『木枯らし』
点々と星が夜の澄んだ空を彩るなか、冷たく木枯らしが吹き荒ぶ。
キツく繋がれる細い指先はいつもより冷たかった。
いつもより緩くまとめられたポニーテールは、風にさらわれて簡単に乱れる。
ふわりと普段とは異なるヒノキの香りが鼻腔をくすぐった。
……まいったな。
俺の腕にしがみつく彼女を見下ろす。
ギュウギュウ引っついてくれるのは役得なのだが、俺はどうにもいたたまれなかった。
あの手この手で誘ってきたのは彼女からだ。
だから俺は悪くない、とまで主張するつもりはない。
ただ、初めてなら初めてとあらかじめ伝えて欲しかった。
ちなみに、スーパー銭湯の話である。
最初は断固として拒否をした。
いくら女湯とはいえ、彼女の素肌を俺以外の目に晒すとか狂気の沙汰でしかない。
だが、基本的に彼女のワガママはなんでも聞き入れてあげたいのが俺だ。
珍しく頑なな彼女の意思とプレゼン力によってドロドロに絆される。
彼女は常日頃からホテルに連泊していることもあり、大衆浴場には慣れていると思って油断していた。
*
遡ること数時間前、夕飯を食って少し経ったあとのこと。
どうせ風呂なら、ちょっとした旅行も兼ねて家族風呂で彼女も風呂も余すことなく堪能したかった。
彼女の自宅から徒歩10分圏内のスーパー銭湯の女湯の入り口前で、今さらな本音が喉元から飛び出しそうになる。
あからさまにウキウキワクワクと好奇心を躍らせている彼女に、下心しかない腹の内など吐き出せるはずがなかった。
「では、7時半でいいですかね? もっとゆっくりしたかったら連絡してくださいね」
「うんっ」
楽しそうな後ろ姿を見送って、待ち合わせ時間の19時30分。
彼女はまだ出てきていないようで、ひと足先にフルーツオレをいただくことにした。
リクライニングチェアに座って、彼女に連絡しようと携帯電話を手に取る。
『ちょっと遅れると思う』
シンプルな文面の中に彼女の焦りを感じたのは、交際という経験値を積んでいるからだろうか。
既にメッセージを残してくれていた彼女に、俺はすぐに返信をした。
「ゆっくりでいいですよ」
すぐに彼女とやり取りができるように携帯電話を離さないでいること、約30分。
20時を回ったところで、彼女が少し疲れた様子で帰ってきた。
「まだ濡れてませんか?」
「え?」
肩にかけているバスタオルに、わずかに触れている彼女の毛先はまだ湿り気を帯びている。
「帰りは歩きですし、ちゃんと乾かさないと風邪引いちゃいますよ?」
肩にかかったバスタオルで軽く毛先を押さえて水気を取るが、もう一度、乾かしてもらったほうがよさそうだ。
「ドライヤー、待ってる人が多くて焦っちゃったのかも」
「ついでにクシも忘れて雑になったんでしょう?」
「えっ、なんでわかるの?」
「内緒です」
彼女の問いには笑ってごまかす。
ブラシを通せば彼女の髪の毛はもっとウルウルツヤツヤになって、ガチの天使の輪っかができあがるからだ。
焦ってしまい、クシは自販機で買えることすら失念したのだろう。
カバンから俺が持ってきたヘアブラシを取り出して彼女に手渡した。
「待ってますから、きちんと乾かしてきてください」
「え、でも、待たせちゃうよ?」
土曜日のこの時間帯だ。
混雑しているのは見ればわかる。
ドライヤーがどれだけ併設させれているのかはわからないが、スキンケアも同時にともなれば、時間がかかるのは想像にかたくなかった。
それよりも、彼女をこの寒い時期にスーパー銭湯に連れ出した挙げ句、風邪を引かせてしまったときの罪悪感のほうがデカい。
「かまいませんよ。あなたを待つ時間は好きですから」
「へっ」
すっとんきょうな声をあげた彼女のその顔が、みるみる赤くなっていることに気がついた。
「あの、さ。外でそういうこと言うの、恥ずかしいからやめて」
「……」
それを言うなら、手を出せないこの状況で、そんなふうに切な気に睫毛を揺らすのをやめてほしい。
「なら、くだをまいてないで、さっさとドライヤーし直してきてください」
「わかってるってば……。荷物、見ててもらっていい?」
「ええ。もちろん」
彼女の荷物を預かり、彼女の背中を見送った。
戻ってきた彼女の髪の毛はツヤツヤの状態だったが、今度は肌艶がよろしくない。
「スーパー銭湯って初めてだから、人酔いしたのかなあ?」
「初めっ……!?」
はぁぁあああ!?
彼女をリクライニングチェアに座らせて、俺は急いでスポーツドリンクを自販機で買った。
「それ、多分、水分不足です」
「水分……」
スポーツドリンクを彼女に渡して、飲むように促す。
「脱衣所や風呂に水飲み場があるはずなんですけど、多分飲んでないですよね」
「知らなかった」
ぽやぽやしながらスポーツドリンクを口に含む彼女に、俺は天を仰いだ。
*
すっかり湯冷めしてしまった彼女を、俺は彼女の自宅まで送り届ける。
「これは俺ンチで洗っておきますから、暖かくして休んでくださいね?」
「えっ。帰るの?」
彼女のスパバッグを持ち帰ろうとしたとき、その腕にしがみつかれた。
「……てっきり、い、一緒にいてくれるのとばかり……」
うっ。
あざとく瑠璃色の瞳で見つめられて、決意が揺らいだ。
俺だってそのつもりだったが、湯あたりからの湯冷めまでしてしまった彼女を少しでも休ませてあげたい。
「このあと、洗濯とかゴタゴタされたら落ち着かないでしょう」
「いい……」
「いいわけないでしょう」
それらしい気遣いを並べてなんとか取り繕っているが、玄関を跨いでしまったら自制なんてできる気がしなかった。
「銭湯の香りでほかほかになったれーじくんと、ギュッてしたい」
俺が彼女に絆された決定打をここでも使われて、言葉につまる。
「俺、我慢なんてできませんよ?」
「大丈夫。もう平気だし」
ぐいぐいと、彼女は俺を玄関に引き連れた。
「だから、一緒にいてほし……っ、んっ」
その先の彼女の言葉を、唇で塞ぐ。
彼女の代わりに、玄関の鍵とチェーンをかけた。
木枯らしで冷えた彼女の体温を、温めるために。
1/18/2026, 9:07:28 AM