お題 夜の海
私の街には、海がない。だから、思い立って海に行こうなんてことも、起こらない。あるのは、そこそこ濁った川だけ。もっと奥まで行けば田んぼの用水路も見えるけど、私が見たいのはいつだって、泡を感じられる海だった。
小さな頃、家族に連れられて以来、一度たりとも足を運んでない。波の音すら聞いてない。今はYoutubeで検索したら、色んな海が出てくる。擬似体験できるから、家にいても心地よい音は聞こえてくる。
けれどやっぱり、直接見たいし、聞きたい。昼間は生活感が出るので、ミステリアスな夜がいい。
裸足…は苦手だから、砂が入らないような靴を履いて、通気性の良いズボンと、オーバー気味の紺のTシャツを着て、浜辺のど真ん中に立ちたい。
そして、一人手を広げて目を瞑り、夜の海と一体化したい。
何度も想像した。潮の香りも、靴越しに伝わる砂の感触も、意外に大きい波の音も、月に煌めく貝殻たちも。
いつか。
いつか、夜の海に出かけたい。
一人でいたい。この言葉を聞いて、一番に思いついたのは本を選ぶ時間だった。大型書店で、携帯にメモした名前や写真を片手に、時間をかけて巡り歩く。目当ての本が見つからなくても、気になった本はその時の気分でしか見つけることはできないと思っている。例えのちに見つけたとしても、今日はこの本の気分ではない。そう思えるのは、一人でいる時にしか起こらないと思う。
だから私は、本屋では一人でいたい。
お題 澄んだ瞳
物心ついた時から、私はカラーサングラスを掛けていた。
中学生になって、担任から言われた言葉、高校生になって友達から言われた言葉、大学生になって彼氏に言われた言葉は、どれも似たようなものだった。
「本堂、そんな目で俺を見ないでくれないか。」
体育教師だった中学の担任は、当時、体罰に近い指導で問題になっていた。そのせいもあったのか、帰る間際の教室でこう言ってきた。少し怒りを含んだ声と、赦しを乞う弱気な声が混じっていたのを今でも思い出す。
「薫ちゃんって…その、確かに目はすごく綺麗だよね!こんな瞳、一生ないんじゃないかってくらい!でも、なんか、申し訳なくなるって言うか、隣にいちゃダメなような気がして。ほんと、ごめんね!!」
どうしてカラーサングラスをしているのかと興味津々に聞いてきた友達がいた。嫌な思いをすることは分かっていたけれど、どうせいつもと同じだ、耐えればいいと、慣れを自分の中に落とし込んでからサングラスを外した。初めは、すっごく綺麗!とか、こんな瞳初めて見た!とか、自分だけが知る秘密のような感覚で騒いでいた。しかし、帰り道も終盤に差し掛かった時、こちらを横目で見ながらこう言い放ってきたのだ。
幸い、最後の信号で彼女とは左右に分かれたから、雰囲気を引きずらなくて良かったと安堵した。
「悪い。お前といると、自分がいかに駄目な人間かが、突きつけられるんだ。」
私のバイトが休みの日、彼は近くのカフェに私を案内し、カフェオレを飲みながらこう告げた。彼はとても素直な人だった。悪いことはすぐに謝ってくれるし、身体も気遣ってくれる。些細なことも気がついてくれて、私の方こそ頼りっぱなしでごめんと、謝りたかった。
やっと目のことを気にせずに私を見てくれる人がいた、と、心から嬉しく思ったのだが、同棲を始めて一年も経たずに別れてしまった。
別れ際、彼からは、『泣いてる薫も目から宝石が流れてるようで綺麗だった』と、これ以上ないくらいに私の心に傷を作って消えてしまった。
日常では基本的にサングラスをかけて生活している。もちろん、家にいるときは外しているが、職場の人と話す時や友達と話す時は必ず自分を守っている。
けれど、唯一、外にいてもサングラスを外せる時がある。
「かおるせんせー」
「なあに、なほちゃん」
「またおめめ、みーせーてー!」
「あ、なほちゃん、ぬけがけはだめー」
「さきもみたい!」
私が受け持つ幼稚園クラスは、私の瞳を物珍しそうに、しかも毎日見にきてくれる園児がたくさんいる。
特に、榊菜穂ちゃんは、お人形さんみたいで綺麗…と、毎回うっとりした声で私を見つめてくる。
私は、感謝を込めて、菜穂ちゃんを抱きしめた。
周りの園児も、わたしも!ぼくも!と、わらわら集まってきて、まとめて抱きしめた。
ようやく、私の居場所ができたのだ。
そう思うと、また涙が溢れた。そして誰かが、こう言った。
「せんせー、泣いたらもったいないよ!きれいなおめめが見れないよ!」
お題 嵐が来ようとも
たとえ嵐の大きさが小さくても、果てしなく大きくても、いくつも発生して対処しきれなくても、向き合わなくてはならない。感情という芽を生み出しているのは、紛れもなく自分自身なのだから。
そして、鎮まらせることもまた、自身しかできない。
お題 お祭り
真っ赤な鳥居をくぐると、今は僕たちの棲家ではない。3日間だけ棲家を奪われた僕たちは、今でこそ楽しんで人間たちからの捧げ物を満喫しているが、半分ほど前の年に、人間たちへ抗議していた。畑を荒らし、果物を食い尽くし、木の扉を破壊して、人間たちを困らせ続けた。けれど、昔から僕たちの近くにいる古い人間は、対峙するたびに手を合わせにやってきた。
「だうかしずまれくだせぇ…」
「あしらは、御使い様を大事にしとおござえます」
年齢で言えば僕たちの方が遥かに上なので、大体の言葉はわかる。長い年月をかけて、人間に変化するために沢山の努力もしてきた。特に僕たちの長は、区別がつかないほどにまで完璧なので、姿を見せることができる。
長を目にしたその人間は、殊更に頭を下げて、目も合わせずに言葉だけを発した。
「尊いお方、やんごとなきお方であることは、十分承知しておりまするゆえ、だうか、だうか」
長は言った。
「我が一族の棲家を、なぜ荒らすのだ。人間たちの穢れがそこらかしこにあるではないか。一つ前とは随分異なっておろう?」
古い人間は答えた。
「もう、私たちでは手がつかねぇでごぜえます。おいぼればかりの、なんとかここまでですが。わけぇもんには、かないませぬのでごぜぇます。」
長はとても賢いので、こう言ったそうな。
「ならば祟りをおこせ。また棲家を荒らすようなことがあれば、貴様ら人間の里に降りて祟りをくらわすわ。簡単なことよ。狐憑きとでも広めれば良い」
長の言葉を村の皆に伝えた古い人間は、若い人間にも厳しく説教をし、丁寧にもてなすよう伝えた。しかし実際、その手を煩わせている若い人間が、僕たちの許可なく棲家に入り、わざと祟りを起こそうとしたことがあった。人間で言う、肝試しだ。
長は術が使えるので、火の玉や女狐の分身を放ち、その者に原因不明の病を引き起こさせた。
長は謝りに来た古い人間にこう伝えた。
「貴様らがやっていることは、我々の棲家を汚す事と同じ。一つ前の人間は、我々一族をもてなし、大変楽しませてくれた。その恩として、この田畑と無疫の加護を授けた。今の人間たちでは、到底受け付けぬ。去れ。さもなくば祟りを今ここで起こす。」
古い人間は息も絶え絶えにこう言った。
「だうか、だうか、このおいぼれだけにしてくだせえ。村の皆はだうか、勘弁くだせぇ」
長は、長年この古い人間と言葉を交わしてきたので、目の前の人間が今どのような気持ちかを、察することができた。古い人間は、僕たちを本当に慕っており、どんな天気の日でも手を合わすことを欠かさなかった。棲家を荒らされ続け、僕たちが村におりたあの日でさえも、たった一人でやってきては、謝り続けていた。そして、若い人間の悪戯のときにも。
長は、この古い人間に免じて、一つ前の人間よりも豪華に一族をもてなせと命じた。
そしてまた、今年も3日間だけ、僕たちの棲家が奪われる代わりに、豪華絢爛とも言える祭りが僕たちのために開かれるのだ。
長の命を受けた古い人間は、その古い身体を粉にして祭りを考えた。たくさんの仲間の力を借り、若い人間たちも巻き込んで、僕たちの棲家全部を華やかに彩った。中央には大きな太鼓と鳴物があり、常に音楽が流れるようにしてくれた。
また、鳥居の近くには新たに祠を設置して、僕たちへの捧げ物を用意してくれた。
「長!早く行きましょうよ!ふわふわな飴がなくなってしまいますよ!」
「そう急かすな。私も大分歳を重ねた。人間に紛れるのは疲れるのだ。」
「あの古い人間は、今年も来るのでしょうか?人間で数えると、一年前から姿を見ていません。」
「肉体としては来ないだろうな。霊魂ならば、既に我らの棲家の祠にある。」
長はカランコロンと下駄をならして祠へ向かった。ぼうっとした光が長の手の上で揺れている。
「其方の生をかけたもてなし、今年も心ゆくまで楽しむとしよう。其方も来るか?」
光は長の手を離れて、頭の上を漂っている。つられて上を見上げると、一発目の花火が上がったところだった。