ことの発端はなんてことのない、同僚の些細な言葉だった。
愚痴も混ざって話は脱線を極めたが、趣旨はこうである。
『彼女に靴下を脱ぐように促したら変態のレッテルを貼られた』
適当に相槌を打ちながら聞き流していたところで俺は気づいた。
彼女の靴下を脱がしたことがない、と。
俺は急いで仕事を終わらせて、彼女よりも先に帰宅して待ち伏せをした。
そして今である。
彼女は顔を梅干しみたいにしわくちゃにシワを寄せて、リビングのソファで背中を預けていた。
「ちょっと。なんて顔して照れてるんですか」
「照れてねえ。引いてるんだよ」
帰宅するなり、俺がリビングまでかっさらっていったため、彼女はパンツスーツ姿のまま天を仰いでいる。
しかも片方は素足のままで、魅惑の足先を晒していた。
ストッキングみたいな靴下を脱がせたのは俺である。
裾からパンツをたくし上げた瞬間は最高だったし、すべすべのふくらはぎとさらさらの生地にサンドイッチされた指が幸せで溶けるかと思った。
控えめに言ってめちゃくちゃ興奮した。
一方で彼女の反応はご覧のとおり、シオとツンとキレ全開の、照れのフルコースである。
「……マジで、これを照れ顔と認識してるなら、とっとと眼科に行って眼鏡を新調してこい」
「より解像度を上げてあなたを視認できるのなら、それはそれでとは思いますけど……。それより、足の指にクリーム塗るの横着したでしょう? 乾燥してますよ?」
「……なんで気づくんだよ……」
なんでって、親指にちょっとだけささくれができているからに決まっている。
かかとも少しカサついていた。
「ちょ、それ……やめて……」
足の甲に口づけようとしたとき、彼女は足先を引っ込める。
「なんでですか」
「お風呂がまだだからだけどっ!?」
不服申し立てると彼女が眉を吊り上げてキャンキャン騒ぎ始めた。
「だからいいんじゃないですか。1日中がんばったあなたのおみ足を吸えるとか……至福」
ここは俺が譲歩して彼女の主張を汲む。
代わりに、ぎゅうっとふくらはぎを抱き込んでスーツの上から頬ずりをした。
「もうやだコイツ。なんでこんなに変態なのー……」
「失礼な。なに言ってんすか。ちゃんと普通に脱がしたでしょうが」
「普通、人の靴下は脱がさないだろ……」
「変態は破いたり切ったりするんですよ?」
「いきなり最上級モンスター召喚してんじゃねえよ」
「あと、えっちな子は脱ぎませんからね? 靴下♡」
「んんっ!? いきなりなんの話っ!?」
「履いたままいたすかどうかの話ですよね?」
「違うがっ!?」
昔のえらい人が言っていた。
靴下から脱がすのは文学、靴下のみ残すのはフェチズムだ、と。
「すっかりえっちな子に育ってくれて、俺は感無量です」
「えっちじゃない! 脱がしにかかったのはそっちだろ!?」
「散々、自分で脱ぐとか言ってたのはどのお口でしたっけ?」
「お風呂に行くための必要手順だろうが!?」
「でもそんなこと言って、もう期待してるじゃないですか。ココ♡」
「はあ? してな……っぃ」
寂しそうにはくはくしているお口をキスで塞いでやった。
吐息をかわいく震わせている隙に、小さなポニーテールを髪の毛が絡まないように解いていく。
どさくさで舌を絡めて深くキスをして、彼女の思考を少しずつ蕩かした。
「それで、どうします?」
俺に縋る彼女の指の力が抜けたとき、唇を離す。
熱が溢れて涙となって滴る目元を指で拭ったあと、赤く染まった頬を撫でた。
「ん……?」
「このまま風呂に入らず片方の靴下だけあえて残してねっとりラブラブプランと、風呂に浸かったあとにゆったりイチャイチャプランと、一緒に風呂からベッドまでどっぷりチュキチュキプランと選ばせてあげます」
「らぶらぶ、いちゃいちゃ……?」
ぽやぽやと蕩けていた彼女だったが、俺の言葉を反芻して、ハッと我にかえる。
「ちょ、ばっ!? っかじゃないの!? いきなりへんてこなプラン持ち出してこないでっ!!」
色気もなく手早く片方のストッキングを剥ぎ取った彼女は、勢いよく脱ぎたてのそれで俺の腕を叩いた。
「なんてことしてくれやがるんですか!? 1週間は風呂入れなくなっちゃったじゃないですか!?」
「今すぐに入ってこいクソったれ!!」
「ふむ。つまりチュキチュキプラン?」
「あん!? その中ならイチャイチャプラン一択しかない……って、うああぁぁっ!?」
口を滑らせた彼女は、すぐに己の失言に気づいて悔しそうに頭を抱えた。
かくいう俺は思惑通りすぎて本当に楽しい。
「……クッッソ! ホンッットにクソっ!」
「わかりました。楽しみですね?」
かわいくてチョロいとか最高である。
悪態をついている彼女が寝室逃げないように、俺は先に風呂へ向かった。
*
その後、入れ替わりで彼女が風呂に入っている間。
俺は急いで彼女のためのフェイスケア一式とヘアケアセット一式とネイルケアセット一式を用意する。
もっちりほかほかになった状態で風呂から戻ってきた彼女を、心ゆくまでかわいくキラキラに磨いてイチャイチャプランを堪能するのだった。
『素足のままで』
通り雨をカフェでやり過ごしていた俺たちは、雲の隙間から鮮やかな青を覗かせたタイミングで店を出た。
人ふたりが並んで歩いてもゆとりのある広い歩道。
俺の少し前を歩く彼女に声をかけた。
「そこ。足元、濡れてるんで気をつけてください」
「ん」
俺たちは同時に濡れている足場を避けた。
彼女は軽く踵を浮かせてつま先を蹴って跳び上がる。
一方、俺は歩幅を少し広げて跨いだ。
その後、彼女は歩きながらマジマジと俺を見上げる。
「どうしました?」
「今、めちゃくちゃ性差を感じた」
「……性差というより、身長差じゃないですか?」
俺たちの身長差は約35cm。
性差といえば性差だが、平均的とは言いがたい。
これだけ身長差が開けば、脚のコンパスに影響が出るのはしかたがないことだ。
「私だって、あと15cmは伸びる予定だった!」
低身長であることをコンプレックスにしている彼女がムキーッと眉を上げた。
振ってきたのはそっちなのに……。
しかも15cmとはなかなか大きく出たものだ。
「……それ、欲張りすぎたバチが当たったんじゃないですか?」
「なんだとっ!?」
背の高い彼女もそれはそれは魅力的だろうが、こうして背が低いことを気にしている彼女はめちゃくちゃかわいい。
小さいままこんなにもかわいく育ってくれたのだから、神様には感謝してもしきれない。
それに身長の高低差など、彼女の表面的な魅力にしかすぎなかった。
「そもそもあなたが本気出したら、性差も身長差も越えてくるじゃないですか」
「それは相手の心をへし折るつもりでいるから、当たり前だよね?」
「……」
勝敗はともかく、相手の心は折れるつもりでいるのだからさすがだ。
慢心と過信と自惚れもここまで突出していると、もはや清々しい。
「そうじゃなくてさ。何気ない動作で性差をまざまざと見せつけられるのって、地味に効く」
「あぁ。意外とベタなのに弱いですもんね」
「どういうこと?」
訝しむ彼女は赤色に変わったばかりの横断歩道の前で立ち止まった。
その一歩うしろで俺も立ち止まる。
「例えば……、そうですね。今の俺たちの距離」
「うん?」
今の彼女との距離感は、恥ずかしがり屋の彼女がギリギリがんばれる距離だ。
無理に崩すと怒って喚いて照れ散らかして不貞腐れるかわいい彼女が誕生する。
そして、それ以上に彼女が身を委ね始める距離でもあった。
「もう一歩だけ、俺が踏み込んだらキスとかハグとか期待しちゃうでしょう?」
「しないがっ!?」
間髪入れずに拒否する彼女に、俺は心底驚く。
彼女の彼氏は俺のはずなのに!?
「は? なんでですか!?」
「なんでって、……こ、こんな往来で、やめてほしい……」
「……」
誰も人目もはばからずしゃぶりつくなんて言っていない。
「…………ふむ。意外とえっちだったことを失念していました」
「えっちじゃないもん!!」
勢いよく喚き立てるが、俺を彼氏にしておきながら、いつまでもそんな主張が通用すると思ったら大間違いだ。
とはいえ、既にキャパオーバーしている彼女がえっちになる日はまだまだ遠い。
真っ赤になって俺に振り回されている彼女はとてもかわいいから、何ひとつ問題はなかった。
「俺としても、あなたのそのかぁわいい蕩けたお顔は誰にも見せたくないので、外で不埒なことはしませんよ」
「不埒って……」
「でも」
今は奥手な彼女をおいしく噛みしめる。
「家でなら、遠りょする必要はありませんから。ねえ?」
「へぁっ!?」
「どうします?」
惚けてる彼女の、先が少し尖った耳に軽く触れる。
「どうって、なに……が?」
「この一歩をつめて家まで焦らしてぐちゃぐちゃになりたいか」
ゆっくりと耳の輪郭をなぞれば、彼女は俯いて落ち着きをなくした。
「ん……っ」
「それとも、家まで我慢した俺に一歩どころかのしかかって逃げ道を塞いでがっつかれるか」
わなわなと震える彼女がかわいくて、真っ赤になった小さな耳を縦にムニっと折り曲げてやった。
「せっかくだから、どっちがいいか選ばせてあげます」
「ぐ、ぐちゃぐちゃ……に、されちゃう、の……?」
動揺した瞳の中に熱が孕む。
その潤んだ視線にゾクゾクと背筋が昂った。
緩む口元に抗うことなく、一歩を踏み出すことなく、耳元から首筋へ指を這わせる。
「さあ? どうしましょうか?」
もう一歩だけ、彼女に踏み出してほしい。
俺と同じ熱量で、彼女の気持ちを感じていたい。
信号が青に変わった。
俺は彼女の首筋から手を離して、横断歩道の白線を踏む。
彼女の選択は後者らしい。
ふっ、と口元が緩んだときトン、と背中に軽い衝撃が走った。
彼女の頭部である。
俺と異なる歩幅をすり寄せて、ピッタリと距離を詰めた彼女は俺の服を摘んだ。
「別にどっちでもいいけど……。ちゃんと、優しくしてくれなきゃヤダ……」
「…………やっぱり、えっちじゃないですか……」
「違うもん……」
そこはどうしても譲れないらしい。
彼女の被っている帽子のツバを下ろして顔を隠した。
ポヤポヤし始めた彼女の手を引く。
彼女の精いっぱいの一歩を胸に刻みながら。
『もう一歩だけ、』
装いはいつもと変わらず、シンプルなシャツにジーンズとボーイッシュにまとめていた。
普段は邪魔だ落ち着かないだと言われ、俺からはプレゼントさせてくれないアクセサリー。
今日は唯一、彼女が持っている輪の大きな金色のイヤリングを揺らし、右の小指に細い金のリングを嵌めた。
毎日軽くまとめているポニーテールも、ヘアアイロンで器用にウェーブを作って濡れ感を出している。
知らない世界、知らない街、知らない人々。
見知らぬ場所に赴くとき、彼女はいつもよりひときわ強い赤を唇に差す。
猫みたいに鋭い目元を作っていた彼女は、真っ赤になった口元を確認して満足気にうなずいた。
最後に、手首へひと振り。
なかなか減らないウッディ系のコロンを擦り、首筋につけた。
「うんうん、いい感じ」
上機嫌に笑みを深め、薄紫色の細やかなレース刺繍の入ったハンカチをカバンに入れる。
「お待たせっ」
約2時間。
彼女の変身過程を眺めていた俺は率直な感想を伝える。
「ずいぶん気合入ってますね?」
「初めて行くところだからね、ガッツリ強化して行かないと」
ムキっと腕を曲げて見せたが、アピールする場所は二の腕であっているのだろうか。
「とはいえ、女の舞台裏を堂々と覗くなんてデリカシーのないことしないでくれる?」
「それ。言うの今であってます?」
「今だから言うんだろ。メイクする前に言ったところで聞いてくれないだろうし」
メイクのせいか、今日の彼女は目力も圧も強い。
「それもそうですね」
「そうですね、じゃねえよ。まったく……」
あきれてため息をつく彼女に、俺は手にしていた携帯電話に視線を移した。
「もしかして、動画撮るのもやめたほうがよかったりします?」
「はあ!?」
彼女のオフからオンに切り替わる過程を動画にも収めていたのだが、気づいていなかったらしい。
「だって今日は絶対きれい系にまとめると思ったんですもん」
「……あのさぁ。もしかして朝6時に家まで来たと思ったらそういうこと?」
「それに関しては早朝にすみません。昨日の夜に押しかけたんですが、時間が遅かったのもあって既にチェーンをかけられてしまいました」
「電話でもしてくれればよかったのに」
「真っ暗だったのでもうおネムだったのかなと。わざわざ起こすことでもないですし」
「それはそう。んなくだらないことで起こされたらたぶんキレる」
「はい。なのでおとなしく帰りました」
彼女を怒らせてデートがキャンセルになってしまっては本末転倒だ。
「でも、ここまで気合い入れるとは思いませんでした。おかげで大変有意義な時間を過ごさせていただきました」
いつもとは180度違う彼女のメイクに、ドキドキと胸が高鳴りっぱなしだ。
キリッとしたメイクや髪型はいつもと印象が異なる。
ちゃんとカッコいいのにちゃんとかわいいという、とんでもない欲張りセットだった。
「お目当てがあるとはいえ、せっかく初めて行く土地勘も全然ない知らない街に行くんでしょ? 今日は特別」
「と、言いますと?」
彼女からの「特別」というワードに食いつく。
得意気に口端を上げた彼女は、猫のような瞳を妖しく光らせた。
「屋内の写真映えはね、今日みたいなメイクのほうが盛れるの」
「なんですって!?」
彼女の魅力なんてメイクや場所なんかに左右されない。
そんなことよりも、彼女が写真を好きなだけ撮らせてくれるつもりでいることに、テンションが爆上がりした。
「今日はあなたの写真を撮りたい放題ってことですか!?」
「どうせコソコソ撮られるだろうし、それなら盛ってほしいしね? でも、さっきの動画は消して」
「消しました」
彼女の目の前で、ペーンと指をスライドさせて動画を削除した。
ゴミ箱に移動したため、そちらもしっかりと削除する。
クラウドでは生きているが。
怒られそうだから内緒である。
*
玄関に移り、さあ出かけましょうというタイミングで彼女が頬を染めて俺の服の裾を掴んだ。
いつもよりキラキラさせた睫毛は、恥ずかしそうに伏せられている。
「……ねえ」
「なんですか?」
「デートが終わったあと私から……キ、キスしてあげるって言ったら、メイクの動画、クラウドからも消してくれる?」
クラウド保存されていたことはバレていた。
だが、とんでもなくでかい誘惑を彼女がぶら下げてくる。
……キ、ス……。
彼女からそんなことされたら、と思うと気持ちが一気に昂った。
あの濃く引かれた赤を崩して、目元にキラキラと乗せられたラメも熱で溶かしてしまってもいいのだろうか。
彼女から扇状的に迫られて俺が止まらないことくらい、彼女が一番よく知っているはずだ。
必然的にその先の行為を想像して息を呑む。
俺はあっさり要求に屈した。
「消します。消しました。どうぞ確認してください」
「え、は、早っ!?」
「今日のデート。ますます楽しみになっちゃいましたね?」
「ど、同意を求めてこないで……」
髪の毛を指で遊ばせながら彼女は靴を履く。
照れて少し汗ばんだ彼女の右手を取って、俺たちは家を出た。
『見知らぬ街』
燦々ときらめいていた太陽は、あっという間に仄暗い雲に覆われた。
今にも泣き出しそうな雨雲が、遠くから雷を鳴らし始める。
雷の音ばかりで、空の一閃を見つけることはできなかった。
まだ間に合う……っ!?
連日の茹だるような気温を利用して、今日はバスタオルやカーテンの大物をガッツリ洗ってきた。
調子に乗ってタオルケットやシーツまで干してしまう。
早くしないと洗濯物が死んでしまうっ!!!
夏の湿度が肌にベッタリとまとわりつくのもかまわず、俺は走る。
こんなにも全力疾走したのはいつ振りだろうか。
呼吸が乱れるほど走り続けているのに、無情にも雨がパラついてきた。
せめて本降りになる前に、と走り続けて玄関のドアを開ける。
そのままの勢いでベランダに直行しようとしたときだ。
もっ、もっ、と白い塊がリビングでうごめいている。
「うわっ!?」
「あ、おかえりー」
ひょこひょこと塊が向きを変えたと思ったら、ニパッと彼女の笑顔が飛び込んできた。
ドォン♡
ピッッシャァァァン♡♡
ガラガラ♡♡♡
ドッカーーーーーンッ♡♡♡♡
落雷位置はまさかの自宅。
光を探しても見つからないはずだ。
こんなにかわいい光が自宅に隠れているなんて……っ。
今日もかわいいをありがとうございます!
「ありがとうございます……っ!」
「んーん。雨、降られる前でよかったねー」
バサァっと白い塊をソファの上に投げ出し、すっきりしない雨雲を吹き飛ばしそうなほど眩しい笑顔を顔女は浮かべた。
横着して全部シーツに包んで取り込んできたのか、広がったシーツの中から衣類がゴロゴロと飛び出してくる。
その中から彼女はバスタオルを1枚手に取って、すんすん、と顔を寄せた。
……は?
タオルにキスするとか浮気では?
「そのタオルもらっていいですか?」
「えっ?」
落ち着け、俺。
タオルは無生物だ。
顔をつけたバスタオルに俺の顔を近づければ、実質彼女とキスを交わしたことになる。
それであれば彼女の非行をギリ許せそうだ。
早くそのバスタオルを寄越せ。
手を伸ばしたままの俺に彼女は大きな目を丸々とさせて俺を見上げた。
「あ、お風呂? よく見たらすごい汗かいてんね?」
「ん? えっ? あ、すみませんっ!? 俺、臭かったですかね!?」
「別にタイミングは好きにしたらいいけど……」
慌てた俺にかまうことなく、パタパタと手際よくバスタオルをたたみ始める。
そして朗らかな笑みのまま、彼女はバスタオルを俺の胸に当てがった。
「でも、せっかくならお日様の匂いが残ってるうちに使って?」
お日様、の……匂い……。
彼女の言葉を反芻して胸を押さえた。
ドッッッ♡
バリバリッ♡♡
バッシャァァァン♡♡♡
本日、2発目のかわいいが脳天を直撃して膝を折る。
「ありがとうございますっっっ!」
「うわっ!? 急にどうしたっ!?」
「いえ、なんでもありません。風呂行ってきます」
彼女からバスタオルを受け取り、シャツのボタンを緩めた。
気圧が下がり空気が重苦しく部屋を満たす。
いつもなら不快指数が上がるのだが、今日だけは、この気怠げな空気に身をまかせるのも悪くない。
低く鳴り響く遠雷を耳に、彼女から受け取ったバスタオルに鼻先を近づけた。
「いってらっしゃーい」
間延びした陽だまりの残り香が、憂鬱な心を溶かして満たす。
『遠雷』
夜というパレットに容赦なく黒が追加された。
まだらに染まっていく夜の空に重みと厚みと密度が増していく。
紺色と黒色の境目が曖昧になった。
限りなく紺色の勢力がゼロになったとき、ちょうど日付が変わる。
あー……頭痛え……。
眼精疲労、寝不足、悪酔いの三重奏。
一定のリズムを刻んだ重低音に合わせて、三半規管がワルツのステップを踏んだ。
風呂はもう明日、……でいいか。
ベルトを緩め、シャツのボタンを外す。
常夜灯の光すら今の俺には強い刺激になりうるから、カバンを放り投げて真っ暗な部屋のなか、靴下を脱いだ。
吐く……ことはできなかったから、暗がりのまま適当に歯を磨く。
下着以外の服を脱ぎ捨てたあと、寝巻きを取り寝室へ向かった。
寝室では、ベッドの隅で彼女がすでに眠っている。
暗闇に慣れた目は、彼女を柔らかな光として捉えた。
膝を曲げて横向きに丸まっているのに、タオルケットはベッドの下に落とされ、シャツはたくし上げられている。
……頭痛に苛まれているとはいえ、酒に飲まれた思考では彼女の姿は目に毒だ。
彼女は夜闇の中でも、美しく存在感を見せつける。
暗い夜に小さな白色を混ぜたら光り輝く星となって瞬いた。
一等輝くその星に何度も何度も恋をするのだろう。
ベッドに落ちたタオルケットをかけると、彼女の体が俺の方に向いた。
「やぁ、……暑い……」
せっかくかけたのに。
ペンっとタオルケットを剥がされてしまった。
コロコロとベッドの隅まで転がってきて、ふにゃふにゃの意識で声を出す。
「おかーりぃー……」
しかし、すぐに小さく寝息を立て始める彼女に、俺は目元を緩める。
「……戻りました」
「むぬ……おつかれー……」
あ、ヤバい。
このままでは起こしてしまいそうだ。
律儀に会話を交わそうとする彼女の頬を撫でる。
「おやすみなさい」
「ん」
ぽや、とうっすらと目を開けた彼女が俺の首に腕を回した。
素肌から直接彼女の温もりを受けて、ベッドに引きずり込まれる。
「……いっしょ、に……」
「え、いや、俺っ」
今日はソファで寝ようと……。
鼻を掠める彼女のシトラスの匂いに誘われて、俺のその言葉は続けられなかった。
無防備な細い首筋に下心が疼く。
少し品のない音を立てて彼女の首筋に吸いついた。
「ん……ふっ」
くすぐったさそうに身を捩った彼女は、甘えるように額を擦りつけたあと、今度こそ深い眠りへと落ちていく。
その寝息につられて、俺も意識を手放した。
『Midnight Blue』