海月は泣いた。

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何でもないフリ


星は突然に落ちるのものだ。予期もしないいつも通り何ら変わらない景色を、たった一つの爆弾が今までの全てを一瞬にして変えてしまう。それを私は身に染みて実感することになる。

「俺、好きな人が、できた」
雷が落っこちたみたいな衝撃が私の頭を揺らした。驚きすぎて声も出なかった。それは、何でもないいつも通りの放課後だった。帰ろうかと口にしようとした途端彼のいつもよりちょっぴり大きく強い声が私の言葉を遮った。二人っきりの静かな教室が、よりしんと静まって、一気に空気が冷たく重くなったみたいに感じた。彼は私が黙り込んだ様子に分かりやすく慌てて、この話やっぱりなし!と大きな声で言った。
「ご、ごめん突然こんなこと言い出して…」
彼は茶色の瞳をうるうると溶けだしてしまう様に揺らしていた。恥ずかしくってどうしようもなくてどうしたらいいか分からなくて戸惑って泣きそうな顔だ、って彼の考えていることがすぐに分かった。
「ううん、ちょっとびっくりしただけ」
なんでもないように笑ってみせた。ほんとうにびっくりしただけだという様に。彼はホッと安心したみたいに顔を綻ばせた。さっきまで泣きそうだったくせに。糸が張り詰めたみたいな緊張と不安が混じりあっていた顔はもうすっかりゆるんでいた。彼は考えていることがすぐに顔に出る。あんまりに分かりやすくって、私は彼の考えることが自分の事のように分かる。だから、このことを私に伝えるのに相当の勇気を出したんだと分かって、そんな彼の気持ちを無下には出来なかった。
「…誰なの?」
それはちょっとした期待を含んだ一言だった。少女漫画のように、貴方のことです!と言われて、私もだよって返して、そうしてあっという間のハッピーエンドを迎えれたらいいのにな。そんなことないだろうか。そう柄にもなくロマンチックな思考をした後ですぐに無いなと思った。そんなこと出来るような人じゃないって知っているから、分かってしまった。
「三組のね、桜庭さんって人なんだけど…」
ほら、私のちいさな期待は呆気なく裏切られた。でも、私の頭は嫌に冷静で、こうなることをすんなり受け入れたみたいでムカついた。
「知ってる?」
知ってるよ。美人で優しいって評判の桜庭さん。誰に対しても平等で愛嬌があって、どんな話も楽しそうに聞くからみんな勘違いしちゃうって有名だよね。性格も良くって悪い噂もない。眉目秀麗で、すらりと持て余すくらいに長い手足は白くて全体のバランスが良い。柔らかな雰囲気を持つ彼女だが、堂々と歩く凛とした姿勢にギャップがあって、その様に身の程を知る、というか。彼女の美しさを改めて思い知らされる。艶のある長い黒髪が靡く様はほんのり色気まで感じる。私も近くに来たらドキドキしてしまう。高嶺の花という言葉がバチっと当てはまってしまうような人だ。知ってるよ。知ってる。
「知ってるよ」
この絶望を、痛いくらい知ってるよ。
「…俺、さ、この間の体育祭で怪我したじゃん」
ああ、そういえばリレーで派手に転んでいた。痛そうだったけどみんなに大丈夫だってへらりと笑ってて、みんなに茶化されてもごめんごめんってずっと笑ってた。私には、大丈夫そうじゃないのが分かってたから、終わってあと水道場に向かう彼に絆創膏をたっくさん渡したら、こんなに使わないよって困ったように笑ってて、要らないとは言わない優しさに私はまた心臓を掴まれた。
「その時、みんな俺を茶化して笑ってた。けど結構痛くて、顔が強ばってないか心配だった」
強ばってたよ。痛そうだった。私にはわかったよ。
「でも。でもね」
彼は顔を赤く染めた。じんわり内側から滲む赤に目を逸らしたくて仕方なかった。だってこれは、私に向けての感情じゃない。
「桜庭さんは、ずっと心配そうな顔して俺を見てたんだ」
もう、聞きたくなかった。聞きたくないのに耳にダイレクト入ってくる。もうやめてくれと頭の中ではずっとサイレンが鳴り響いていた。
「それで、終わってから水道場に洗いに行ったんだけど、その時桜庭さんが走ってきてくれて、大丈夫?って。大丈夫だよって返したんだけど、その後も僕よりも痛そうな顔してずっとそばに居てくれたんだ」
その時を思い出して嬉しそうに目を細める姿がまさに恋をしている顔、で私の心臓の温度がどんどん下がっていくのを感じる。私にだけは分かると思っていたことが彼女にも分かってしまった。
ああ、わかりやすい方が良かったんだね。私の無愛想で分かりにくい特別は、たった一度のわかりやすい優しさに全てを塗り替えられてしまった。不器用な私の精一杯の好意は、幼なじみだからというたった一言で片付けられてきた。私の気持ちはそんな一言で片付くものじゃないのに。貴方が風邪をひいた時に袋が破けるくらいにゼリーを買って笑われたことも、貴方が学校に行きたくないと小さな声で呟いた時一緒に学校をサボって親に怒られたことも、貴方が飼っていた文鳥が居なくなった時一日中探してようやく見つけて泣きながら抱き合ったことも、あれも、これも、全部。私は幼なじみだったからしてた訳じゃない。私は…。
「心の綺麗で優しい人だって思った。その時から気になってて、いつの間にかこれが好きってことなんだなって」
桜庭さんモテるよ。ライバルいっぱいいるよ。負ける確率の方が高いよ。ねえ、初恋は叶わないって言うじゃん。
「桜庭さん。モテるよね」
ハッと思った。堪えていた言葉が多すぎて私のキャパシティを超えたのか、つい口に出てしまった。
「そう、なんだよね…」
と小さな声で言う彼は今まで一度も見た事がない顔をしていた。切なそうな苦しそうな、でも強くて眩しかった。十何年ずっと一緒にいたのに、彼女のたった一つで私が知らない顔をさせたんだと思うと、感情がぐちゃぐちゃになる。自分が悲しいのか怒ってるのかも分からない。
諦めなよ、と悪魔が囁く。言ってしまいたいと思った自分は最低だ。よく漫画だとかドラマだとかで好きだから心から応援すると言う人がいるけど、そんなの綺麗事じゃないのか。失恋した哀れな自分を騙すための強がりじゃないのか。本当はみんな失敗すればいいのにとか思っていないのか。いや思ってるはずだ。分からないけど。でも、みんなもそう思うだろう、私は普通だろうと言い聞かせなければおかしくなりそうだった。
「…でも、がんばる」
強い眼差しでそう返されて、もう私の心はズタボロだった。簡単に諦めないだろうと分かっていても、好きな人に恋を諦めないと目の前で宣言されてしまえば、もう辛いという言葉に当てはまらないほどに辛い。痛い。私は、この行き場のない感情を消化できなくて、俯いてスクールバックのストラップを手持ち無沙汰に動かしていた。口数の少ない私を彼は心配したのか、俯いた顔を覗き込まれそうになってそっぽを向いた。分かりやすかっただろうが仕方なかった。今私は、酷い顔をしている。彼はそれ以上は詮索してこなかった。教室のカーテンを揺らす風の音だけが鳴っている。ドクドクと愚かな私の心臓の音が彼に聞こえてしまいそうで酷く焦るのに、何か言葉を喋ろうとすると喉がつっかえて何も言えなかった。彼の息を吸う音が聞こえる。もし、もし、上手くいってしまったら。彼の呼吸も鼓動も彼女のものになってしまうのだろう。もう私は、彼に関わることは出来ない。この先彼といたら、自分の嫌なところがどんどん出て自分のことを嫌いになるどころか彼まで嫌になってしまいそうで、それが酷く怖かった。
「俺さ」
彼が唐突に口を開いて、びっくりして肩が大きく跳ねた。この後に続く言葉を聞くのが怖い。聞きたくない。逃れることなんてできないのに怖くって目をぎゅっと瞑った。
「好きな人が出来たら、一番に言おうって思ってたんだ」
ああ、ほんとに残酷だ。
「だから…言えてよかった」
嬉しくて、悲しくて、一番酷い言葉だった。彼の中の私という存在を否が応でも実感させられた。今度こそ耐えれなくて、涙が一粒落ちて焦った。バレてないだろうか。いやバレていようがいまいが、もう、行かなきゃなんだ。
「じゃあ、行くね」
「あ、うん、帰ろうか」
違うよ。違うの。
「…好きな人がいるならさ、女の子と二人っきりで帰るとかやめたほうがいいよ。勘違いされちゃうよ」
「ぇ、でも……」
止めないで。私を止めないで。
「これからは別々、ね」
自分で振り切るのは辛い。こんな辛いことさせないで欲しかった、と思う。彼の顔は見ないでスクールバックを雑に背負って早歩きで進んだ。ドアの前で立ち止まる。もう話すのが最後になってしまうかもしれないと思ったら、これを伝えたくてしかたなかった。
「…私、あんたが良い奴だってこと、誰よりも知ってるから」
頑張って、という言葉は言えたのだろうか自分でも分からなかった。精一杯の強がりを放って走り出した。一人で帰るのは初めてで私の隣を通り過ぎる風が冷たくって、寂しくって、堪えていた涙がついにボロボロと流れ落ちた。アスファルトに大粒のしみを作っていく。誰かこの涙の跡を辿って追いかけてくれないだろうか。大丈夫?って涙を拭ってくれないだろうか。誰かと言いながら私の心の中はたった一人だった。その誰かは誰かじゃいやだよ、彼がいいの。今なら嘘だよって言われても許すよ。馬鹿だなって叱って笑ってちょっと泣いて、それでいつも通り寄り道でもしようよ。ねえ、だから早く…。そう思って少し立ち止まったけど冷たい空気が私を刺すだけで、悲しみが増すばかりだったから、小さな歩幅でいつもの何倍も遅く歩いた。
ずっとこのままではいけないと分かっていた。けれど、まだ彼の隣の生温さに浸っていたかった。どんな時だって私の隣に当たり前にいたから、これからもずっと当たり前にいるものだと信じて疑わなかった。ああ、これは完全にあれだ。失恋したんだ。たった今、失恋してしまった。頭で理解すると余計辛い。どこを歩いても彼との思い出が頭の中を埋め尽くす。私をこんなにしたのは彼なのに、彼を変えてしまったのは憎い彼女なんだ。これからは、通学路を変えなくちゃと思った。いつまでも悲しみに浸ってるだけじゃダメだって分かっていた。それでも、でも、今はまだ忘れたくない。彼との思い出を、彼への気持ちを。いつか忘れられる日が来たら、彼と彼女が上手くいったら、もし、おめでとうって心から言える時が来たら、その時は…。今は泣いてしまうだろうとしか考えられないけど、もしかしたら、私は彼の嬉しそうな顔を見て嬉しくなれて笑えるかもしれない。彼の柔らかい日向のような笑顔が容易に想像できて、心臓はギュッと軋んだ。私はその笑顔が大好きだ、と見れてよかった、と言えればいいなあと思った。

12/11/2023, 2:41:02 PM