだが、秋がちなんでくる人や土地には、なんとなく美しい人や景勝地が多い気がする。
〝ピーッという発信音のあとにお名前とご要件をお伝えください。ピー――〟
「ウェッゴホッごほっ、……こほん。あー、もしもし、俺やけど。えーっと……元気か? あのべっぴんな嫁さんも元気しとるかいや。……あんさあ、お前いまどこにおんの? 東京? いや、ここ何ヶ月かまともに電話出らんから、どうしてんのかなって。お前、昔から図太い性格のくせに変なとこで神経質やったからやあ。どっかでこじらせて自殺なんかしとるんやないかって、みんなで話しとったところ。それで俺、みんなに言うたったのよ。お前に自殺やこする甲斐性あるわけないわいやって。アハハ、冗談、冗談。そうそう、なんや息子がいきなり学校行かんとか何とか言い出してよ。こんなん俺らのときはなかったやろう。対処するにもなあ、どう対処せえっちゅう話や。……まあ、そんなんええわ。お前んとこの娘は? どうしてんの? ……あー、ええ、ええ。また近いうちに会うかもしれんから。まあ、そんときにでも近況聞かせてくれや。じゃあ、また。……んー? おう、また留守電……」
〝プツッ〟
妻と娘に逃げられた。
死ぬしかない。もう死ぬしかない。
自分に従順だった娘にはいっぱいの愛を。反抗的だった妻には身を焼き尽くすほどの呪いを。
遺書をしたため、さっそく車に乗り込んだ。
白く高級なベンツは、まさか自分がスクラップ同然の最期を迎えるなんて、新車当時は思ってもみなかっただろう。少なくとも、持ち主を運転席に迎える時点では思ってもいないに違いない。
それとも、持ち主の死臭を嗅ぎ分けて「乗せたくないなあ」くらいは思っているかもしれない。
でも外車が好きだから、ベンツか、フェラーリか、アメリカのクラシックカーを道連れにしたい。国産車は嫌だ。
白いベンツは一般道を抜け、とうとう高速に入った。
ハンドルを握る手が緩む。あとは好きなときに、アクセルを力任せに踏むだけだ。
分離帯にめがけてぐんぐんと速度を上げていくのは、スリルに飲まれていくようで若干楽しい。
目の前がぴかぴかと光っている。眼球の裏でスパークが起きている感覚は、酒に溺れて死にそうになったときに似ていた。よだれが垂れた口角が自然と上がる。
(見てろよ。死んでも呪ってや、)