『閉ざされた日記』
それを見つけたのはリビングの掃除をしていたついでに、ソファの引き出しの中身を取り出したときだ。
一見すると、それは使い古されてボロボロになった大学ノート。
表紙には、几帳面ではあるものの、まだ少し幼さを感じる書体で彼女の名前が書かれていた。
表紙を開いて中身を確認して、目が見開いていく。
文字でびっしりと埋め尽くされたページは、数枚まとめて糊かなにかで接着されていて開かないようになっていた。
なにが書かれているのかは、ページが重なり合ってしまっているため、解読ができない。
かと思えば、破いて捨てられたページもあった。
無線綴じゆえか、丁寧に刃物で削られた跡は、彼女の生真面目さを際立たせる。
糊で接着された束を全てめくった裏表紙の裏側には、年号が記されていた。
俺の記憶違いでなければ、その年は彼女のご両親が離婚した年である。
*
仕事から帰宅した彼女を玄関で出迎えた俺は、さっそく本題を切り出した。
「あなたのセンシティブなアイテムを見つけてしまいまして」
「え、なに。エロ本?」
「違います。……って、は? あるんですか? エロ本が? あなたの?」
そんなアイテムが本当にこの家に存在するのであれば、もっと早くに見つけているはずだ。
なんなら今から徹底的に家探ししたい。
「あるわけないじゃん。静止画は好きじゃないし」
ないのかよ。
ぬか喜びさせやがって。
「動画は動画でそんな気にならないクセに」
「は!? なん、で、知ってっ!? え!?」
目を丸くして恥じらいながら驚いているが、その反応は今さらすぎる。
つい最近、B級パニック映画でお決まりのラブシーンが挿入された途端、興醒めしていたことを忘れてしまったのだろうか。
それこそ、かつて「氷獄の覇者」と言わしめていたその名に恥じぬ、冷酷な眼差しを向けていた。
瑠璃色の瞳を最大限に暗くしたあの厳酷な視線を、一直線に浴びたテレビ画面に嫉妬さえ覚える。
恥ずかしがった彼女が照れていい雰囲気になることを期待したのに、室内の体感温度が5度くらい下がっただけだった。
彼女のテンションまで冷え切っていたため、その日の夜は手も出せずに寝かしつけるだけで終わってしまったのである。
そもそも、俺の解釈が正しければ、彼女は静止画とか動画とかの次元では欲情しないはずだ。
「なにを驚いているんですか。あなたはどちらかというと文学に比重を置いた哲学的な官能小説のほうが好みでしょう。人の理性と欲望の狭間で揺れ動く情感や狂いながら快楽に溺れていく描写が回りくどいほど地頭がいいゆえに日本語も正しく理解してしまうから余計に想像力を掻き立てられてその焦ったさに我慢できず読み進めてしまうタイプのはずですよ」
「…………冷静に気持ち悪い講釈垂れるのやめてくれる?」
その「気持ち悪い」という表現は、彼女自身にも刺さってしまうのだから、今すぐに取り消していただきたい。
ため息をついた瞬間、俺はひとつの可能性に辿り着いた。
「もしかして、これって自作のエロ小説ですか!?」
「はあっ!? ねぇ!? さっきからなんの話っ!?」
「これです」
掃除の途中で見つけた大学ノートを彼女に差し出した。
ノートを受け取った瞬間、彼女の表情が一気に暗くなる。
「って……、あー……。そういや、リビングの掃除するって言ってたな?」
固く閉ざされたページをもたもたと重たく音を立てる彼女は、苦々しく舌打ちをした。
「隠し場所、移すの忘れてた」
「隠すってことは、やっぱりエッチな小説ですか?」
「違うわ、おたんちん」
手にしたノートでパシッと胸元を叩かれた。
ノートの内容の全貌が未解決のままだが、そんなぞんざいな扱いをしていいのだろうか。
「でも、欲しいならあげる」
「は?」
「要らなくないヤツだけど、れーじくんなら捨てないで取っておいてくれるでしょ?」
ノートを押しつけた彼女の腕に、グッと力を込められる。
その小さな指はわずかに震えていた。
ハッとして彼女に視線を上げると、その頬が羞恥で赤らんでいる。
「別に、中は好きに暴いてくれてもいいんだけど、はっ、恥ずかしいから、見たあとも、そのっ、ちゃんと優しくして……、ね?」
「!?」
彼女はいたたまれなさの限界と言わんばかりに目を潤ませて、顔を真っ赤にさせていた。
チラチラと、落ち着きなく俺の様子をうかがっている。
おまけに、彼女の言葉足らずのスキルがこのタイミングで発揮されて、生唾を飲んだ。
ぐぅ。
……か、わ……いぃぃ。
ノートの中身よりも彼女自身を暴きたい。
己に正直な欲求が迫り上がり、彼女を抱き寄せようと手を伸ばしたが、ひと足遅かった。
「お、お風呂行ってくるねっ!」
バサッとノートが床に落ちることもいとわず、彼女は靴を脱いで俺の横を逃げるように押し通る。
「え、えぇ!?」
いや、だからっ!!??
その中身はなんなんだっっ!!??
落ちたノートを拾い上げ、埃を払う。
彼女に文才がないことは、去年の夏に判明していた。
エロ小説でないことは明白なのだが、彼女の言葉通り、素直に中身を暴いていいものか。
判断がくだせず、俺は悶々と大学ノートを抱えたまま項垂れるのであった。
『木枯らし』
点々と星が夜の澄んだ空を彩るなか、冷たく木枯らしが吹き荒ぶ。
キツく繋がれる細い指先はいつもより冷たかった。
いつもより緩くまとめられたポニーテールは、風にさらわれて簡単に乱れる。
ふわりと普段とは異なるヒノキの香りが鼻腔をくすぐった。
……まいったな。
俺の腕にしがみつく彼女を見下ろす。
ギュウギュウ引っついてくれるのは役得なのだが、俺はどうにもいたたまれなかった。
あの手この手で誘ってきたのは彼女からだ。
だから俺は悪くない、とまで主張するつもりはない。
ただ、初めてなら初めてとあらかじめ伝えて欲しかった。
ちなみに、スーパー銭湯の話である。
最初は断固として拒否をした。
いくら女湯とはいえ、彼女の素肌を俺以外の目に晒すとか狂気の沙汰でしかない。
だが、基本的に彼女のワガママはなんでも聞き入れてあげたいのが俺だ。
珍しく頑なな彼女の意思とプレゼン力によってドロドロに絆される。
彼女は常日頃からホテルに連泊していることもあり、大衆浴場には慣れていると思って油断していた。
*
遡ること数時間前、夕飯を食って少し経ったあとのこと。
どうせ風呂なら、ちょっとした旅行も兼ねて家族風呂で彼女も風呂も余すことなく堪能したかった。
彼女の自宅から徒歩10分圏内のスーパー銭湯の女湯の入り口前で、今さらな本音が喉元から飛び出しそうになる。
あからさまにウキウキワクワクと好奇心を躍らせている彼女に、下心しかない腹の内など吐き出せるはずがなかった。
「では、7時半でいいですかね? もっとゆっくりしたかったら連絡してくださいね」
「うんっ」
楽しそうな後ろ姿を見送って、待ち合わせ時間の19時30分。
彼女はまだ出てきていないようで、ひと足先にフルーツオレをいただくことにした。
リクライニングチェアに座って、彼女に連絡しようと携帯電話を手に取る。
『ちょっと遅れると思う』
シンプルな文面の中に彼女の焦りを感じたのは、交際という経験値を積んでいるからだろうか。
既にメッセージを残してくれていた彼女に、俺はすぐに返信をした。
「ゆっくりでいいですよ」
すぐに彼女とやり取りができるように携帯電話を離さないでいること、約30分。
20時を回ったところで、彼女が少し疲れた様子で帰ってきた。
「まだ濡れてませんか?」
「え?」
肩にかけているバスタオルに、わずかに触れている彼女の毛先はまだ湿り気を帯びている。
「帰りは歩きですし、ちゃんと乾かさないと風邪引いちゃいますよ?」
肩にかかったバスタオルで軽く毛先を押さえて水気を取るが、もう一度、乾かしてもらったほうがよさそうだ。
「ドライヤー、待ってる人が多くて焦っちゃったのかも」
「ついでにクシも忘れて雑になったんでしょう?」
「えっ、なんでわかるの?」
「内緒です」
彼女の問いには笑ってごまかす。
ブラシを通せば彼女の髪の毛はもっとウルウルツヤツヤになって、ガチの天使の輪っかができあがるからだ。
焦ってしまい、クシは自販機で買えることすら失念したのだろう。
カバンから俺が持ってきたヘアブラシを取り出して彼女に手渡した。
「待ってますから、きちんと乾かしてきてください」
「え、でも、待たせちゃうよ?」
土曜日のこの時間帯だ。
混雑しているのは見ればわかる。
ドライヤーがどれだけ併設させれているのかはわからないが、スキンケアも同時にともなれば、時間がかかるのは想像にかたくなかった。
それよりも、彼女をこの寒い時期にスーパー銭湯に連れ出した挙げ句、風邪を引かせてしまったときの罪悪感のほうがデカい。
「かまいませんよ。あなたを待つ時間は好きですから」
「へっ」
すっとんきょうな声をあげた彼女のその顔が、みるみる赤くなっていることに気がついた。
「あの、さ。外でそういうこと言うの、恥ずかしいからやめて」
「……」
それを言うなら、手を出せないこの状況で、そんなふうに切な気に睫毛を揺らすのをやめてほしい。
「なら、くだをまいてないで、さっさとドライヤーし直してきてください」
「わかってるってば……。荷物、見ててもらっていい?」
「ええ。もちろん」
彼女の荷物を預かり、彼女の背中を見送った。
戻ってきた彼女の髪の毛はツヤツヤの状態だったが、今度は肌艶がよろしくない。
「スーパー銭湯って初めてだから、人酔いしたのかなあ?」
「初めっ……!?」
はぁぁあああ!?
彼女をリクライニングチェアに座らせて、俺は急いでスポーツドリンクを自販機で買った。
「それ、多分、水分不足です」
「水分……」
スポーツドリンクを彼女に渡して、飲むように促す。
「脱衣所や風呂に水飲み場があるはずなんですけど、多分飲んでないですよね」
「知らなかった」
ぽやぽやしながらスポーツドリンクを口に含む彼女に、俺は天を仰いだ。
*
すっかり湯冷めしてしまった彼女を、俺は彼女の自宅まで送り届ける。
「これは俺ンチで洗っておきますから、暖かくして休んでくださいね?」
「えっ。帰るの?」
彼女のスパバッグを持ち帰ろうとしたとき、その腕にしがみつかれた。
「……てっきり、い、一緒にいてくれるのとばかり……」
うっ。
あざとく瑠璃色の瞳で見つめられて、決意が揺らいだ。
俺だってそのつもりだったが、湯あたりからの湯冷めまでしてしまった彼女を少しでも休ませてあげたい。
「このあと、洗濯とかゴタゴタされたら落ち着かないでしょう」
「いい……」
「いいわけないでしょう」
それらしい気遣いを並べてなんとか取り繕っているが、玄関を跨いでしまったら自制なんてできる気がしなかった。
「銭湯の香りでほかほかになったれーじくんと、ギュッてしたい」
俺が彼女に絆された決定打をここでも使われて、言葉につまる。
「俺、我慢なんてできませんよ?」
「大丈夫。もう平気だし」
ぐいぐいと、彼女は俺を玄関に引き連れた。
「だから、一緒にいてほし……っ、んっ」
その先の彼女の言葉を、唇で塞ぐ。
彼女の代わりに、玄関の鍵とチェーンをかけた。
木枯らしで冷えた彼女の体温を、温めるために。
『美しい』
いつもありがとうございます。
家族の風邪を引き受けてしまったのかな……💦体調が悪くてスペースのみです。
みなさまもご自愛してお過ごしください。
『この世界は』
高校2年の夏休み。
眼鏡というレンズ1枚を隔てたこの世界に、彼女という天使が舞い降りた。
あのとき以来、俺の世界は華やかに彩られる。
*
仕事終わりに本屋に寄る旨を伝えたら、彼女からおつかいを頼まれる。
「赤のボールペン買ってきて。消えないヤツ」
彼女からのメッセージアプリには「了解」のスタンプを返した。
こだわりはないのだろうが、フリクションや水性ボールペンを彼女は好まない。
長年愛用している本屋の文具雑貨コーナーは、着々と本スペースを侵略していた。
目当ての本を購入したあと、広々とした文具コーナーを物色する。
ずらりと並ぶ、色とりどりのボールペンコーナーで、俺は足を止めた。
「可視化できない思いを色で描く」
新商品なんだろうか。
キャッチコピーの下には好奇心をくすぐる色についての解説が書かれていた。
世の中には数百万という膨大な数の色を可視化できるらしい。
ペン先の太さ、インク、色、書き味、それだけでも個性が出せそうだ。
ボールペンのボディもカスタムできるようで、女児向けのラメや小さな装飾のついたパステルカラーや、大人向けのシンプルなボディデザインまで幅広い。
きらびやかなに展開されたコーナーに目を奪われたが、彼女が選ぶのはもっとシンプルだ。
新商品の裏側で展開されているボールペンコーナーに移動する。
彼女のボールペンにおける嗜好は、ボール径0.7mm、インクは油性、書き味、軸の重さは軽めだ。
使う色は、黒、赤、青の3色のみ。
替え芯を3、4回ほど入れ替えて使い切ったあと、新しく買い替えていた。
彼女は物を丁寧に扱うから物持ちがいい。
今回のように、彼女はときどき俺に買い物をまかせてくれていた。
以前、気分転換でもしたいのかと思っていつもと違うメーカーのボールペンを買ったことがある。
書き心地は悪くないとのことだが、肌感触が好みではなかったようだ。
結果として、妙な開拓はやめて彼女の愛用しているボールペンを買い続けている。
俺は、彼女がいつも使っている赤いボールペンと赤色の替え芯を手に取り、レジに並んだ。
彼女を取り巻く世界は、常にシンプルだ。
その簡素な世界は、俺には眩しすぎるほど純粋で美しい。
『どうして』
どうして、こんなところに?
唐突に変更させられた待ち合わせ場所。
そこは駅からさほど離れていないところにある大衆居酒屋であった。
普段の彼女なら、自分からこの店を選択することはまずない。
一抹の不安を抱えつつ、俺は店内に入った。
「お連れ様のご来店でーす!」
店員の声かけに反応したのか、彼女が顔を上げる。
「おー。意外と早かったね?」
店の隅のふたりがけのテーブル席で、彼女はジョッキ片手に枝豆を摘んでいた。
は?
まさか、飲んでる……、とかないよな?
こんなにもかわいい子がひとりで飲んでたら、絶対ペロッと食べられてしまう。
別に飲むなとは言わないけど……。
せめて、俺と一緒に入ってほしい。
ため息をつきながら、俺は彼女の真向かいの椅子に腰をかけた。
「なにを呑気なこと、……いや、それより、それ食ったら出ますよ?」
「まぁまぁ、そんな慌てないで。一杯くらいつき合ってよ」
上機嫌すぎる彼女に違和感を覚える。
「……それ、酒ですか?」
「まさか、ただのウーロン茶に決まってんじゃん」
俺に向かってジョッキを差し出す。
鼻を近づけて、アルコール臭がないことに胸を撫で下ろす。
念には念を重ねてひと口飲んでみたが、まごうことなくウーロン茶だった。
「一杯なら奢るけど?」
シラフでこの楽しそうなテンションは、いくらなんでも雰囲気にのまれすぎだろう。
やはり彼女をひとりで飲み屋に行かせるのは心配だ。
俺の心配など露ほども汲まない彼女が、メニューを渡す。
「けっこうです」
彼女に奢られるつもりも、居酒屋に長居するつもりも一切ない。
手渡されたメニューはついたてに戻した。
とはいえ、アルコールを注文しないのも気が引ける。
店員におしぼりを手渡されたついでに、生ビールとたこわさを注文した。
ほどなくして生ビールとたこわさが届き、彼女と軽く乾杯をする。
生ビールにひと口だけ口をつけたあと、俺は本題を切り出した。
「どうして急に居酒屋へ?」
「ごめんて」
別に謝ってほしいわけではない。
わざわざ慣れない居酒屋にまで来た理由を知りたいだけだ。
「きれいなお姉さんだったら乗り込んでもよかったんだけどね。かわいい子だったから遠慮してあげたの」
口を噤んで彼女の言葉を待っていたが、茶化すような焦らすような言い方に、我慢できなくなる。
「なんの話です?」
「女子高生に告白されてたでしょ?」
痺れを切らしたのは俺だが、彼女のドストレートな言葉に狼狽えた。
「んんっ!?」
挟もうとしたたこわさが箸の中で滑り落ちる。
「あ。覗いたわけじゃないからね?」
「わかって、ます、けど!?」
改札口を出たところで呼び止められて、人目をはばかることなく、若さを盾に思いの丈をぶつけられた。
もちろん、その告白にはNOと突きつけ立ち去ったが、まさか彼女にまで目撃されたとは、不徳のいたすところである。
「……そ、れは、不愉快な思いをさせました」
「居酒屋(ここ)なら、その女の子とバッティングする心配もないかなって」
まあ、未成年だしな?
彼女が居酒屋を選んだ理由に納得していると、フッと彼女の瞳に影が落ちる。
「れーじくんがどう断ったのか知らないし、女の子の気持ちの大きさなんて興味もないけど……」
切な気に長い睫毛を揺らして、彼女は枝豆を摘んだ。
「好きな人の好きな人を見るのはキツイでしょ?」
彼女自身の記憶を顧みているのか、俺に気を遣っているのか。
どちらにせよ、その大きな瑠璃色の瞳はほろ苦い過去へと向いていた。
「青春に泥を塗る気分でもなかったし、相手が子どもだったから見逃してあげただけ」
視線を俺に戻した彼女は、柔らかく目元を細める。
「れーじくんだし、そういうこともきちんと諭したんでしょ?」
諭して諦められる恋なら苦労はしない。
それでも、人に好意を寄せる前に相手がいるかどうかは見極めるべきだ。
好きな人に好きな人がいる程度ならまだかわい気があるが、恋人や既婚者がいる場合は笑いごとではすまされない。
好きな人を泣かせてまで奪ったところで、疑心暗鬼に苛まれるだけだ。
「俺を信用してくれてるんですね?」
「信用はしてるけど……」
ここからが本題、と言わんばかりに彼女は目を光らせてテーブルに肘をつく。
「どうやって女子高生と出会えたの? SNS? それともゲーム? さすがにマッチングアプリではないと思いたい」
「あれ? おかしいですね。全然信用してないヤツですよ? それ」
冗談めかす割りに、彼女は逃す気はないようだ。
「帰りの電車が時々、同じだったみたいですね」
「えっ、それだけ?」
「らしいです」
彼女と結婚して以降、残業が少ない部署に異動させてもらった。
会社近辺では寄り道する機会もない。
自然と電車に乗る時間や車両も決まっていた。
「ふーん」
「不安ですか?」
「誰に言ってるの?」
勝ち気に言い捨てた彼女はウーロン茶をカラにする。
その眩しさに目眩がした。
彼女は今後、俺が時間や車両、通勤ルートをバラけさせるであろうことを疑っていない。
この信用を裏切るなんて、できるわけがなかった。
「それは、失礼しました」
俺もジョッキを空けて、彼女の近くに置かれた伝票を奪い取る。
「それより、久々の外食なんですから。もう少し俺に張り切らせてください」
「予約してたんだっけ?」
「ええ。なのでそろそろ」
「ん。わかった」
帰り支度を促せば、彼女は椅子から立ち上がる。
夕飯をすませるために、俺たちは居酒屋を出るのだった。