『行かないで』2023.10.24
「行かないで」
他愛もないたったその一言を、こうも情念を込めて言えるのは自分の知る限り、彼だけだろう。
俺たちは五人組の演劇ユニットということもあり、スイッチプレイをよく行う。女性役も毎公演、誰かが演じている。自画自賛というわけではないが、皆の女性役のクオリティーは高いと思う。一番長身の彼の女性役も、その端正な顔でするからなかなか可愛らしい。
しかし、最年少の彼の女性役はとくにクオリティーは高い。
男性としては背は平均的、細身ながらよく筋トレをしている姿を見るので、身体付きはガッチリしているほう。声もやや低めだ。
そんな彼が女性役を演じると、これがなかなかどうして、色っぽいのだ。
元の役を演じながら、サブとして女性役を演じる。
その切り替えは大したものだと思うし、それが彼の表現力の高さなのだ。
「頼りにしてるわ。私のナイトさん」
おどけたようなセリフはチャーミングだ。そこに嫌味はなく、清楚さのなかにも少しの茶目っ気があり、可愛らしい一人の女性となる。
しかし、彼の真骨頂はやはり、重めの感情を抱いた女性役である。
立ち去ろうとする男の腕を引っ張って、ふっと息を詰める。男が振り返ってから、数秒溜めて、
「行かないで」
と未練がましく言う。
他の人なら寂しいという感情を乗せて発するそのセリフも、彼の手にかかれば、愛憎の入り混じるものとなるのだ。
『どこまでも続く青い空』2023.10.23
札幌。その二文字が見えた瞬間、僕たちは歓喜の声を上げた。
「あと少しですよぉ。お二人とも、がんばりましょう」
カメラマンがそうインカムで励ましてくれる。前を走る社長も親指を立てて合図をした。
しばらく走行していて、札幌と書かれたカントリーサインを超える。
「来たぞー、札幌ー!」
拳を突き上げて僕は叫んだ。ゴールの劇場まであと少し。
このグリーンのロードバイクとの別れも近い。予備日も入れての四日間という短い間だったが、この子はもはや僕の足となっている。
最初はこの企画は嫌だった。ただのテレビの企画ならともかく、動画配信サイトに投稿するだけの企画だったので、やる気などあるはずもない。
ましてやロードバイクまでまったく乗ったことなくて、普通の自転車とは違ったそれに、最初はどうすればいいかも分からなかった。幸いなことに新入社員の彼が普段からロードバイクを使っているということで、乗り方を教えてもらってからだいぶ楽になったものだ。
お尻が痛くなったり体の節々が痛くなったり、チェーンが外れたことなど数知れず、雨に降られたこともあった。それでも、泊まったホテルは快適だったし、大浴場も気持ちよかった。疲れたあとに食べるご飯も美味しかった。
大変な旅路だったが、楽しかった。
ここにきて疲れがドッと押し寄せてくる。足がもう動きそうにない。しかし、ゴールは目と鼻の先だ。
ありったけの力を使い、ペダルを漕ぐ。ゴールは、あと一漕ぎ。
「ゴール!」
ロードバイクから落ちるように地面に寝転ぶ。
「おつかれ。ゴールおめでとう」
声をかけられるまで気付かなかったが、とっくに現地入りしている仲間たちが笑顔で出迎えて称えてくれた。
荒い呼吸を整えるように、ふぅっと大きく息を吐く。
疲れた。すぐにでもホテルに入って、ベッドで休みたい。風呂にも入りたいし、これまで我慢していたビールも飲みたい。
欲求がいくつもいくつも湧いてくる。
いろいろ言いたいことはあるが、今はただ、このどこまでも続く青い空に抱きしめられていたかった。
『声が枯れるまで』2023.10.21
「愛してるよー!」
曲の合間にみんなでそう叫ぶ。広い会場の奥にいる人たちにも届くように。
数年に一度開催される、事務所をあげての一大イベント。今回はメンバーも新たに加わり、ライブに寸劇、ちょっとしたゲームなど盛りだくさんの内容だった。
多少ハプニングもあったがそれすら笑いに変えて、観客たちは喜んでくれた。
出演者全員で歌うエンディングテーマ曲。今回は今年メンバーに加わったばかりのアイドルグループがみんなで考えた曲だ。彼ららしい明るく前向きになる曲で、我々とファンの気持ちが一緒であるということを表現している。
『声が枯れるまで叫ぼう』
『愛してるよ』
出演者と観客が声をそろえて叫ぶ。その演出のにくさは、さすがはアイドルといったところだろう。
我々、出演者は応援してくれるファンたちに向けて、ファンは自分の推しに向けて。
声のかぎりに強い想いを叫んで、感動の熱気のままにイベントは幕を降ろした。
『始まりはいつも』2023.10.20
始まりはいつも小粋なジングル。
そのあとに、お決まりの挨拶。
前置きとして最近の出来事やらなにやらをトークする。相方の彼はボイスチェンジャーで声を変えているため、収録ブースには自分一人だ。
それでも彼の声は聞こえてくるので、和気あいあいとやり取りを楽しむ。
またジングルが入って各コーナーの紹介だ。
今日はノンアポで仲間たちに電話をかける企画をする。もしかしたら誰かは聴いているのかもしれないが、こちらが電話をかけるまでは選ばれるとは思っていないだろう。
リスナーからいただいた質問を選んで、プライベート用のスマートフォンで一人目にかける。
『なんで俺にかけんのよ』
面倒くさそうに電話に出た彼は、どうやら放送を聴いていたようだ。
なんのことやらとすっとぼけると、彼は北海道弁でブチブチ文句を言っている。もちろん、そんなことは知ったことないので、話を先に進めると、彼はすこしだけ嬉しそうにした。天邪鬼な人なのである。
好きな人に告白できない、という質問に彼は意外と真面目に答えてくれた。純愛を貫いた彼だから、言葉に説得力がある。
『上手くいくことを祈ってます』
最後に優しい声でそう締めくくって彼との通話を切った。
質問をくれたリスナーに、同じように応援の声をかけてCMに入った。
さぁ、次は誰にかけてやろうか。
『すれ違い』2023.10.19
営業の外回りの途中、懐かしい顔とすれ違った。すらっと背が高く、印象的な髪の色と、西洋人特有のすっきりした顔。あれは高校の時のクラスメイトだ。
人懐っこく気さくな性格で、自分ともちょくちょく世間話をしたことがあるし、派手な見た目に反して気のいいやつだった。
最後に会ったのはいつだったか。多分、高校の卒業式以来、会っていないのではないかと思う。
彼は同窓会にも参加していないし、連絡先も交換しなかったから、卒業後なにをしているのかもしらなかった。
しかし、最近ではよく彼の顔を見るようになった。主にテレビで。
彼はミュージカル俳優をやっているらしく、かなり人気者で舞台だけでなくバラエティー番組や音楽番組にも出演している。
初めてそれを知ったとき俺はたまげて、幼なじみの女友だちに連絡をした。
すると彼女は特に驚いた風もなく、よく会うから知ってると答えた。
曰く、彼女は彼の所属する事務所の下でカフェを営んでおり、よく彼と顔つきを合わせているようだ。
それこそ驚きだったし、それなりに親しかったと記憶しているので、そのすれ違いに少しばかりショックを受けた。
気が付くと踵を返して彼の後ろ姿を追っていた。
どうせ覚えていないだろうし、ファンとして声をかけてみよう。そんな気持ちで彼の肩を叩き声をかけた。
彼が振り返る。
名前を呼ぶと、彼は一瞬迷惑そうな顔をしたが、俺の姿を認めると少しだけ驚いたような顔をした。
そして、その表情を笑顔に変えて、高校のときのままの気さくさで俺の名前を呼んで再会を喜んでくれた。そのあとは軽く話をして連絡先を交換し、今度飯でも行こうと約束をした。
もし、今日彼とすれ違わなかったら、こんな奇跡は起こらなかっただろう。