脳裏に焼き付いているのは強烈な打撲や罵倒の瞬間だらけで、それが一枚一枚写真となって私のアルバムになっているけれど、見返してみても噴き返すのは深い負の感情だけで、何があったかは思い出せない。
せめて、陳腐な救いの歌に出てくるような「忘れられないあなた」でもいれば、欠片を摘むことはできたのに。
小学生の頃からの、憧れの人がいた。黒板に解答を書きなさいと先生に言われて、歩いて向かっていた時、俺はある男子に足を掛けられ転ばされた。周りは笑い、先生は見て見ぬふりだったけれど、その人だけ、俺に手を差し伸べてくれた。
「こんなことしても、意味ないのにな。」
その人はそう言って、照れくさそうに笑った。俺はその言葉の意味が分からなかったから、自分の良いように解釈した。きっと照れ隠しなんだと。
その人に会うためだけに、同窓会へ行った。その人の姿はすぐにわかった。精悍な顔立ち、まっすぐに伸びた背筋、まさにエリート然としていて、小学生の頃のイメージがそのまま成長した感じだった。
俺が来ると、「あ、ひさしぶりー。」「元気してたー?」と乾いた笑いで周りは出迎えて、俺が一言返すと、すぐに元の会話へ戻った。
こんなもんだろうと思っていたから、別に傷つきはしない。その人の隣は、常に誰かがいた。席替えしても、割り込む勇気なんてなくて、俺は端に追いやられた。
だけど、好機は訪れた。その人はトイレに立ったのだ。俺は、申し訳なさを抱えつつも立ち上がり、後を追いかけた。
「あのさ、」
廊下を歩く背中に声をかけた。その人は振り向いてくれた。
「俺がいじめられてた時、助けてくれてありがとう。俺、君が助けてくれたこと、今でも思い出して、周りに気を配るようにしてるんだ。歩いてる時、お年寄りや、障害のある人がいたら、真っ先に声をかけるんだ。」
下を向いて、相槌を待たずに、思いを伝える。すると、思いがけない言葉が、頭の上に浴びせかけられた。
「歩いてる時に助けても、意味なくね?」
遠ざかる足音。その人は行ってしまった。
どういう意味か、やっとわかった。小学生の頃も、今も、彼の言っていることは同じだ。
「評価される」=「意味がある」
ということなんだ。彼が、俺のことを助けたのは、善意からじゃなくて、先生や女子の目があるから。そして、歩いてる時じゃ意味がないっていうのは、知り合いが周りにいなくて、評価されないから。
確かに、帰り道では、彼のグループの誰かが小石を蹴って俺に当てた時も、彼は笑うだけで止めていなかった。彼にも人付き合いはあるよねって、良いように解釈したけど、本当は「意味がない」からしなかったんだね。
ああ、来なきゃよかったな。
すぐに店を出た。憧れは潰えて、俺の人生すべて「意味がない」ものに感じる。疲れた。帰り、踏切のある道、通っちゃおうかな。あとは、その時の自分に任せよう。
「あら、あなた!」
突然、パワフルなのにどこか上品な声が聞こえた。そちらを見る。一拍置いて思い出した。この間、重たい荷物を持って歩道橋を上っていたマダムだ。上りと下りの短い間だけど、荷物を持ってあげたんだっけ。
「あの時はありがとうね。こないだは何もあげられなかったからホラ、今買ったものあげるわ。これとかどう、強さ引き出すとかなんとか、美味しいし元気になるわよ。ホラ、疲れた顔してるから。」
そう言って、彼女は何も言えない俺に、乳酸菌飲料を持たせてくれた。何本も何本も、持たせてくれた。最後に、袋を広げてくれたので、中に入れた。流されるまま、袋を持つ。
「……ありがとう、ございますっ。」
俺は顔が見えないよう、俯いて、何度もお礼を言って、頭を下げた。彼女は何かを言っていたけれど、ぐちゃぐちゃの顔を見せないように必死で、覚えていない。
さあ、安全な道を通って帰ろう。明日の朝は、何食べよっかな。
「美衣はね、優ちゃんとあそびたいの。」
「わたしは椎ちゃんとあそびたい。」
「なんで!美衣は優ちゃんと遊びたいって言ってるの!」
「じゃあ、一緒にあそぶ?」
「やーだ!美衣は優ちゃんだけがいい!やだぁあ!」
美衣ちゃんが泣き出した。いつものことだ。
「あらあら、どうしたのかな。」
そろそろ介入しないと暴力沙汰になって、親同士の問題に発展し、私も首を突っ込まないといけなくて面倒臭いから、美衣ちゃんと優ちゃんの間にそっと、けれども毅然とした態度で、割り込んだ。
「美衣はね、優ちゃんとあそびたいのにね、優ちゃんはね、椎ちゃんとあそびたいって言ってね、うらぎりものなのっ、嘘つきなのっ!」
「わたしは椎ちゃんと遊びたかったから、断っただけ。それに、美衣ちゃんにも一緒にあそぶ?って訊いたもん。」
美衣ちゃんと優ちゃんが各々の言い分を話す。美衣ちゃんは我儘でまさにガキって感じ。優ちゃんは大人びてて気持ち悪い。
「そっか、そっか。それじゃ美衣ちゃん、わたしと一緒にあそぼっか?あっちに新しい塗り絵も、大好きなくまさんもいるぞ〜?」
美衣ちゃんに満面の笑みで話しかける。金切り声で泣き始めた。笑みに労力を割いた分、裏切られた気持ちが強くて、ストレスがどっと溜まった。ああ、耳障りで頭を掻きむしりたくなる。
自分が泣き喚く一歩手前だったけれど、なんとか抑えて、美衣ちゃんの体だけでも優ちゃんと引き離した。
「なんでっ、なんであそんじゃだめなの!美衣は、優ちゃんとあそびたいのにっ、なんで優ちゃんは美衣とあそびたくないのっ!」
美衣ちゃんはまだ泣き叫んでいる。私は、自分が感情的になってきているのがわかった。だから、手に感情が渡る前に、口から感情を吐き出すことにした。
「美衣ちゃん。美衣ちゃんは、美衣ちゃんだよね?」
「っ?そうだよ。美衣は美衣だよ?」
「そうだよね?それと同じように、優ちゃんは、優ちゃんなんだよ。優ちゃんも、美衣ちゃんと同じように、考えや、心が、あるんだよ。」
「そんなのわかってるもん!でも、でも、美衣は優ちゃんとあそびたかったの!なのにきいてくれなくてイジワルだったの!」
わかってない。幼児にこんなこと言ってもわかるはずがない。声を張り上げないよう、息を大きく吸い込んで、ゆっくり吐き出す。わかるはずがないと思っていても、止まらなかった。
「美衣ちゃんと優ちゃん、もちろん、あなたとわたしも、みーんな違うひとなの。優ちゃんはね、『シイチャントアソビタイ』って謎の音の羅列を発したんじゃないの。『椎ちゃんと遊びたい』って意思の表明をしたの。わかる?あなたとは遊びたくないって言ったの。美衣ちゃんはわがままだから嫌だって言ったの。」
最後のは、私の言葉だった。しまった、そう思った時には遅かった。美衣ちゃんはまた泣き出して、騒ぎを聴きつけた先輩が「代わるよ。あっち見ててくれる?」って代わってくれて、私はその場から逃げた。
優ちゃんが椎ちゃんと遊んでた。無邪気で、腹が立った。毎日、この子たちの出した塵が胸に積もって山となって息ができなくなる。私はぼーっと、ふたりを眺めた。
私の辛い気持ちを汲んで、なんて、幼児には伝わらない。ここでは、私は『あなた』として、尊重されないんだ。
ここ最近ずーっと晴れていて、だから、布団にくるまって、スマホばかり弄っていた。カーテンを閉めていても入ってくる陽の光が怖くて、私を責めるようにジリジリ焼いて、黒い汁にまで溶かしちゃうような気がしてた。
業者さんに発見されたら、人の形になってるのかな。私の形は、ベッドにくっきり残って、写真を撮ってくれるのかな。
そんな風に思うと、少しだけ悪く無い。生まれて初めて世間に爪痕を残せるような、そんな気持ち。
でも、今日の朝は違った。いつものように朝日が私を虐めてこない。音楽を止めても、耳鳴りが聴こえなかった。それは、外の音のおかげだった。
今日はカーテンを開けられる。ザッと思い切り引っ張ってやると、予想通りの良いお天気だった。雨雲が街を覆って、ざんざんと降る水滴が何も見えなくしてくれて、何の匂いもしない。
外に出よう。風呂に入ってなくても、髪がボサボサでも、部屋着のままでも、すっぴんでも。雨が包んでくれるから、傘が隠してくれるから。
みんな、雨に気を取られて、私を見ない。濡れたくない、寒い、って、みんな早足で、私を見ない。
家よりちょっと離れた場所の自販機で、大好きなメロンソーダを買った。今日の私はすごい。いつものメロンソーダが、すごく幸せで価値のある、ご馳走に見えた。
近所の海に浮かぶ小島には、赤い鳥居が建っている。
小島は岩で出来ていて、とても神様はいそうにない。
ぼくは波打ち際の岩にしゃがみ、それを眺めていた。
背景の空は灰色の雲に覆われて、ぼくの心と一緒だ。
鳥居も沈んだ色になり、胸を打つ鮮やかさは消えた。
ふと、小鳥が三匹、飛んできた。なんて名前だろう。
名も知れぬ小鳥たちが鳥居に留まって、鳴き出した。
ぼくも一緒に泣いた。小鳥たちが掻き消してくれた。
すると、瞼の裏が明るくなった。ぼくは目を開けた。
鳥居が光っている。雲を裂き、陽が顔を出していた。
赤くて、周りの青と灰色を置いてけぼりにするそれ。
それの奥から、神様が顔を覗かせたような気がした。
いっぱい泣いて、反省したから、許してくれたんだ。
ぼくは手頃な石をポケットに入れた。小島の代わり。
この石の中の小さな神様に、ぼくを観てて貰うんだ。
ぼくは生まれ変わる。二度と母さんを泣かせないぞ。
鳥居に差す光が広がっていく。ぼくは決意を固めた。