ありがとう、ごめんね
雨が降る日は決まって頭が痛くなる。窓に打ち付ける雨の音に呼応するように頭がガンガン痛む。薬…薬、飲まなくちゃ。頭では分かっているのに、廊下を進む身体は重たくて言うことを聞いてくれない。薬って飲んでからも効くまで時間がかかるんだよな…あとどのくらいこの痛みにに耐えればいいのだろうか。あー、どこかの映画のように手を組んで強く祈ったらぱあっと晴れたりしないだろうかとロマンチックな思考の後ですぐ、そんな事があったら気圧の変化で余計頭が痛くなるだろうと現実的すぎることを考えてしまって落ち込んだ。身体が弱い時は心まで弱くなる。こんな不都合ばかりの身体にムカついた。ああ、やばい。痛みがどんどん増してきた。立っても居られなくなって、冷たい廊下にへたり込む。僕はこのままどうなるのだろうか。誰にも助けて貰えず、一人踞ったまま生涯を終えるのだろうか…。ネガティブな行き過ぎた思考が僕を襲う。視界が揺れる。酷い痛みと不安に押し潰されそうで、目の前が真っ暗になった。その時だった。僕の耳に救世の鐘の音が聞こえたのだ。
ちゃちなインターホンの音に心が踊るほど喜びを感じた。返事はできない。誰が来たのか確認も出来ない。でも、僕は彼が来たのだと確信した。僕が扉を開けに行けない状態だと察したのか、彼が合鍵を使う音が聞こえた。おじゃましまーすと間延びした声が聞こえて、彼が近付いて来るのを感じた。
「おー、大丈夫?」
「…先輩」
救世主が来た、と思った。僕のヒーローだ。
当たり前みたいに部屋に上がってくるこの彼は、大学のサークルの先輩。嫌々参加させられた飲み会で、嫌いな酒を飲まされ吐きそうになっているところを助けられ、その後いかにも自然に帰らせてくれた。その時から僕は彼を慕って彼は僕を気にかけてくれるようになった。心も身体も不安定で弱く脆い僕を理解してくれていっつも助けて欲しい時に駆けつけてくれる。ほんとうに比喩でもなんでもなくヒーローなのだ。
「薬、飲んだ?」
「……まだ、です」
「おっけ。三番目の棚だよな?」
「は、い」
悠々たる足取りで廊下を進む彼の背は逞しくて、僕はホッとしたのかちょっぴり涙ぐんだ。
「これ、はい」
大きな掌の上に乗っかったちいさな粒を二つ手に取って、同時に出された水と一緒に飲み込む。薬が喉を通る。彼が来てくれたことと、薬を飲めたことに安堵して強ばっていた肩の力が降りた。
「先輩、ごめんね」
「そこはありがとうって言うんだよ」
ありがとうとごめんはよく似てる。ありがとうと言うはずがごめんと言ってしまう弱っちいな僕を彼はいつも叱ってくれた。正しく優しいことを諦めないで僕に言ってくれた。
「…ぅん、ありがとう」
俯いたままで彼の手を見つめる。僕は彼の手が好きだ。すらりと伸びた白く長い指と骨も血管も浮き出すぎずの美しい甲。全てのバランスが良くて思わずうっとり見蕩れてしまう。僕は特段手フェチ、とやらでは無いが、もし手フェチの人が彼の手を見たら叫び出してしまうのではないかと思うほどだ。
不意に彼の白魚のような手がこちらに伸びてくるのが見えて、思わずギュッと目を瞑る。
「眉間、皺よりすぎ」
彼の指が力強くちょっと痛い強さで僕の眉間をぐりぐりと押している。僕は、ぅわっと情けない声を出した。
「頭痛いんだから、あんま考えすぎんな」
怒っているのかな、またいつものような呆れた面倒みのよさそうな顔をしているのかなあ、と、目を薄ら開けると彼は思いのほか心配そうな顔をしていた。いつもは真っ直ぐ凛とした眉を斜めに下げて、ほっぺを細かく震わせていた。彼の方がよっぽど眉間に皺を寄せているのではと思ってしまった。
「…すみません」
貴方のことを考えているんですよ。貴方のことになると僕の思考は歯止めを知らないんですよ。と、言ってしまいたくなる。でも、弱い上に意気地無しの僕はそんなこと口に出せるはずもなくてぎゅっと口を結んだ。
代わりに、彼の頬に触れた。こういう体調が良くない時だとかは、心体の不具合のせいにして彼に触れる。こういう時ばっかりは彼に触れることを神様が許してくれるような気がして。彼は、心配そうな顔をやめていつも通りの呆れた顔をしていた。もう仕方ないやつだな、俺がいないとダメなんだな、ってそんな声が聞こえてきそうな顔。そうだよ。僕、貴方がいないとダメなんだ。何にもできないの。きっと、貴方が僕から離れたときが僕の終わりなんだなって本気で思っているんだよ。こんなことを言ったらまた彼は叱って、その後ちょっと笑って許してくれるだろう。ああ、僕の隣にいてくれることを誓ってくれたりしないだろうか。そんなの夢のまた夢だって分かっているけど。でも、どうしたってそう願うことを止められない。
この雨が止むまでは彼は僕の隣にいてくれる。もう頭はちっとも痛くなかったが、彼を思うと心がズキズキ痛んでいた。あんなに晴れを望んでいたのに、彼という存在一つで雨を想ってしまうんだ。だからどうか、この雨が暫く止みませんように、と、僕はバレないようにこっそり小さく手を組んで祈っていた。
12/9/2023, 2:04:20 AM