日常的非日常
知らない天井。当たり前か。
起き上がり、まずは自分の手を見る。
しなやかで細い手首、色素が薄く白い。
鏡を探す。自分の全体像を確認する。
薄ピンクのパジャマをまとった自分は、おそらく10代半ばの少女だった。
時刻は7時半をまわったところ。多分、朝。
部屋を物色しようかとも思ったが自重する。
経験上、そういった好奇心はいらぬトラブルを招く。
もう一度ベッドに横になり、時計の針の音に耳をすまし、目を閉じる。
8時を過ぎた頃、母親らしき女が部屋の戸をノックする。
「あんた、今日学校行かないの?」
「ごめん、ちょっと体調悪い!」
大体これでなんとかなる。学生でまだ良かった。
社会人の場合、会社から電話がきたりする。
うっかり出てしまった時は、受け答えがうまくできなくて頭が真っ白になった。会話の途中で電話を切ってしまった。彼には悪いことをしたと思っている。
母親は思うところがあるのか一瞬立ち止まったが、扉から離れた様子。
去りゆく足音から察するに、階段を下りていくようだ。
とすると、ここは二階か。
思い切ってカーテンを開ける。
曇天模様の下に団地がある。どこか見慣れたような街並みだった。
あれ、もしかしてこの子、近所に住んでるのか。
私が入れ替わり立ち替わり、私でない誰かとして目覚めるようになってもう半年以上経った。どうやらカレンダーだけは正常に動いているらしい。
毎朝、目覚めると知らない他人になっている。
正直、頭がおかしくなりそうだ。発狂していてもおかしくない。
自殺を考えようにも、その時入り込んでいるのは他人の身体だ。
もしも私の意識だけ継続されて、乗り移られた誰かが死んでしまったらと思うとそれは出来ない。
人間は不思議なもので、こんな奇特な状況にも慣れがくるらしい。
私は病人を演じることで、知らない誰かの一日をなんとかこなせるようになっていった。
中年のサラリーマン、幼い少女、主婦、入院患者etc
非日常が日常になってゆく。
いつ終わるともしれぬ断続的な日々に、私は目を閉じ耳を塞いできた。
これはチャンスかもしれない。
ここから、私の家まで多分徒歩で20分くらい。
何かが変わるかもしれない。
私は私に会いに行く。当たり前になった非日常を抜け出す為に。当たり前の日常を取り戻す為に。
染まりゆく部屋
ホームセンターでカーテンを選ぶ。
彼女との同棲が決まった。アパートの契約も済ませた。
新居の為の、初めての買い物だった。
「どれが良いと思う?」
彼女が聞いてくる。
ざっと売場を見渡す。
なんだか、どれも悪くないような気がしてくる。
そもそも、良くないものなんて売場に出さないだろうし。
「これが良いと思うよ」
シンプルな薄緑色の布端を僕は指さす。
彼女はホッとした表情をする。
「良かった。私もそれが良いと思ってたのよ」
その反応に、僕もまたホッとする。
本当は濃紺に魚の柄が入ったカーテンが気になっていたのだ。
でも、それはほんの些細なこと。
いちいち口に出したりしない。
「早めに決められて良かったね」
「私も、新しい生活が始まるなって、やっと実感してきたかも」
彼女が寄り添い、指を絡めてくる。僕も握りかえす。
好きな服とか、カーテンとか、本音を言えばどうでも良いのだ。
本当に大切なものを見据えなければいけない。
君の色に染まっていく。そうゆうこと。
落下する君
浮遊感、それは案外相対的なものなのかもしれない。
今まで立っていた足場を失うと人は、落下していると感じる。
三半規管が本能的に危機を察知するのだ。
じゃあ落下し続けているのだとしたら?
唐突に君はベンチに座り込む。
空を見上げていたら足がよろけたらしい。
僕は手を差し出す。大丈夫?と尋ねる。
君はベンチにしがみついたまま冷や汗をかいている。
少し休憩しようか。
僕は君の隣に腰掛ける。
初夏なのに長袖の君、肌と対照的な濃紺のブラウスが小刻みに揺れている。白いうなじが朝露の様に汗ばんでいる。
自分の影を見つめながら君は言う。
「落ちていく気がしたの」
「空に?」
「なんだろう、自分でも分からなくて」
落下する君。だとしたらどこに?
僕は、あらゆる落下について考えてみた。
身体的な落下、精神的な落下、社会的地位の落下etc
何にしても、それらは慣性の法則から外れない限り僕らには感知出来ない。
足場を失った時に僕らは落下を感じるのだ。
等速で落ち続ける限り、それは無慈悲に無自覚に僕らを蝕む。
「落ち着いたから」
長めのスカートから砂を払い、君はゆっくり立ち上がる。
短い梅雨の晴れ間だった。
公園には水溜りが出来ていた。
水面に乱反射する陽光が視界を白くぼやけさせた。
何をしていたんだっけ。
何の為に、いつから、どうやって。
あまりにも無自覚な自分にぐらつく。
落下しているのだ。多分僕も。
まだ足元が覚束無い君の手を握る。
人魚の手の様にひんやりと心地よい。
それは君を繋ぎ留める為か、あるいは僕自身を繋ぎ留める為か。
自覚し始めた浮遊感が足場を求めていたのかもしれない。
ただ一つはっきり言えることがある。
心と言葉が曖昧なまま夏に溶けゆく前に、僕らははっきりとした着地点を掴み取らなければいけないということだった。
1年前の自分をうまく思い描けない。
出来事だけなら、写真やラインの履歴から思い出せるだろう。
曖昧なのは頭の中の話。
思考、思想、出来事に付随したあらゆる感情が抜け落ちている。
1年に渡って継続された信念がどれほど残っているか。
それがあるとすれば、もはや1年単位のものではなく、もっと自身の根幹近いものである。
去りゆく感情を無駄とは思わない。
むしろ微笑ましく感じる。あんな時代もあったね、と。
ただ、少しだけ勿体ないなと思うようになった。
最近ノートをつけ始めた。
こぼれ落ちてゆく思考の断片を、将来の自分に届ける為だ。
染色器官(仮)