【楽園】
たとえどこにも行けなくともあなたがくれた写真があって、ひとりの寂しさにうちのめされても必ずあなたは来てくれた。広い部屋は閉じていて、満たされていた。そこは確かに楽園だったのだ。わたしは何も知らなかったけれど。外に出て初めて、あの部屋はわたしのためのすべてだったのだと、ようやく悟ったけれど。
あなたにとってはどうだったのだろう。古い写真が眠る本棚や、がらんとした部屋の一角。あなたにとって、あの部屋は、楽園であれたのだろうか。あなたはまだ、あの部屋の中にひとり、静かに佇んでいるのだろうか。
【風に乗って】
どこからか聞こえてきたフレーズはいつかの日にあなたが口ずさんでいた歌のそれで、思わず足を止めて振り返る。揺れる木々の気配。花の香り。楽器の音色。あたたかな風が吹く中で、振り返った先には誰もいない。
やがて、わたしは歩みを取り戻す。あの時、あなたはどんな言葉で歌っていたのだろうかと、記憶を手繰り寄せながら曖昧に口ずさむ。あたたかな風が吹く。楽器の音色が、花の香りが、木々の気配が遠ざかる。それでもわたしはひとり、歌い続ける。べつに、誰かに届けたい訳ではなかったけれど。
【刹那】
開けた窓の向こうでは木漏れ日が姿を変え続けていて、半端に閉めたレースのカーテンは鮮やかに翻っていた。緑の匂い、とあなたは言った。芽生えた木々の、草花の、掘り起こした土の匂い。懐かしそうに微笑むあなたを、カーテンが隠す。
それは一秒にも満たない時間だったけれど、どうしてだろう、ふたたび姿を現したあなたが、まるで知らない人のように思えたのだ。巡る季節の意味を知るあなたの笑みが、その横顔が、わたしからはひどく遠いところにあるもののようだった。そんなはずはなかった。手を伸ばせばあなたはそこにいて、きっと、数える間もなくその頬に触れられる。そう分かっていたのに伸ばせない手を、何も知らないわたしはただじっと、握りしめていた。そういう、季節だった。
【生きる意味】
そんなものはなくて良かった。そんなものよりこの部屋にいる意味がほしかった。そこにいる限り何も変わらない、悲しいことも苦しいことも何もない、穏やかに閉じた世界。ずっとここにいていいのだと、あなたは言わなかったけれど、きっとそうだった。いるもいないも、わたし次第だった。
そうと分かっていながら一歩を踏み出してしまったのだ。この部屋にはいられないと結論を出した、その結果がこれだ。わたしが生きる日々には意味が問われるようになって、答えは未だ、見つからない。あなたに尋ねてみたかった。あの日、わたしを見送ったあなたですら、答えを持っていなかったとしても。答えなんてものはどこにもないのだと、うっすら気付いていたとしても。
【善悪】
よいこともわるいこともなにもかも、テーブルの上に並べてひとつひとつ仕分けたならば、この部屋のすべてを上手に分けられると思った。もちろんできなかった。部屋の中の物をすべてテーブルに上げるなんてできなかったし、物事をふたつに仕分けることがそもそもできなかった。
そもそも、何がよくて、何がわるいのかを、私は知らなかったのだ。呆然と立ち尽くすわたしの背後で、ドアが開く。何も知らないあなたがやってくる。ああ、そうだ、と気付く。善悪の意味すら知らないわたしでも、あなただけは、と思う。あなただけは。その先に続く言葉を、仕分ける善悪を、何も知らないまま。