海月は泣いた。

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12/11/2023, 2:41:02 PM

何でもないフリ


星は突然に落ちるのものだ。予期もしないいつも通り何ら変わらない景色を、たった一つの爆弾が今までの全てを一瞬にして変えてしまう。それを私は身に染みて実感することになる。

「俺、好きな人が、できた」
雷が落っこちたみたいな衝撃が私の頭を揺らした。驚きすぎて声も出なかった。それは、何でもないいつも通りの放課後だった。帰ろうかと口にしようとした途端彼のいつもよりちょっぴり大きく強い声が私の言葉を遮った。二人っきりの静かな教室が、よりしんと静まって、一気に空気が冷たく重くなったみたいに感じた。彼は私が黙り込んだ様子に分かりやすく慌てて、この話やっぱりなし!と大きな声で言った。
「ご、ごめん突然こんなこと言い出して…」
彼は茶色の瞳をうるうると溶けだしてしまう様に揺らしていた。恥ずかしくってどうしようもなくてどうしたらいいか分からなくて戸惑って泣きそうな顔だ、って彼の考えていることがすぐに分かった。
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
なんでもないように笑ってみせた。ほんとうにびっくりしただけだという様に。彼はホッと安心したみたいに顔を綻ばせた。さっきまで泣きそうだったくせに。糸が張り詰めたみたいな緊張と不安が混じりあっていた顔はもうすっかりゆるんでいた。彼は考えていることがすぐに顔に出る。あんまりに分かりやすくって、私は彼の考えることが自分の事のように分かる。だから、このことを私に伝えるのに相当の勇気を出したんだと分かって、そんな彼の気持ちを無下には出来なかった。
「…誰なの?」
それはちょっとした期待を含んだ一言だった。少女漫画のように、貴方のことです!と言われて、私もだよって返して、そうしてあっという間のハッピーエンドを迎えれたらいいのにな。そんなことないだろうか。そう柄にもなくロマンチックな思考をした後ですぐに無いなと思った。そんなこと出来るような人じゃないって知っているから、分かってしまった。
「三組のね、桜庭さんって人なんだけど…」
ほら、私のちいさな期待は呆気なく裏切られた。でも、私の頭は嫌に冷静で、こうなることをすんなり受け入れたみたいでムカついた。
「知ってる?」
知ってるよ。美人で優しいって評判の桜庭さん。誰に対しても平等で愛嬌があって、どんな話も楽しそうに聞くからみんな勘違いしちゃうって有名だよね。性格も良くって悪い噂もない。眉目秀麗で、すらりと持て余すくらいに長い手足は白くて全体のバランスが良い。柔らかな雰囲気を持つ彼女だが、堂々と歩く凛とした姿勢にギャップがあって、その様に身の程を知る、というか。彼女の美しさを改めて思い知らされる。艶のある長い黒髪が靡く様はほんのり色気まで感じる。私も近くに来たらドキドキしてしまう。高嶺の花という言葉がバチっと当てはまってしまうような人だ。知ってるよ。知ってる。
「知ってるよ」
この絶望を、痛いくらい知ってるよ。
「…俺、さ、この間の体育祭で怪我したじゃん」
ああ、そういえばリレーで派手に転んでいた。痛そうだったけどみんなに大丈夫だってへらりと笑ってて、みんなに茶化されてもごめんごめんってずっと笑ってた。私には、大丈夫そうじゃないのが分かってたから、終わってあと水道場に向かう彼に絆創膏をたっくさん渡したら、こんなに使わないよって困ったように笑ってて、要らないとは言わない優しさに私はまた心臓を掴まれた。
「その時、みんな俺を茶化して笑ってた。けど結構痛くて、顔が強ばってないか心配だった」
強ばってたよ。痛そうだった。私にはわかったよ。
「でも。でもね」
彼は顔を赤く染めた。じんわり内側から滲む赤に目を逸らしたくて仕方なかった。だってこれは、私に向けての感情じゃない。
「桜庭さんは、ずっと心配そうな顔して俺を見てたんだ」
もう、聞きたくなかった。聞きたくないのに耳にダイレクト入ってくる。もうやめてくれと頭の中ではずっとサイレンが鳴り響いていた。
「それで、終わってから水道場に洗いに行ったんだけど、その時桜庭さんが走ってきてくれて、大丈夫?って。大丈夫だよって返したんだけど、その後も僕よりも痛そうな顔してずっとそばに居てくれたんだ」
その時を思い出して嬉しそうに目を細める姿がまさに恋をしている顔、で私の心臓の温度がどんどん下がっていくのを感じる。私にだけは分かると思っていたことが彼女にも分かってしまった。
ああ、わかりやすい方が良かったんだね。私の無愛想で分かりにくい特別は、たった一度のわかりやすい優しさに全てを塗り替えられてしまった。不器用な私の精一杯の好意は、幼なじみだからというたった一言で片付けられてきた。私の気持ちはそんな一言で片付くものじゃないのに。貴方が風邪をひいた時に袋が破けるくらいにゼリーを買って笑われたことも、貴方が学校に行きたくないと小さな声で呟いた時一緒に学校をサボって親に怒られたことも、貴方が飼っていた文鳥が居なくなった時一日中探してようやく見つけて泣きながら抱き合ったことも、あれも、これも、全部。私は幼なじみだったからしてた訳じゃない。私は…。
「心の綺麗で優しい人だって思った。その時から気になってて、いつの間にかこれが好きってことなんだなって」
桜庭さんモテるよ。ライバルいっぱいいるよ。負ける確率の方が高いよ。ねえ、初恋は叶わないって言うじゃん。
「桜庭さん。モテるよね」
ハッと思った。堪えていた言葉が多すぎて私のキャパシティを超えたのか、つい口に出てしまった。
「そう、なんだよね…」
と小さな声で言う彼は今まで一度も見た事がない顔をしていた。切なそうな苦しそうな、でも強くて眩しかった。十何年ずっと一緒にいたのに、彼女のたった一つで私が知らない顔をさせたんだと思うと、感情がぐちゃぐちゃになる。自分が悲しいのか怒ってるのかも分からない。
諦めなよ、と悪魔が囁く。言ってしまいたいと思った自分は最低だ。よく漫画だとかドラマだとかで好きだから心から応援すると言う人がいるけど、そんなの綺麗事じゃないのか。失恋した哀れな自分を騙すための強がりじゃないのか。本当はみんな失敗すればいいのにとか思っていないのか。いや思ってるはずだ。分からないけど。でも、みんなもそう思うだろう、私は普通だろうと言い聞かせなければおかしくなりそうだった。
「…でも、がんばる」
強い眼差しでそう返されて、もう私の心はズタボロだった。簡単に諦めないだろうと分かっていても、好きな人に恋を諦めないと目の前で宣言されてしまえば、もう辛いという言葉に当てはまらないほどに辛い。痛い。私は、この行き場のない感情を消化できなくて、俯いてスクールバックのストラップを手持ち無沙汰に動かしていた。口数の少ない私を彼は心配したのか、俯いた顔を覗き込まれそうになってそっぽを向いた。分かりやすかっただろうが仕方なかった。今私は、酷い顔をしている。彼はそれ以上は詮索してこなかった。教室のカーテンを揺らす風の音だけが鳴っている。ドクドクと愚かな私の心臓の音が彼に聞こえてしまいそうで酷く焦るのに、何か言葉を喋ろうとすると喉がつっかえて何も言えなかった。彼の息を吸う音が聞こえる。もし、もし、上手くいってしまったら。彼の呼吸も鼓動も彼女のものになってしまうのだろう。もう私は、彼に関わることは出来ない。この先彼といたら、自分の嫌なところがどんどん出て自分のことを嫌いになるどころか彼まで嫌になってしまいそうで、それが酷く怖かった。
「俺さ」
彼が唐突に口を開いて、びっくりして肩が大きく跳ねた。この後に続く言葉を聞くのが怖い。聞きたくない。逃れることなんてできないのに怖くって目をぎゅっと瞑った。
「好きな人が出来たら、一番に言おうって思ってたんだ」
ああ、ほんとに残酷だ。
「だから…言えてよかった」
嬉しくて、悲しくて、一番酷い言葉だった。彼の中の私という存在を否が応でも実感させられた。今度こそ耐えれなくて、涙が一粒落ちて焦った。バレてないだろうか。いやバレていようがいまいが、もう、行かなきゃなんだ。
「じゃあ、行くね」
「あ、うん、帰ろうか」
違うよ。違うの。
「…好きな人がいるならさ、女の子と二人っきりで帰るとかやめたほうがいいよ。勘違いされちゃうよ」
「ぇ、でも……」
止めないで。私を止めないで。
「これからは別々、ね」
自分で振り切るのは辛い。こんな辛いことさせないで欲しかった、と思う。彼の顔は見ないでスクールバックを雑に背負って早歩きで進んだ。ドアの前で立ち止まる。もう話すのが最後になってしまうかもしれないと思ったら、これを伝えたくてしかたなかった。
「…私、あんたが良い奴だってこと、誰よりも知ってるから」
頑張って、という言葉は言えたのだろうか自分でも分からなかった。精一杯の強がりを放って走り出した。一人で帰るのは初めてで私の隣を通り過ぎる風が冷たくって、寂しくって、堪えていた涙がついにボロボロと流れ落ちた。アスファルトに大粒のしみを作っていく。誰かこの涙の跡を辿って追いかけてくれないだろうか。大丈夫?って涙を拭ってくれないだろうか。誰かと言いながら私の心の中はたった一人だった。その誰かは誰かじゃいやだよ、彼がいいの。今なら嘘だよって言われても許すよ。馬鹿だなって叱って笑ってちょっと泣いて、それでいつも通り寄り道でもしようよ。ねえ、だから早く…。そう思って少し立ち止まったけど冷たい空気が私を刺すだけで、悲しみが増すばかりだったから、小さな歩幅でいつもの何倍も遅く歩いた。
ずっとこのままではいけないと分かっていた。けれど、まだ彼の隣の生温さに浸っていたかった。どんな時だって私の隣に当たり前にいたから、これからもずっと当たり前にいるものだと信じて疑わなかった。ああ、これは完全にあれだ。失恋したんだ。たった今、失恋してしまった。頭で理解すると余計辛い。どこを歩いても彼との思い出が頭の中を埋め尽くす。私をこんなにしたのは彼なのに、彼を変えてしまったのは憎い彼女なんだ。これからは、通学路を変えなくちゃと思った。いつまでも悲しみに浸ってるだけじゃダメだって分かっていた。それでも、でも、今はまだ忘れたくない。彼との思い出を、彼への気持ちを。いつか忘れられる日が来たら、彼と彼女が上手くいったら、もし、おめでとうって心から言える時が来たら、その時は…。今は泣いてしまうだろうとしか考えられないけど、もしかしたら、私は彼の嬉しそうな顔を見て嬉しくなれて笑えるかもしれない。彼の柔らかい日向のような笑顔が容易に想像できて、心臓はギュッと軋んだ。私はその笑顔が大好きだ、と見れてよかった、と言えればいいなあと思った。

12/10/2023, 10:21:02 PM

仲間


仲間、というのは難しい。家族も友達も恋人もかげがえのない大切なものであることに違いないが、そのどれも仲間かと聞かれると素直に頷けない。大切なだけでは仲間という言葉に当てはまらない。そんな仲間、という言葉がピッタリ当てはまるような出会いだって多くは無い。仲間という存在に出会うことのない生涯も大いに有り得るだろう。俺は、仲間というのがそんな難しい存在だと重々分かっていてもこいつらを仲間だと胸を張って言えてしまう。味方とは少し違う。でも、一番の味方で、一番の敵である存在。辛いことも楽しいことも数え切れないくらい分かちあってきた。これを仲間と言わずになんと言う。
スポットライトぱっと消えて、いよいよ次が俺らの番だ。待ち焦がれた舞台。本番の音が近づいて心臓が軋む。早くなる鼓動を落ち着かせようと胸を撫で下ろして、ふっと吐いた息は震えた。
目の前の顔たちは強ばっていたけど、その瞳は強く輝いていた。天の川みたいに沢山の光を含んで、その光を緊張と不安と期待とでゆらりと揺らしていた。いつもは見ない仲間たちの表情に緊張なんて吹き飛んで思わず笑いを零した。その笑い声が合図だったみたいに俺らは中心に吸い寄せられて慣れた円陣を組んだ。今までの景色が走馬灯のように流れる。息を大きく吸い込んだ。
「俺は、お前たちと出会えて良かったと思ってるよ」
いつもは絶対に言わない恥ずかしい言葉。でも、何よりの本心だった。ずっと心の中で思っていたこと、伝えるなら今しかないと思った。顔を上げて真っ直ぐ目を合わせて言った。みんなは一瞬驚いた顔をして、それですぐ目元をくしゃくしゃにして笑った。
「行こうか」
これが最後かもしれないという不安はとうに消えていた。今はこいつらと楽しむことだけを考えていればいい。痛いくらいに眩しいステージへと俺らは歩き出した。

12/9/2023, 2:57:23 PM

手を繋いで


私には愛しい愛しい恋人がいる。彼と付き合ったのは文化祭の後だった。彼はモテるから、他とは違うことをしなくちゃって、文化祭で告白なんて在り来りな事はぜったいしない!おもしれー女感を出すんだ!とか散々案を練っていたのにも関わらず、彼の隣で見た花火があんまりに美しくて、花火を見る横顔が愛おしくてどうしても我慢できなかった。
「好き!」
と花火に負けないくらいの大きな声で言ってしまった時、頭が真っ白になった。やらかした、と思った。こんな意味わかんないタイミングで…しかもこんな大きい声も出して……終わった……。周りの人の視線と彼の驚いた顔が私に注目した。顔がカアっと赤くなって、俯いた。もう人生のどん底にいる気分だった。これが私の人生最大のやらかし…と落ち込んだ時、思いもよらない言葉が私の耳に飛び込む。
「俺も!」
彼は私よりも大きな声でそう言った。何より眩しい笑顔で嬉しそうに顔を綻ばせた。彼の放った一言とその笑顔で人生のどん底に居た私は一気に有頂天まで持ち上げられた。彼と結ばれることが出来るなんて……私は前世でどんな良いことをしたのだろうか。ありがとう前世の私。ありがとう……。あの瞬間を私は一生忘れないだろうと本気で思ったのだ。確かに人生最大の幸福だった。
そんなこんなで私たちが付き合い出してから四ヶ月が経とうとしていた。好きな人と過ごす季節はあっという間でそのどれもが虹色に彩られている。楽しい時間は早く過ぎるように感じると言うが、まさにその通りだとうんうん頷いた。すっかり寒くなり、制服の上にコートを着ることも当たり前になった。吐く息は白く、霧がかった白い世界は冬を感じさせるには十分だ。そろそろ雪まで降りそうだなあと思う。
「寒いね」
「ね、今日の最低気温マイナス三度だってさ」
「え!マイナス」
「凍っちゃいそう」
彼はふふっと楽しそうに笑う。可愛い。寒さで赤くなっている鼻も、マフラーに埋めた顎も、笑うと細くなる目も、伸びてきて歩く度すこし揺れる茶髪も、ぜんぶぜんぶ可愛いなあ。彼と話す度いつもああ好きだなと思う。四ヶ月経っても、だ。ベタ惚れだという自覚はある。何をしてても、どんな事でも好きだと思うの。これは私がいけないのかなあ、いや、彼が私をこんなにさせてるんだ、と彼のせいにしてしまいたくなる。
でも、でもね。大好きだけど、ちょっぴり不満もあるんだ。何回も言っている様だが、彼とはもう付き合ってから四ヶ月が経つ。四ヶ月の間お互い予定がない時は一緒に帰ってる。晴れの日は身を寄せあい、雨の日は相合傘をして、時に嬉しいことがあった日は自慢しながら笑いあって、時に悲しいことがあった日はちょっと泣いてしまったり慰められたり…。そうやって、二人で色んな時を過ごしてきた。当初より距離はぐんと縮まって、お互いの愛は現在進行形で高まっている。
…そのはずなのに!そのはずなのに!私たちは一度も手を繋いだことが無い!こればかりは本当に頭を悩ませている。最初のころはいつ手を繋ぐんだろうか…とドキドキしていたが、もう今はどうせ今日も…と諦めムードに入ってきてしまっているほどだ。付き合ってからどのくらいで手を繋ぐものなのかと調べたことがあるが、数日で手を繋いだという人も少なくなかったし、一ヶ月でまだ…と悩んでいる人もいた。私なんて四ヶ月だぞ!と名も知れぬ人に物申したい気持ちでいっぱいになった。こうなると私のこと本当に好きなのだろうか、という不安まで付き纏うようになる。彼が私に向ける甘たるい視線や他の人とは少し違う声色や優しい語尾に私のこと好きではあるだろうと思うのだけれど、それでも不安になってしまうものだ。女の子は難しいんだよ。
でも、それを今日私は断ち切るって決めたんだ。待ってるだけじゃダメだって腹をくくった。私は告白もしたんだし、手を繋ぎたいと言うのだって告白の時に比べたらどうって事ないだろう。そう言い聞かせて、はやる心を宥める。ちらりと彼の横顔を見た。いつも通りの横顔は鼻が高くて唇が薄くて、やっぱりいつも通り整っていて思わずうっとり見蕩れてしまう。彼はこちらの視線に気付いて、ん?と不思議そうに首を傾げた。うわあ、女子が好きなやつナンバースリーの仕草だ。キョロっと周りを見渡して誰も居なかったことに胸をなでおろした。良かった周りに誰もいなくて、こんなかっこいいの誰が見たって惚れてしまうだろう。彼は未だに何も分かってなさそうな顔をしていて、かわいい…と言ってしまいたくなったが、私の気持ちも知らないで…とやっぱりちょっとムカついた。彼は手を繋ぎたくないの?ちょっとは焦ったり悩んだりしないの?そんなことを考えていると顔に出ていたみたいで彼が口を開いた。
「どうしたの?なんか嫌なことでもあった?」
私は君のことで悩んでるんだけど!と言いたくなった。はあ、とため息まで出てしまって、彼が心配そうな顔をした。
「もしかして…俺、なんかした?」
お、いい気づきだ。このまま手を繋ぎたいという気持ちを汲み取ってくれるように誘導できないだろうか…と考えて、意地悪なことを言ってみた。
「…まー、そう、かもね」
彼は分かりやすく焦った。わなわなと手を震わせて目を泳がせている。どれだろうと心当たりを探す様が必死でかわいい。その様子を飽きずにじっと見つめていればそのうち彼はハッと思いついた顔をした。ついに気づいたか!と感動した。ごめんねって言って手をぎゅっと握って欲しい。それだけで私は十分なの。私はたったそれだけで全部許して、大好きだって気持ちでいっぱいになれるから。そう次に来る言葉に期待して高鳴る胸を抑えて祈った。来たぞ!来たぞ!と頭の中で嬉しいという気持ちが踊り跳ねる。
「ごめん、俺さ、この間借りたジャージ借りっぱだわ…」
はーーーーー!?喉元まで手がかかった言葉に咄嗟に口を押えた。おいおい、違うじゃん!そんなことどうでもいいの!いや返して欲しいけど!もーーー、なんなの。今はそんなこと重要じゃない。私は…私はただ……!今度こそほんとうにムカついた。それで大きな声で言った。
「寒いね!」
「ぅ、うん?寒いね」
「だから!寒いから!手を、」
彼の顔にはハテナが浮かんでる。ほんとに鈍感なやつ。仕方ないやつ。…それでもこんな愛おしいなあ。
「てを、つなぎたかったの…」
声が震えた。あんなに大きな声を出せたのに、言いたかった言葉はうんと小さくなった。彼はあんぐり口を開けてぽかんとした顔をしている。今まで見たことの無い顔だ。それで何秒か遅れて言葉の意味を理解したあと、顔を真っ赤にした。途端に彼はうわーーっと叫んで、しゃがんだ。私は驚いて、同じようにしゃがんで顔を覗き込む。
「み、見ないで…恥ずかし…」
そんな素直な言葉に私まで照れた。恥ずかしくって、あっつい。
「おれ、も。つなぎたいと思ってたよ」
だったら早く…とかさっきので気づいてよ…とか思うことは色々あったはずだったけど、もうかわいくっていとしくってそんな事どうでも良くなってしまった。彼は勢いよく立ち上がって、私の手を掴んで私を立たせた。うわうわ、手…手を、繋いでる。私たち、手を繋いでる。嬉しくて仕方なかった。そのまま飛び跳ねて走って、どこまでも行けそうな気持ちだった。真正面の彼はまだ恥ずかしそうなのに私からは決して目を離さない。熱い視線に身体が沸騰しそうだった。世の恋人たちはもっとナチュラルに手を繋いでそれが当たり前なのかもしれないけど、私たちは違う。でも違っていいと思えた。だって、こんなにも嬉しい。行こうか、と彼が言って私たちは歩き出した。二人の距離は今までになく近くて鼓動の音まで聞こえてきそうなほどだった。左手の温度が心地よい。二人の歩幅が同じになってぴったりとくっついて二人でひとつになったみたいだ。ずっとこうしていたい。こんな時間がいつまでもつつけばいいのに。
「…これからは、手を繋いで帰りたい」
小さな声で呟いた。周りの音にかき消されてしまいそうなくらい小さかったが、彼はバッチリ聞き取って、もともと赤かった顔を更に赤く染めた。
「お、俺も!」
ギュッと強く手を握られた。そのちょっぴりの痛みが嬉しくって、彼の大きな手を私も負けじと強く握った。何だかおかしくって二人笑いあう。いつも通りの帰路がキラキラとハイライトを落としたように輝いて見えた。初めて手を繋いだ記念日だとか言う人を馬鹿みたいだなと私はそんなことしないと心のどこかで思っていたのに、今日という日に名前をつけたくて仕方がない。帰ったら、カレンダーに印を付けよう。忘れないように。私は大切な宝物がまた一つ増えた気分で胸が幸せでいっぱいだった。

12/9/2023, 2:04:20 AM

ありがとう、ごめんね


雨が降る日は決まって頭が痛くなる。窓に打ち付ける雨の音に呼応するように頭がガンガン痛む。薬…薬、飲まなくちゃ。頭では分かっているのに、廊下を進む身体は重たくて言うことを聞いてくれない。薬って飲んでからも効くまで時間がかかるんだよな…あとどのくらいこの痛みにに耐えればいいのだろうか。あー、どこかの映画のように手を組んで強く祈ったらぱあっと晴れたりしないだろうかとロマンチックな思考の後ですぐ、そんな事があったら気圧の変化で余計頭が痛くなるだろうと現実的すぎることを考えてしまって落ち込んだ。身体が弱い時は心まで弱くなる。こんな不都合ばかりの身体にムカついた。ああ、やばい。痛みがどんどん増してきた。立っても居られなくなって、冷たい廊下にへたり込む。僕はこのままどうなるのだろうか。誰にも助けて貰えず、一人踞ったまま生涯を終えるのだろうか…。ネガティブな行き過ぎた思考が僕を襲う。視界が揺れる。酷い痛みと不安に押し潰されそうで、目の前が真っ暗になった。その時だった。僕の耳に救世の鐘の音が聞こえたのだ。
ちゃちなインターホンの音に心が踊るほど喜びを感じた。返事はできない。誰が来たのか確認も出来ない。でも、僕は彼が来たのだと確信した。僕が扉を開けに行けない状態だと察したのか、彼が合鍵を使う音が聞こえた。おじゃましまーすと間延びした声が聞こえて、彼が近付いて来るのを感じた。
「おー、大丈夫?」
「…先輩」
救世主が来た、と思った。僕のヒーローだ。
当たり前みたいに部屋に上がってくるこの彼は、大学のサークルの先輩。嫌々参加させられた飲み会で、嫌いな酒を飲まされ吐きそうになっているところを助けられ、その後いかにも自然に帰らせてくれた。その時から僕は彼を慕って彼は僕を気にかけてくれるようになった。心も身体も不安定で弱く脆い僕を理解してくれていっつも助けて欲しい時に駆けつけてくれる。ほんとうに比喩でもなんでもなくヒーローなのだ。
「薬、飲んだ?」
「……まだ、です」
「おっけ。三番目の棚だよな?」
「は、い」
悠々たる足取りで廊下を進む彼の背は逞しくて、僕はホッとしたのかちょっぴり涙ぐんだ。
「これ、はい」
大きな掌の上に乗っかったちいさな粒を二つ手に取って、同時に出された水と一緒に飲み込む。薬が喉を通る。彼が来てくれたことと、薬を飲めたことに安堵して強ばっていた肩の力が降りた。
「先輩、ごめんね」
「そこはありがとうって言うんだよ」
ありがとうとごめんはよく似てる。ありがとうと言うはずがごめんと言ってしまう弱っちいな僕を彼はいつも叱ってくれた。正しく優しいことを諦めないで僕に言ってくれた。
「…ぅん、ありがとう」
俯いたままで彼の手を見つめる。僕は彼の手が好きだ。すらりと伸びた白く長い指と骨も血管も浮き出すぎずの美しい甲。全てのバランスが良くて思わずうっとり見蕩れてしまう。僕は特段手フェチ、とやらでは無いが、もし手フェチの人が彼の手を見たら叫び出してしまうのではないかと思うほどだ。
不意に彼の白魚のような手がこちらに伸びてくるのが見えて、思わずギュッと目を瞑る。
「眉間、皺よりすぎ」
彼の指が力強くちょっと痛い強さで僕の眉間をぐりぐりと押している。僕は、ぅわっと情けない声を出した。
「頭痛いんだから、あんま考えすぎんな」
怒っているのかな、またいつものような呆れた面倒みのよさそうな顔をしているのかなあ、と、目を薄ら開けると彼は思いのほか心配そうな顔をしていた。いつもは真っ直ぐ凛とした眉を斜めに下げて、ほっぺを細かく震わせていた。彼の方がよっぽど眉間に皺を寄せているのではと思ってしまった。
「…すみません」
貴方のことを考えているんですよ。貴方のことになると僕の思考は歯止めを知らないんですよ。と、言ってしまいたくなる。でも、弱い上に意気地無しの僕はそんなこと口に出せるはずもなくてぎゅっと口を結んだ。
代わりに、彼の頬に触れた。こういう体調が良くない時だとかは、心体の不具合のせいにして彼に触れる。こういう時ばっかりは彼に触れることを神様が許してくれるような気がして。彼は、心配そうな顔をやめていつも通りの呆れた顔をしていた。もう仕方ないやつだな、俺がいないとダメなんだな、ってそんな声が聞こえてきそうな顔。そうだよ。僕、貴方がいないとダメなんだ。何にもできないの。きっと、貴方が僕から離れたときが僕の終わりなんだなって本気で思っているんだよ。こんなことを言ったらまた彼は叱って、その後ちょっと笑って許してくれるだろう。ああ、僕の隣にいてくれることを誓ってくれたりしないだろうか。そんなの夢のまた夢だって分かっているけど。でも、どうしたってそう願うことを止められない。
この雨が止むまでは彼は僕の隣にいてくれる。もう頭はちっとも痛くなかったが、彼を思うと心がズキズキ痛んでいた。あんなに晴れを望んでいたのに、彼という存在一つで雨を想ってしまうんだ。だからどうか、この雨が暫く止みませんように、と、僕はバレないようにこっそり小さく手を組んで祈っていた。

12/7/2023, 11:36:57 AM

部屋の片隅で


いつも部屋の片隅で小さく蹲っている弱っちいな僕を見つけ出して、手を伸ばしてくれたのは貴方だ。
何度も何度も同じことで泣いてすぐに隅っこを探してしまうようなどうしようもない僕を諦めないで彼はいつも月にも太陽にも勝るような眩しさで照らしてくれた。泣き止むまで隣に居てくれた。一緒に泣いてくれさえした。そんな強さと美しさが僕を掻き乱してならなかった。愛、という言葉一つに収まらない。収まっていいはずがないのだ。貴方を前にするとどんな言葉もちっぽけに思えてしまう。僕の唯一なんだ。こんな気持ちを素直に伝えてしまえればいいのにと何度思ったか。弱い上に意気地無しの僕は伝えたい一言でさえ口にできない。情けない。
「なにを考えているの?」
言ってしまいたい。言いたい。
「…ああ、気にしないで」
貴方のことを考えているのだ、と。

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