【何もいらない】
満ち足りるということを一度知ってしまえば、そのあとは何もかもが物足りなくなるのだと思っていた。けれど、どうやらそうではなかったらしい。少なくとも、わたしの場合は。
だから、あなたがわたしに時折問いかける、そのたびにひやりとつめたさを覚えた。何か欲しいものはないかと静かに問う、その声音にあるのは純粋な憂慮なのだと知っていてもなお、わたしはいつだって答えに詰まった。
いいえ、なにもいりません、だいじょうぶ。ただそれだけを言うのに、どれほどの苦しみを積み重ねただろう。ほんとうに、何もいらなかったのだ。あなたがいればそれでわたしは満ち足りた。あなたさえ、いてくれるなら。それで良かったのに。
【もしも未来を見れるなら】
この部屋を出て行こうと思った。居心地良く整えられた部屋だったけれど、わたしのすべてだったけれど、ここから出て行こうと思った。他の誰でもない、わたしの意思で。
そう伝えた時のあなたはどこか悲しげに、嬉しげに、とても綺麗に微笑んでみせた。だから、わたしの選択は決して間違ってはいないのだと信じたし、事実、間違ってはいなかったのだろう。けれど。
もしもあの時、未来を見れたのならと、がらんとした部屋を思う。居心地の良くない、わたしのすべてでもない見知らぬ部屋は静まり返っていて、あなたの不在だけが虚しく響く。たったひとりの未来を選んでしまったわたしの後悔が、影のように足元に蹲っている。
【無色の世界】
あなたがくれる写真の中には時々モノクロのものが混じっていて、だというのに白と黒の濃淡がどれも鮮やかだった。この部屋がいっそ無彩色に見えるほど、あなたがどこからか持ってきた写真たちは、どれも色に溢れていた。
それは確かに正しいことだった。あの部屋の外へ一歩踏み出せば、目が痛くなるほどに世界は眩しかった。自然が織りなす景色も、誰かが作り上げた幻も、わたしの知らない色ばかりで果てなくそこに広がっていた。
けれど、こんなものか、とも思った。わたしひとりで眺める世界とは、こんなふうに味気ないのかと、そう気付いてしまえば鮮やかさはたちまちに失われてしまった。あのモノクロの写真を美しいと思えたのは、あなたがそこにいたからだった。肩を並べて語り合うあなたがいたから、わたしの世界はきっと、あんなにも美しかったのだ。
【桜散る】
窓の外に立つあなたには花びらが降り注いでいて、そのさまがあまりにも出来過ぎていたから、私は夢でも見ているのかな、とゆっくり瞬いた。満開を過ぎた花の向こうには薄ら青い空が広がっていて、あなたを照らす日差しは柔らかく形を変え続けていた。芽吹き始めた緑がこまかに輝いていた。何もかもが巡る季節の中に正しくあった。まるで祝福されたかのように。
そうでもない、と嘯いたあなたは、慣れたように窓を越えて部屋の中に入ってくる。靴を片手に遠慮なく踏み込む足元に、花びらが落ちた。あなたが纏っていたものは、そうしてしまえばただの花の死体であって、祝福とはなんだろう、と少し考えた。花の彩りのこと。佇むあなたのこと。夢を見ているのかもしれないと思ってしまった、あの景色のこと。
あるいは、祝福ではないこととはなんだろう、とも考える。花が散ること。あなたがわたしに気付いてしまったこと。あの景色を崩したのはわたしだったのだと、知ってしまったこと。
【夢見る心】
たとえどこにも行けなくても、どこかに行く夢を見ることだけは自由だった。眺めた写真の中の青い花畑、燃えるような木々の群れ、あるいは古めかしい図書館や、ひそかな息遣いで満ちた古城。訪れたことのない場所を歩く、それはどんなに素敵なことだろう。何も知らないわたしを、あなたは笑いもしなかったし憐れみもしなかった。去り際に一枚、写真を残していくあなたの心を、わたしは何も、知らなかった。
だから、今もこうして古びた写真を抱え続けている。青い花が咲いた丘、紅葉した森、海を渡った先のどこか。いつかのあなたの足取りを追うように、ひとりでずっと、歩き続けている。愚かなわたしはそうやって、いつかあなたに追いつくのだと、未だに夢見ることをやめられないでいる。