繊細な花
「私は繊細な花なの」
耳をくぐって、脳に溶ける甘い声。人々を魅了するそれを堪能しているのは、今だけ、この世界で自分だけだ。
周りを差し置いて気高く咲き誇ったかと思えば、色彩の無い小さな花弁を付ける。
柔らかくて暖かい蕾をつけたかと思えば、凍えるように鋭い棘を生やす。
少し触れただけで大きく育った華は落ち、囃し立てれば拗ねてがくに覆われ、誰も見向きしなくなればまた色とりどりの華を身に纏う。
複雑怪奇な花だった。
「あなたは肥料よ」
「それは違う」
初めて貴方を否定したね。驚いたように丸くなった目は、すぐ尖った三角形になったものだから、自分は急いで口を開く。
「自分は肥料では無い。それではまるで貴方が花みたいじゃあないか。自分は、人だ。貴方も人だ。自分の隣にいる貴方は、何色の花でもないよ。だから、己のことを見世物のように言うのはお仕舞い。私に言わせれば複雑怪奇、他人に言わせればヘンテコ、貴方に言わせれば繊細な、ただの人。それが貴方」
独白劇に過ぎない。全ての人生に当て嵌る言葉だ。
心を蝕む何かが通り過ぎるのを辛抱強く待つように、貴方は下唇を噛んでいた。そして再び顔があげたときにゃ、まるで気高い人。高貴な乙女。それでいい。自信に満ち溢れ、気紛れに舞い踊る貴方より美しいものなんて、自分には生涯見つけることが出来ないだろう。
紅く厚い唇が開かれる。高揚。興奮。
「ばかね、ものの譬えに決まっているでしょう?」
嗚呼、美しい。
貴方はきっと、自分だけの花束。
落下
嬉しい時は階段を上る
二段、三段も飛ばしながら
軽やかな気持ちで
地に足つけて
しっかり上る
階段の途中、振り向いて叫ぶ
やっほぅ
悲しい時は階段を下る
一段、一段、でも確かに
重々しい足取りで
どしんと下る
階段の途中、しゃがみこんで呟く
たすけて
夢中になる時は沼に沈む
ゆっくり、ゆっくり
でも確実に
名前なんか付けれない
美しい色をした沼に
じわじわ沈む
沼の中で声も出さず
じっと蹲る
とても悲しいときは
階段から突き落とされる
一気に落下して
ポカンと底辺に尻餅をつく
見上げると
途方も無い遠くに光が見えて
何をする気も失せる
階段の一段目に手を掛けて
静かに涙を流す
とても嬉しいときは
新幹線のようなエスカレーターに乗せられる
ぐんぐん、上がって
気がついたら満面の笑みになる
この感情も
きっといつかは慣れてしまう
でもこんなに嬉しいのは
どん底にいた過去があるから
頂上で、叫ぶ
生きていて良かった
あいまいな空
まだ夕方なのか、はたまたもう夜なのか。イカスミに侵食されていくオレンジジュースみたいだ。ふと、窓枠から眺めた空の色に、そんな感想を抱いた。
スマホのロック画面に目を落とす。返事はまだ来ていない。
顔も声も性別も知らない、愛しい貴方だって、この空を見ているのだろう。
今は見ていなくても、この空を見て思い耽る日がきっとあったのだろう。
なんの根拠すらなくたって、貴方と同じ空を見ていると思い込むだけで、心が愛で充たされるんだ。
四角い箱を胸に当てて、空を見上げる。タダの箱じゃない。貴方と会話出来る、唯一の命綱。
そして、祈った。貴方が幸せであるように。上手くやれているように。私のことを好きでいてくれるように。この愛が、届きますように。
気が付けば、空は深藍一色に染められていた。
装飾のように散りばめられた山盛りの愛と、丸い満月だけを残して。
貴方のための、愛舞な空。
あじさい
「どうしたの、紫音」
草木は水滴を垂らし、コンクリートの上に度々小池が出来ているのを踏みつけながら歩いていた帰り道。一緒に帰っていた友人の紫音が、道端でいきなりしゃがみこんだのを見てそう声をかける。
具合が悪くなってしまったのだろうか、と些か心配した気持ちもすぐ杞憂へ変わった。輝かせた黒豆のような瞳を此方へ向けてきたからだ。
「陽菜。ホラ、紫陽花」
紫音の指差す先を見てみると、確かに紫陽花が数朶咲いていた。綺麗な青紫に、思わず感嘆の声が漏れて、自然と私もしゃがみこむ。
「こんなところに咲くんだな」
瞳に草露を反射させ、嬉しそうに紫陽花を見つめる彼の横顔を暫し見つめたあと、渋々といった雰囲気を出して私も紫陽花に目をやった。
可憐で小さな花たちが身体を寄せあい、集団で固まっている姿はまるで──
「あ、カタツムリ」
「ひっ、うそだろ、どこ!」
すばしっこい害虫でもあるまいし。湿ったコンクリートに尻餅をついた紫音に咎めるような視線を送る。
「カタツムリくらいでそんな驚くなんて……ズボン濡れるよ」
先に立ち上がって、紫音に片手を差し伸べる。短い感謝の言葉が返ってくれば、素直に片手を握られた。重力が彼の方に傾くのを踏ん張って堪える。
紫音は立ち上がってすぐ、自分の臀部に手を伸ばして。
「うわ、ちょっと濡れた。最悪。なあなあ、漏らしたみたいに見えるかな?」
「だからって尻見せつけてこないで」
紫音はへらへらと笑いながら、再び歩を進め始める。私は呆れ半分、紫音らしくて良いななんて気持ち半分で笑みを零し、彼の後について足を上げようと思った時。
「あーっ、紫音と陽菜、また一緒に帰ってんじゃん!」
「ヒュウ、お熱いねぇ」
「やめたげなよ〜。水差しちゃ悪いでしょ」
最悪だ、と思った。
「そんな機嫌損ねないでさぁ。アイツらも悪気あった訳じゃないと思うし。だってほら、異性同士で仲良いのってソーユー風に捉えちゃうのが普通だし」
「紫音もそう思ってるの?!」
「……いや、そんなつもりじゃ」
頭に血が上って金切り声を上げてしまった私に、決まり悪そうな顔をして紫音は目線を落とした。その仕草にはっとした私も黙り込んで、暫く沈黙が私たちを包み込む。
沈黙を生み出したのも、振り払ったのも私だった。
「さっきも思ったけど、紫陽花って、ああいう子達に似てる」
もうすぐやってくる突き当たりだけを眺めながらそう言い放った。言い終わるより早いか遅いか、反応を確認するように紫音を見つめる。
「……どういうところが?」
紫音は、目を瞬かせて少し考える素振りを見せたかと思えば、そう問いかけてきた。まるで良い質問だ。ふん、と鼻を鳴らしてから私は口を開く。
「ちっちゃくて可愛い子たちが寄って集ってないと、『あじさい』として存在出来ないところ。そういえば毒もあるんだっけ。そっくりだね」
「お前なあ、言い方」
肩を竦め、困ったように軽く叱責してくる紫音に、何か言い返そうと口を開きかける。だが、それは私より早く言葉を発した彼に阻害された。
「でもさ、あじさいの花に見える部分って花弁らしいじゃん?本当はもっとちっちゃいって聞いたことあるぞ」
「だから、何?」
「まあまあ、とりあえず帰ったら調べてみろよ。一軍女子達を紫陽花だと思うんならさ」
一軍女子の部分を強調した嫌味ったらしい言い方は頭に来たが、そこまで言うんなら調べてやろうと、私は躍起になっていた。
︎︎✿
家に帰り、手を洗ったらすぐ自室の勉強机に向かう。そして、いつからあるのか覚えてもいない植物図鑑を開いた。
あ行なだけあって、苦労することなくあじさいのページは見つかる。
一面に描かれた、鮮やかな青紫色。ところどころ桃や白も混ざっているそれは、綺麗としか言えないだろう。
下の方を見ると、花弁に囲まれた、蕾のような挿絵もあった。説明文を読んでみると、どうやらこれが本当の花らしい。花弁だと思っていた部分は、がくが発達した装飾花と書かれてある。
なんだか、弱そう。そう思った。
それ以外の記載はめぼしいものが見当たらなかったため頁を閉じて、表紙に描かれた沢山の花々を見ながら思考を巡らせる。
可愛く着飾っただけの、小心者同士の集まり。そう言うと相当人聞きが悪い。でも、私の頭はスッキリしていた。
あの子たちは私と紫音を揶揄うけど、紫陽花は違う。
カタツムリの歩道橋にされようと、見ず知らずの学生に不名誉な感想を抱かれようと、怒りはしない。
紫陽花とあの子たちは、違う。でも、確実な共通点はある。
◇
「紫音」
「おお、もう来てたのか?早いな。おはよう」
いつもは先に紫音が待っている待ち合わせ場所に、今日は私が一番乗りだった。
ロクに挨拶もせず、私は喋り出す。
「帰ってから紫陽花について調べたんだけど、やっぱりあの子たちに似てる。毒を持っていて、着飾ったもの同士が身を寄せないと生きて行けなくて、花言葉もあんまりいい意味ないみたいだし」
紫音は苦笑を漏らした。なんか悪化してねえか、という本心が顔にありありと貼り付けている。全く、素直な男。紫音らしくて良い。
そして私は、口角を上げて言う。
「──一番似てるのは、可愛いところだね」
今日も今日とて懲りずに揶揄いに来た一軍女子達のマヌケ面を拝むため、私は振り返った。
好き嫌い
絵を描くのが好きだった。
幼稚園の頃から落描きくらいにはよく絵を描いていたが、決定的瞬間は小学校高学年に入ったばかりの頃。図画工作の時間に簡単なデッサンのようなものを習った。その頃の僕には新鮮で、なんだか楽しくて。先生や親に褒めてもらえるのも嬉しくて、絵の虜になっていった。
動画サイトで絵の描き方を調べ、気付いたらアニメ系のイラストをよく描くようになった。上手くいかなくてむしゃくしゃするときがあっても、過去を振り返れば着実に成長しているのがハッキリ形に残るのが嬉しくて、その頃にはずっぽり絵の沼にハマっていた。
「ひろくん、すごい!」
同級生に、凄く絵の上手い子がいた。皆からひろくんと呼ばれていた。
ひろくんは、当時流行っていたアニメのイラストがすごく上手くて、クラスメイトは勿論、別のクラスの子からも「絵を描いてほしい」と頼まれていた。ひろくんは運動も勉強も得意で、絵以外はだめだめな僕とは違っていて、ずるいなとおもった。みんなにチヤホヤされていたひろくんは、子供ながら、妬ましかった。子供だから、悔しかった。
でも、僕の絵を見てくれる友人も居て、身内間で純粋に楽しんでいた、ある日。
「南くん、ハイライトの付け方おかしくない?」
休み時間、友人と絵を描いていた僕の机にひろくんが来て、突如そう言い放った。ひろくんの顔は、見れなかった。絵なんて何も分からないであろう同級生達も、ひろくんがそう言うならそうなんだろうと僕のことを馬鹿にしだした。
今なら思う。こういうヤツらをミーハーと呼ぶんだ。
「貸して。ここを、こうしたほうが……ほら、良い感じだろ?」
ひろくんは、有無を言わさず僕の紙を取り上げ、綺麗に修正してくれた。まっくろに塗りつぶされたわけでも、くしゃくしゃに紙を丸められたわけでもなく、本当に上手く修正してくれただけなのに、なんだか泣きそうになった。周りがひろくんへ送る称賛の声が、遠く聞こえた。
純粋に楽しめていた気持ちを踏み躙られた僕は、学校で絵を描くのをやめた。
◇
耳の傍で響く電子音に意識が浮上する。液晶画面を触って騒音を停止してから、寝転んだまま伸びをした。
天井を仰ぎ、そのままスマートフォンを掲げる。時刻は6時、登校の時間まで小一時間はあるといったところか。アルファベット一文字だけ印されたSNSを真っ先にタップして──少し前まで青い鳥を謳っていた──、恐る恐るベルマークに目線を向ける。記された数字は、4。
「はあ……」
溜息を吐けば不幸が来る。その不幸とやらに僕の描いた絵を見てもらえるというなら、寧ろ万々歳の気持ちだった。
スマホを布団に投げ出し、勢いよく起き上がって、ぼうっと正面のクローゼットを見つめながら考える。
絵を描くのが楽しいって、なんだ?
絵って、楽しいものなのか?
僕は絵が、好きなのか?
◇
勉強するのが嫌いだった。
絵に漬け込んでいた日々の隙間に、勉強なんて入る隙もなくて。授業中も休み時間も帰ってからも、ひたすら絵を描いていた。後は少し、ゲームとか。
だから中学受験なんて以ての外だったし、小学校の簡単なテストは半分以上取れていたからまあいいかな、なんて楽観的に思っていた。
だが勿論、中学校はそうはいかない。
「やればできるのに」
うるさい。お前はやっている僕を見たことがあるのか?
「アニメの絵なんて描いて何になるの?」
うるさい。そんなの僕だけが知っていればいい。
「好きなことだけじゃ人生やっていけないよ」
うるさい。うるさい。僕がどんな気持ちで絵を描いているのか分からないくせに。
ひたすら逃げ続けて、逃げ続けた挙句、本当は、絵が「好きなこと」なのかもわからなくなっていた。
テスト前日。僕は、今日も机に向き合う。少し違うのは、スケッチブックを片付けたことだろうか。
「凄いな、南。今までこんな点数取ったこと無かったのに、どうしたんだ?」
ようやく志望校が決まったのか、と言いながら先生がテストを返してくる。今までより四十点も上の点数を見て、なんだか複雑な気持ちだった。
◇
好きなものっていうのは、本当に気付かない内に「自分の承認欲求を充たすもの」になっている場合が多い。
中学校三年生の頃、僕は食わず嫌いしていた勉強を好きなものにした。
でも、絵はまだ時々描いている。SNSにも載せて、反応があまり来なくても、大丈夫。今は絵以外にも、たくさん好きなものがあるから。
それに。
僕は今日も筆をとる。それは勉強するためのものだったり、絵を描くためのものだったり、日記を書くためのものだったり、物語を綴るものだったり。
どれも一度、「嫌い」を経験して今があるものたちだ。
さあ、今日は何をしよう。
「嫌い」を超えた「好き」達全員で、僕だけの世界を創り出す。