しぎい

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私は目の前の人物に対する無礼も構わず、思わず眼前の光景を凝視してしまった。
(宰相が……小さき生き物を抱いている)
目を剥きながら視線を逸らせない私を、宰相は氷のように冷たい瞳によって射抜いた。
「なんだ」
たった一言。それだけなのに、まるでその一声で世界を支配できてしまうのではないか、と錯覚を覚えるほどの重たい音。
聞く者の意思を捻じ曲げるような低い声は、逞しい喉を震わせて発せられる。宰相補佐に着いてからもうずいぶん経つというのに、私はふいに聞くその声にいつまでも慣れることができない。
「その、猫」
私は口を間抜けにあけたまま、宰相の膝の上に寝転がっている小さな黒猫を指さした。彼は「ああ」と極めてめんどうくさそうに答えた。
毛玉やほつれというものを知らないその黒猫の艶々とした毛並みのなかに沈む宰相の武骨な指は、いっさい毛に絡みつくことなく、すいすいと泳ぐように梳かれてゆく。黒猫を愛でる手つきは恭しいを通り越して、もはや淫靡なものに思えてならなかった。
「あいつに」
「は」
我ながら間の抜けた声を出してしまった自覚を持った直後、宰相がいきなりまだ小さな黒猫の首を片手で掴み上げた。それまで腿の上で安らいでいたはずの猫は、突然の暴挙にたまらず鳴き声とも取れない悲鳴を上げる。
「似てるだろ、あいつに」
彼は自身の整った相貌にぐっと黒猫を近づける。猫が持つ爪で傷つけられることも厭わないらしい。だが意外にも、黒猫は首根っこを掴まれたまま静かにしていた。睨んでいた、という表現のほうが正しい。
だが表面上は文字通り借りてきた猫のように大人しくしている黒猫を見て、宰相は自嘲するように言った。
「ま、こいつはオスだけどな」
「……メスも揃いにしてはどうですか」
「言われなくてもそうすらあ」
黒猫をゆっくり地面に着地させると、猫はさっさとあらぬ方向へ逃げていった。
その光景を見届けた宰相は、愉悦を含んだ表情を歪ませて笑った。

11/15/2024, 1:15:15 PM