『逃れられない呪縛』
彼女のことを忘られないまま月日が経った。
忘却の彼方、脳内に陳列された棚の最奥にでもしまって置くべき記憶。
それなのに、何回も何回も彼女は俺の脳裏から沸々と湧き出てくる。
「きりこおおおおおおおおおお!!」
俺は叫んだ。
まだ朝を迎えたばかりの時間帯。閑散とした公園の中、俺は誰かの目線を感じて振り返る。
「きりっ……!」
「桐山だよ」
自動販売機の裏から現れたのは桐山だった。俺は切子ではないとわかって落胆して。腹いせに桐山のLINEをブロックした。
「なんだ桐山か」
「僕じゃ不満? 不満だよね。ごめん」
なんだこいつ。自己完結した挙げ句、急に謝ってくるし。きも。
「桐山、何しに来たんだよ。こんな朝から」
「それは神宮寺くんも同じだろ」
神宮寺という自己肯定感爆上げの苗字を俺は気に入っており、その名で呼んでくれる桐山への好感度が少し蘇ったので。
俺は返答がわりにLINEのブロック画面を本人にみせる。
すると、
「ハハハ。相互ブロックのお誘いかい? あいにく僕は忙しくてね」
そんな意味のわからないことを言いながら、桐山はジャングルジムで遊び出した。
無駄にジャングルジムのまわりを2周半してから中央に入った後、一気に頂上まで登って上半身を投げ出した。
両腕を高らに広げながら、彼はいう。
「凄い! 凄いよ神宮寺くん! 素晴らしい景色だ……」
しばらく桐山は感慨に耽っていた。
そんな桐山を俺はどこか羨ましく感じてしまい、何故だかどんよりとした気持ちが軽くなっていることに気づく。
ただ、桐山への畏怖と切子への未練という、ひどく混沌とした感情もはらんでいた。
いつかこの逃れられない呪縛を桐山が溶かしてくれるのではないかと期待してから、なんかやだなと思い身震いした。
僕の彼女は今日を大切に生きていく人だ。
だからといって、「さよなら」と口にして眠りにつくのは今だに慣れない。
さらに朝目覚めると「はじめまして」という。
明日はどんな彼女が見れるかな。
「おはよう」と僕が声をかけると、
「誰? はじめまして」と彼女はいう。
こうして、記憶喪失の彼女との1日が始まった。
〜昨日へのさよなら、明日との出会い〜
22世紀になる現代において、珍しく我が家の水道は透明な水を垂れ流す。
このことを誰かに自慢したことはなく、私だけの秘密として心のどこかに閉まっている。前提として、自慢する相手がいないなんてオチはない。友人はいる。二名。
今まさに、そのうちのひとりに透明な水を自慢しようと蛇口に手をかけたところだった。
「早く見せてくれよ。どうせ嘘だろうけどさ」
「ああ、今からひねるよ」
私は蛇口を捻った。
すると、どろどろと濁りきった水が流れ出す。
何故だ?
「おかしいな。いつもは透明な水が出るのに」
「ははは。やっぱりな。期待して損したよ」
そう言って、友達は私の肩に馴れ馴れしく手を置いてくる。友達ごときが私の肩に触れるな。
「でもさ。久しぶりにお前に会えて嬉しかったよ。飯でも食おうぜ」
「てめぇの奢りなら考えるよ」
「ははは。お前ってそんな感じだったけ。そういうところも嫌いじゃないけどな」
この友達とは10年以上の付き合いだが。
こんな性格のいいやつだったか?
ふと、垂れ流しだった水を見ると、黒く染まるほどに濁りきっていた。
透明な水が安全なんて保証は、22世紀には存在しないのかもしれない。
〜透明な水〜
「自立式瞬間移動に加えて身体を守る自動防御システムを搭載した顔のいい大人」
「えぇ、えっ、えぇ」
担任の教師は困った顔をした。
僕は爽やかな笑顔で対抗した。
中三の進路相談を装った放課後の課外授業。
授業テーマは「理想のあなた」。
僕は、ザ・ドウトクの授業を補習させられていた。
「冗談ですよ。本音は自宅引きこもり型非正規非会社員として健康で文化的な最低限度の生活を遅れたらなと考えています」
「えぇ」
まだ不安があるのか。あるいは、自らの許容範囲を超えた僕の回答に警告音を鳴らしているのか。いずれにせよ、道徳の授業ごときで補習まで受けさせた代償を持って、目前のひとりの生徒くらい真摯に向き合ってほしい。
「先生、大丈夫ですか? 空いたお口から口臭を隠すために飲んだろうミンティアの香りが漂ってきてますけど」
「ああ、すまん。ミンティアを服用したのは確かに口臭ケアのためだが。あまり、目上の人にそんなことを言うんじゃないよ」
「はーい。先生ぐらいですよ。こんな口の聞き方するのは」
「ならいいか。いいのか?」
何やら自問し始めた先生に話を促す。
「先生、授業」
「ああ、そうだった」
そうだった?
「よし。授業を再開しようか。そうだな。理想のあなたについて回答してくれたとこからか。うーん。別にこれは未来だけに限定したものじゃないから。今の理想のあなたについても考えてみよっか」
「今ですか。そうですね」
すぐに答えられると思った。
なのに、なかなか答えが見つからない。
今?
なぜ、未来の理想は考えられたのに。
今の理想は思いつかないんだ?
ぐるぐると回転する頭は、すでに結論を導いていた。つまらない結論を。
僕は理想なんてない。
さっき答えた未来の自分も理想ってほどのものじゃないな、と思う。
きっと、どんな未来も受け入れて楽しむ自信がある。
そうか。そうだ。そうなんだ。
「先生、僕に理想なんてありませんよ。今も未来も。もちろん過去だって」
「えぇ」
また警告音を鳴らす先生にドヤ顔でこたえた。
「僕は常に理想の自分なんです」
なんだか自分で言ったそばから顔が熱くなって羞恥心に苛まれる。
けれど。
先生は真っ直ぐとこちらを見つめていて。
その瞳は、まさしく理想のあなたを映していた。
〜理想のあなた〜
中途半端に手をつけなかったのがいけなかった。
手で触り、残ったパウダーもすべて舐めてしまうくらいの覚悟は必要だったんだ。
それは突然の別れだった。
グミをひとつコンクリートの上に落とした。
空腹を満たすために、いつも携帯していたパウダー多めのグミ。オレの大好物。
そりゃあ、一粒だって無駄にしたくないさ。
一体どこから間違ってたんだろう。
家にもうすぐ着くというのに赤信号の待ち時間を利用して食べようとしたせいか。
公共交通機関を利用したあとの手を妙に気にして、手で触れるのを避け、袋を傾けながら口に放り込もうとしたせいか。
思えば、前にもこのようなことがあったような、それで今度こそはミスらないと心に誓いを立てたような。
まあ、今さら考えたところで何も残らない。
オレにできるのは、せいぜい袋の中に取り残されたオレに食べられる哀れな運命を背負わされた烏合の衆に慈愛の念を抱いて食すぐらい。
「ねえ、聞いてる?」
そもそもとして、
「ねえ!」
耳を突き刺すような声に従って意識を向けると、彼女のほのかに上気した顔が目の前に迫っていた。
「あ、う、ごめん。聞いてなかった。えっとなんて?」
「っ! いつもそうだよね。わたしの話なんてそっちのけで、どっかにいっちゃう。もうこりごりだよ。あのさ、別れよう」
オレは食道にグミが詰まったかのように声が出なくなった。
いつもの調子で弁明などすべきなのに。
それは突然の別れだった。
〜突然の別れ〜