帰り道、彼の影が伸びていた。その影がまた伸びて、膨らんで、蠢いて、まったく違う形をなすものだから、私は怯えてしまった。後ろに、こちらを向いて立っているはずの彼の顔を見れそうにない。どうしよう、これでは帰れない。
「どうしたの」
いつもと同じ声だった。とくに感情を含めていない声に、安心と恐怖が入り混じる。私はどうすればいいんだろうか。知らんぷりして帰る?できるのか。逃げる?逃げきけることができるだろうか。
私は影から目を離して電柱を見て、振り返った。いつもの彼が立っていた。笑って、なんでもない、と返した。彼はまたいつも通りにそう、と歩を進めていった。
体の力を抜いて、後をついていった。
今日、男の人が訪ねてきました。お父さんによく似た人でした。違うことがあるとすれば、眼鏡をかけていること、無精髭を生やしていることでしょうか。
今日、私は旅に出ます。叔父さんと話し合って決めました。お父さんとまた一緒に暮らすために、世界を周ります。叔父さん、最初は渋ったけれど、最後は納得してくれました。ついてきてくれるって言ってくれたんです。
そのために、ライ麦パン、もらってくね。
じゃあ、またね、お父さん。
さよならを言う前に
彼がここを去ると言ったのは、あまりにも突然のことだった。いつも通り彼と遊んで、たまにはちょっと冒険して。そんな普通がずっと続くと思っていた。
「じゃあ、そろそろ……」
そう切り出した彼の表情は、相変わらずわからなかった。真っ白いのっぺらぼうの仮面をして、自分の事を何も悟らせない人だった。私は彼の手を握る。
「待って。少しだけ、もう少しだけ、話してちゃダメ?」
胸が詰まって、言葉が詰まる。楽しかった、とかありがとう、とかの月並みな言葉しか出てこなかった。
それでも優しく頷いて、彼は耳を傾けてくれた。
こんなに別れが惜しくなるなんて、思いもしなかった。一緒に過ごしたのはたったのひと月なのに。
とうとう言葉が出てこなくなって、手を握ったまま俯いていると、
「大丈夫。そんなに心配しなくても約束するよ。俺は帰ってくる。いつかの春、またここを訪れる。」
「本当に……?」
私はとうとう泣き出してしまっていた。彼は私を安心させるように、手を握り返してくれた。
手を離して、彼を見送る。
「それじゃ、さよなら。また会おう。」
「うん、さようなら……!」
さよならを言う前に気づいた恋は、ひどく苦しいものだった。それでいい。もう少しだけ、この気持ちを背負っていたい。
花咲いて
彼は名前に花がつくのに、驚くほど花が似合わない人だった。適当に切り揃えられた白髪混じりの頭。年相応に皺がある顔。私と話す時の言葉選びも、同級生も教師もしないようなもので、大人としか関わってこなかったんだなと思った。子供のときも含めて。なにより眉間に皺が寄っていた。清潔感は大事にしているのだろうが、子供受けする人相ではない。
でもそんな彼が笑う顔が好きだった。眉間の皺が和らいで、目尻を下げて口角が上がる。意外に子供っぽい表情をするんだなと少しだけ感動した覚えがある。声はどこかゆったりして柔らかい雰囲気があった。精神科医故のものかもしれない。
私はふと窓を見る。もう暗いし、病院はまだ消灯時間じゃないからうっすらとしか見えなかったけれど、入院したころには鮮やかに咲いていた紫陽花が茶色く痩せ細っていた。そういえば、紫陽花が枯れる様子を『しがみつく』と表現することもあるらしい。
さて、話は変わるけれど私は明日死のうと思う。最期に彼を巻き込んで。
冥土の土産には、枯れた紫陽花を持っていこう。
彼に相応しいのはこの花だ。
優越感、劣等感
テストの素点表が配られている。悲喜交々の喧騒の中、赤毛のボブヘアを揺らして、少女はガッツポーズをした。
やった。やってやった。ついにあいつに勝った。入学してから今までの一年半の間変わらなかった総合首位を奪ってやった!
少女はその優越感でいっぱいだった。少し気持ちを落ち着けて、そっと彼女の方に目を向けた。いつも通り涼しげな顔をして表を見ている。癖のあるポニーテールは微動だにしていないように見えた。
ホームルームが終わり、少女は彼女に近づき、勝ち誇ったようにこういった。
「いつもの調子はどうしたの?今までこんなことなかったじゃない。」
彼女は少し考えるそぶりを見せてこう答えた。
「ミチルにつられて漫画読んでたからかも。」
はあ!?と少女の声が教室に響き渡る。
「で、でも、課題は?提出分はやったんでしょうね?」
低い背を精一杯に伸ばして少女は問う。
「ううん。昨日遅れて出した。」
テストは二週間も前だ。なのに昨日提出とは遅れたなんてものじゃない。それどころか寮の同室二人してテスト勉強をサボるとはいい度胸である。
「なんなのよ!私はナナと二人して無言でずっと勉強してたのに!」
納得いかなーい!とまた教室中に声が響く。総合こそ首位を取ったが、科目ごとでは二位のものもあるのだ。それに彼女は一切の復習をしていない。これでは二位も同然だ。少女はドカドカと足音を鳴らして教室を出て行った。
どうしたって天才には届かないのだと、突き放された気分である。少女は泣き出しそうになるのを堪えながら、自室に向かった。