親友のひかりが不登校になった。それから、連絡は取り合っていたけれど、会うことはなかった。
だから、少し緊張する。売店でひかりの好きなリンゴジュースを買って、うちはそんなに好きじゃないけど、同じのを買った。なんとなく、仲良しアピール?
先生に教えられた、校舎外れの部屋へ向かう。以前は漫画研究会ってのがあったけど、潰れてそっから倉庫と化しているらしい。ひかりが、教室以外でならうちと会ってくれるって、先生に言ったから、そこで会うことになった。
トントントン、就活で習った三回ノック。開けると、二ヶ月前と変わらないひかりがいた。
「おひさ。」
「おひさ〜。」
話すとき、ほのかに微笑むのも、のんびりとした口調も、変わらなかった。髪も肌もつやつやで、安心した。
向かいのソファに座って、まず、うちの近況報告から入った。彼とは二週間前に別れたこと、母さんと仲直りしたこと、メッセージでも伝えたけれど、口で伝えた。
でも、やっぱり、就職先が決まったことは伏せた。
次は、ひかりの番、という空気になった。うちはリンゴジュースを口に含んで、黙った。不自然になったら飲み込んで、うちが話題を提供してあげよう、と思った。
「あたしね、」
ひかりが話し始めてくれた。ジュースを飲み込んで、相槌を打った。
「怖くなったの。」
ひかりはそう言った。うちは慎重に、訊いた。
「なにが?」
そしたら、ひかりは人差し指と親指を重ねて、限界まで折り曲げて、とってもちいさな穴を作った。
「こうやって、いずれ無になるのが。」
「無?」
「そう。」
「……死ぬってこと?」
しまった、と思った。こんなこと訊かない方が良かったかな、と。でも、ひかりは首を縦に振った。
「うん。人間ってさ、生まれる前も、死んだ後も、無なのかな。すべての生命は、無から始まるのかな。」
ひかりは、遠くを見てた。その瞳は、夢見る子供のようにも、過去を懐かしむ老人のようにも見えた。うちには、追いていけそうになかったけれど、ひかりの考えは、頑張って理解したかった。
「ここにいるみんなも、あんたも、いずれ段々ちっちゃくなって、ぷちっと消えちゃう。そう思うとね、すっごく怖いの。」
ひかりは下を向いて震えた。うちは勉強より運動の方が得意だから、やっぱりわかんないけど、ひかりは頭が良くて、悩んでるんだって、辛いことだけは伝わってきて、だから、変なことでもいいから、何か言いたかった。
「ひかりの話だとさ、そうやって無になったらさ、いずれまた、命が始まるんでしょ?そしたらさ、」
膝の上で握られた拳を、包み込んだ。
「うちらまた、会えるじゃん。ラッキーだね。」
ひかりは、うちを見て、きらきらとした大きな瞳から、涙をぽろぽろと流した。
何か言おうとして、言えなくて、しゃくりあげるひかり。うちは、落ち着くまで、手を握り続けた。
それからすぐ、ひかりは無になった。うちは間違えたのかな。また、始まれば、会えるかな。
エレベーターに乗ったら、あの子の香りがした。
金木犀のような、懐かしくて甘い香りだ。
このエレベーターは8階から来た。僕は8階のボタンを押した。
扉が開いてすぐ飛び出す。前へよろめきながら右左右を確認するけれど、当然、人の姿はない。
僕のせいで、心通わせられなかったあの子。もう一度チャンスを、なんて思ってない。ただただ謝りたいのに、痕跡を見つけたって、きみに辿り着けない。
台風が過ぎて、雲が消え去った。空は青く、どこまでも飛んでいけそうだ。おれは翼を広げて、空へ発つ。
「あにき、知ってるか。人間の言葉で、秋の晴天は秋晴れっていうらしいぜ。」
後ろを飛ぶ弟が言った。
「あきばれ?秋ってなんだ。」
「秋って今のことさ。」
「秋ってのは、台風の後のことか?」
「きっとそうさ。そして、その時の空が秋晴れなんだ。」
「そうか。そりゃあ特別だ。言葉もできあがるわけだ。」
おれは、真下をぐうんと見下ろしてやった。人間たちが不便な脚でちまちまと歩いてつくった、硬くて住み心地の悪そうな巣が、所狭しと並んでいる。
「人間、見てるか。今日は秋晴れだぞ。」
「そうだそうだ。こっちは広くて気持ちいいぞ。ああん、どいつもこいつも、上を見やがらねえ。」
「シゴト、で忙しいんだな。」
「ああ。たまには、空を見上げればいいのに。」
人間は可哀想だな。地面に縛り付けられて。こっちを見ろよ。知らないだろ。空って、すごく綺麗なんだぜ。
「それはできるようになりな。大人なんだからさあ。」
悪気なく、笑顔で言われたその一言。えへへ、とはにかんで返した。笑って、別れた。
帰り道は垂れ下がる。笑って笑った分、口角も、背筋も垂れ下がる。「大人なんだから」その言葉がリフレインして、親の顔を思い出した。
私を「大人」にしてくれなかった人たち。忘れたくても忘れられない、みぞおちを蹴られる苦しみ、意識を失ったと気づいた時の恐怖。窓に脚をかけて叫ぶ母。タバコの吸い殻を家の床で消しては、そっぽむく父。
「大人」なんていないのに。それぞれが生きて、その先で出会っただけなのに。なんでみんな、「大人」を求めるんだろう。
「大人なんだから」と言えるあの人は、きっと「大人」になれたんだろう。私はいまだ、なり方すら、わからないままだ。
海の音がする。ごうんごうんと波打っている。
重たい瞼を開けてみた。やわらかな光で満たされる。
再び目を閉じた。生まれる前の懐かしい音がわたしを包み込み、瞼に残る砕けた白い波と、あなたの今にも泣きそうな笑顔が、美しい想い出となっていく。
記憶の中の世界は、今でも私を優しく抱きしめている。
だから安心して、あなた。