『どこまでも』
「左へ進むと俺の家」
耳元で囁かれた言葉を意識しないわけじゃない。
でもそれ以上に、闇に飲み込まれそうな見知らぬ細い路地を、同僚と繋いだ手の温もりと、同僚の背中のカバンの金属が街灯に照らされてキラキラと光るのを頼りに私は歩いてきたから。
この切れかけた街灯が薄ぼんやりと照らす見知らぬ交差点の私の行き先は、きっと、左。
交差点を左に曲がった。
同僚は私を慌てて追いかけて、私のカバンをそっと受け取った。パソコン、モバイルバッテリー、ファイル。重かったビジネスバッグは同僚が引き受けてくれて、右肩が軽くなる。
私の手は再び同僚にすっぽり包まれている。
「俺の手、暖かいでしょ?」と手を繋がれて「うん」と答えた。
交差点の先では変わらず夜の闇に溶けそうな細い路地が続いた。
恋人の裏切りが頭の片隅で疼いている。あの吐き気を催す光景――同期の彼が、新入社員の女を膝に乗せ、親しげにパソコンを覗き込む姿。まるでキスしそうな距離感だった。
でも、今、彼の手の温もりが、私の痛みをそっと包み込んで少しだけ和らいでいるかもしれない。
彼と私の交際は、会社では内緒だった。同期入社の戦友のような関係がいつしか恋に変わったけど、私たちは職場で私情を持ち込まないようにしようと話し合った。だから、誰も知らないはずだった。
なのに、なぜか今、隣で手を引いてくれるこの同僚の瞳には、私のすべてを見透かしているような深さがある。
「ここ、俺の家」
彼が立ち止まり、路地の奥のアパートを指さした。3階建ての建物とシンボルツリーがダウンライトに仄かに照らされどこか温かく浮かび上がっていた。
彼は階段を上った先の角部屋のドアの前で私を振り返って言った。
「狭いけど、まあ、上がって」
部屋はワンルームで、モノトーンやダークブラウンの家具で統一された簡素だけどお洒落な部屋だった。
同僚の会社のデスクと同じように部屋は整頓されていて、ビジネス書やノートパソコンが置いてある。
裏表のない性格なんだなあとなんとなく眺めてしまうと、彼は「あんまり見るなよ」とボソッと呟いた。
「ん、でも、柴犬?の羊毛フェルト?だっけ?かわいいね」
玄関の鍵を置くスペースにちょこんと乗った柴犬の手芸に笑みが溢れる。誰かからのプレゼントかな?
「実家で柴犬を飼ってるんだけどさ。一人暮らしをする前に妹が作ってプレゼントしてくれた」
「妹さんがいるんだ。お兄ちゃんのために、って優しいね」
「どうだか。こういうのに作るのにハマってる時期だったから、ちょうど良かったんじゃねーの?」
「そんなこともないと思うんだけどなあ」
彼は少し照れている。プライベートの話を聞くのは初めてだった。なんか楽しい。気が紛れる。
「座ってて。何か嫌いなものはある?」
「ううん、何でも食べれる」
「それは助かる」
ジャケットを脱いだ彼は冷蔵庫を開けて中身を確認している。
「手伝うよ」
私が立ち上がると、彼は柔らかい笑顔で首を振る。「キッチン狭いから、座ってて。チャーハンにするよ。すぐできるから」
その言葉通り、まな板で野菜を切るリズミカルな音がフライパンを振る音に変わり、チャーハンの香りが部屋に広がる。
胃が小さく鳴り、恥ずかしくてバッグをぎゅっと抱えた。
「自炊、するんだね。私、一人暮らしなのに、コンビニ弁当ばっかり」
彼は卵を割りながら、肩をすくめた。
「一人暮らしならキッチンも狭いし、そんなもんでしょ。俺は気分転換になるからしてるだけ。茨城に住む婆ちゃんが家庭菜園の野菜を送ってくるし」
彼の声に、照れ臭さとほのかな優しさが混じる。
「家族、仲が良いんだね」
「うん、まあ、そうかも」
だからあんなに仕事ができても友好的でいられるのかな。
穏やかな人柄のルーツを垣間見た気がして、なんだか微笑ましか思った。
テーブルに置かれたチャーハンは、シンプルだけど彩りがきれい。パラパラの米、刻んだネギ、ごま油の香り。「いただきます」一口食べると、温かさが身体に染みる。「…美味しい」思わず呟くと、彼は照れくさそうに笑った。「まじ?良かった」
夕食を終え、彼が「駅まで送るよ」と言ってくれた。
バッグを肩に掛け、夜のひんやりした空気の中を歩く。
路地を抜けると、あの交差点に辿り着いた。電球が切れかけた街灯が、薄ぼんやりと光る。闇に溶けそうな小さな交差点。
彼が立ち止まり、細い路地を指さした。
「さっき言わなかったけど、この細い路地、広い通りに出るよ。小池町に」
その言葉に、胸が締め付けられた。小池町。あの男の家がある場所。
行きの交差点では同僚の選択肢になかったのもあって、細すぎて気に留めなかった路地。
真っ直ぐ進めば、彼の家――裏切りの光景がフラッシュバックする。
会社で見た、彼が新入社員の女を膝に乗せる姿。「負けず嫌いなとこ、好きだよ」と言っていた彼が、仕事ができないとぼやいていた子と楽しそうに笑い合っていた。顔も身体もピタリとくっついてしまいそうなあの距離感が、吐き気をもよおす。
ふと、彼の瞳を見ると、どこか悲しげな光がある。「左、行く?」彼の声はそっと、私の心に問いかけているかのように響いた。
その瞬間、気づいてしまった。彼は知っていたんだ。私とあの男が付き合っていたこと。
きっと、あの裏切りも――。だから、私の異変に気がついて、追いかけてくれたんだ。
「…知ってた、んだよね?私とあいつのこと」
声が震える。
「あいつの裏切りも、ずっと前から…」
最悪な光景がフラッシュバックする。
彼は一瞬、目を逸らし、静かに頷いた。
「ごめん」
彼の声も傷ついている。私はため息を吐いた。
「言ってくれれば良かったのに」
「ごめん」
「謝らなくて良いよ。悪いのはあの男なんだから」
薄ぼんやりと灯っていた街灯が、切れかけて光がチラチラ揺れる。ノイズが夜の闇に響く。
「あいつの裏切りに気づいてから、言うべきか言わないでおくべきかずっと迷ってた。いや、言った方が良いに決まってるんだけど、言って傷つくのがわかってるから怖くて言えずにいた」
彼の声は低く、どこか痛みを帯びていた。
「ごめん、黙ってて」
胸が締め付けられた。彼は私のために黙っていた。ライバル視していた私に、いつもさりげないヒントをくれ、追いかけてきてくれたこの人は、こんなにも私のことを考えてくれていたんだ。
同じ交差点。行きの左は優しい同僚の家。
帰りの左は私を裏切った男の家。
私は目を閉じた。
裏切りの光景が頭をよぎる。あの笑顔、彼女の肩に触れる手。向き合いたい。でも、胸の奥が震える。
「まだ、行けない…」
私らしくない。裏切った男に、私へ伝えていたことと180度違う、どういうことかと問い詰めたい。
だけどそれをするには、会社での光景があまりに酷くて辛くて。
彼は一瞬黙り、切なそうに、だけど優しく微笑んだ。
「そうだね」と私の手を包み込むように握り、駅へと歩き出す。
私はまた彼の後ろを歩いた。
彼はダークスーツを脱ぎ、白い長袖Tシャツに着替えていた。闇い夜に白いTシャツが街灯に照らされる。まるで道標のように。
駅までの道は、静かで温かかった。彼の手の温もりが、私の凍えた心をやっぱり少しずつ溶かしてくれていると思う。
「何かあったらさ」
「うん?」
「もっと頼ってくれていいから。やけ食いでも、飲みに行くでも、何でも。俺、どうせ暇してるし」
テーブルの上にあったビジネス書は、付箋が何枚も貼られていた。
それでも、彼は私の力になってくれると伝えてくれる。
胸の奥が熱くなった。
彼が私の交際を知り、裏切りを知りながら、黙ってそばにいてくれたこと。それが、どれほどの優しさだったか。
改札の前で、彼は私のバッグをそっと返した。
「また明日、会社でな」
「うん…ありがと」
バッグを抱え、改札をくぐってからそっと振り返る。
彼は私を見送ってくれていた。
なんとなく寂しそうな表情をしている彼と目が合って、彼は小さく微笑んだ。彼の優しさに心が揺れる。私は小さく手を振って、ホームへと急ぎ足で向かった。
まだ勇気を出せない。あの男と向き合う力は、今の私にはない。
でも、この手を握ってくれた彼がいる。この温もりが、私を支えてくれる。
いつか、きっと、決着をつけられる日が来る。
その日まで、この道標の光を胸に刻んでおこう。
どこまでも、歩いていける気がする。
『どこまでも』
私の手を引いてくれるダークグレーのスーツを着た同僚の後ろを歩く。
てっきり駅へ向かって私の知らない近道を歩いているのだと思ったけれど、どうも街の雰囲気は駅の賑やかさとは対極にある気がする。入り組んだ狭い路地を歩き続けて、方角は見失っているけれど。
繋いだ手の温もりがなければ見失ってしまいそうなほど、彼のスーツは夜の闇に溶けていた。
住宅街を貫く見知らぬ路地裏の交差点で私は「ねえ」と同僚を呼んだ。
急に立ち止まった私の隣に彼は並んだ。
背の高い彼に見下ろされ、黒い瞳に光は届いていない。
ドクン、と心音が低く響いた気がした。
「どこ行くの?駅、じゃないの?」
大きな声で尋ねたつもりだったのに、私の声は震えてか細かった。
「違うよ」
間髪入れずに彼は低い声で答えた。私の質問は彼の思惑通りだったかのように。
彼は私の背後へ回り両肩にそっと触れて、私の身体を右方向へ向けた。
「右へ進むと行き止まり」
「えっ?」
クルッと身体の向きを変えられ、私の顔の横へ彼の顔が近づく。
吐息が微かに私の耳へ触れた。
「左へ進むと俺の家」
ドクンドクンと心音がうるさく鳴り響く。
「駅へ行くなら来た道を戻る。もっと戻ると会社」
「会社は嫌」
私は吐き捨てた。
会社で残業終わりに廊下から見てしまったのは、交際中の彼が所属している部署とは異なるデスクで、新入社員の女を膝に乗せて一緒にパソコンを操作している姿だった。
今にもキスしそうな距離感は、吐き気をもよおすほど気持ちが悪かった。
彼氏、否、私を裏切った人は私と同期入社で、あの人とは会社の歓迎会で意気投合して友人から交際へと発展した。
負けず嫌いでいつも頑張る私が好きだと、私をよく褒めてくれた。
「俺も負けないようにしなきゃな」とまるで戦友のような恋人関係は、私の理想の交際相手だと信じて疑わなかった。
それなのに。
彼が膝に乗せていたあの子は、ウチの会社の中でも女子力が高い、良いところのお嬢様だともっぱらの噂の人。
肝心の仕事の能力はまだまだだとぼやいていたのは、他ならぬ彼なのに。
仕事を頑張る私が好きだった人が、なんで仕事ができない女へ裏切るの?
部署に走って戻った私に同僚は驚いて、私を呼び止めるように大きな声で呼んだ。私は彼の方を見ずに挨拶だけをして部署を飛び出した。
会社の前で手首が掴まれ、引き留められる。強く握られて「痛い」と伝えたら涙声だった。街灯は容赦なく私を照らす。
同僚と私は仕事の実力が拮抗していて、私は彼をいつもライバル視していた。負けたくなかった。
彼はそんな私に友好的な態度で接した。それが彼の余裕を感じさせて、私は益々負けないように仕事に精を出した。
そんな相手に自分の弱さを見せている今の状況はとても嫌。
「大丈夫だから」
「大丈夫と思えないから追いかけたんだけど」
彼は掴んだ手を外し、私のビジネスバッグを取り上げて自分の肩に掛けた。空いた手は私と手を繋ぐ。私の手は大きな手にすっぽりとおさまった。
「俺の手、あったかいでしょ」
「…うん」
人懐っこい笑顔を向けられて、小さく頷く。
彼がふふっと軽く笑ったのが夜の闇に溶けた。
歩き出した彼の後ろを着いて行く。
彼の背負ったバッグの金属を街灯がキラキラと反射させている。
闇い夜の道標のように。
同僚に対する私の態度は、決して褒められたものじゃなかったと思う。
ライバル視して、接し方も一線を引いたような態度だったはずなのに。
彼は私に時折さりげなくヒントを置いてくれた。アドバイスほど明瞭な助けではなく、私のプライドを崩さないように、解決への手がかりになる小さなアイデアを。
本当は、ずっとずっと彼に負けているんだ。
彼が他の社員に気づかせないように気遣ってくれているだけで。
「いつも…ありがとう」
「何が?」
突然の私からの感謝の言葉に彼は振り返って不思議そうに疑問を投げかけた。
「仕事で私が行き詰まってると、さりげなくヒントくれるでしょう?すごく助けられてるのに、私、お礼を言ったことなかったなと思って」
夜の闇に紛れて、彼の瞳に私がぼんやりと映る。
「別に…同じチームだし、なんとなくこうしたら良いんじゃないかなと感じたことを言ってるだけ。実際に仕事を動かしているのは貴女だよ」
私は首を横に振った。
「ヒントがなければ打開できなかったよ」
「そっか。お役に立ててなにより」
彼は微笑んで再び歩き始めたけれど、私は立ち止まって彼の歩みを止めた。
「今日も…ありがとう。追いかけてくれて、嬉しかった」
驚きに目を丸くした彼は、次の瞬間、破顔した。
嬉しそうに笑う笑顔はちょっと可愛くて、走ったときのように鼓動が速まった気がする。
見知らぬ交差点。
左か、元来た道を戻るか。
私は彼が持っている自分のバッグに手を伸ばす。
彼の瞳が悲しげに揺れた気がした。
彼は私のバッグを私の手に持たせた。
「ごめん…送らないけど」
彼の傷ついたような声を初めて聴いた。
ああ、そうか。
この人は私のことが好きだったのか。
だから私に優しくて、私の異変に気がついて、後を追いかけてくれたのか。
薄ぼんやりと浮かぶ電球が切れかけた街灯がひとつだけの、暗闇に溶けそうな信号のない小さな交差点。
だけど、手の温もりとカバンの金属が反射する光を頼りに私が自ら歩いてきた交差点。
この導かれた交差点の先は、きっと同僚が教えてくれる。
交差点を左折する。
追いかけてくれるはずの彼は隣に並ばなかったから、数メートル先で振り返った。
「道案内してくれなきゃわからないよ」
「あっ、」
駆け寄った彼は私のバッグをそっと肩から外した。
タブレット、モバイルバッテリー、ファイル。
重かった右肩が軽くなる。
カバンの金属が街灯に反射して眩しいくらいにキラキラ光る。
「…良かった。追いかけて…」
彼がポツリと呟いた一言は、夜の闇にとても優しく温かく私の心に響いた。
未知の交差点
秋恋
憂いを感じますね
書けたら書きます
R15
自死の記述あり
ねえ。まだ自分のことを俺のセフレだと思ってる?
白いシーツに包まれて穏やかな寝息を立てる隣の女の艶やかな黒髪を一房掬い上げて口づける。
俺が「遊び人」と周囲から評価されていることは知ってる。
それを利用して人恋しくなっていたキミの肌に触れたのは俺。
でもさ、そろそろ「遊び人」のレッテルも「セフレ」のレッテルも剥がしてくれても良いんじゃない?
キミのこと、ずっと目で追っているから、キミに近づく男を追い払えるんだよ?
キミの魅力には、最初から気がついてたよ。
キミが大学のキャンパスで、黒い眼鏡をかけて休憩時間に小説を読んでいた頃から。
木陰のベンチで読書するキミの横顔はいつも物語に惹き込まれていた。微笑んでいたり、涙を拭っていたり、考え込んでいたり。
俺が初めて喋りかけた日は天気雨だったね。
少し離れたところからキミを見つめていたら急に雨が降り出して、俺は雨宿りするフリをしてキミのいる木陰に走って滑り込んだ。
キミは会釈した後、ハードカバーをハンカチで丁寧に拭ってた。
雨が香る。雨が降る明るい空が景色を輝かせる。
キミが横髪を耳にかけると色白の柔らかそうな肌と、淡いピンク色のリップが目に入った。
その仕草に見惚れて、恋してることを知った。
「本、大丈夫そう?」
「あ、うん」
キミの落ち着いた雰囲気に合わせて、ポツリポツリとキミに話しかける。
キミが今読んでる本は昔映画化された原作だと教えてくれた。
俺はその日のうちに映画作品を視聴できるアプリ会員に登録してタブレットで視聴した。
初めて知る世界はそれなりに面白くて、でも、今、キミが隣にいたら良いなと思いながら缶ビールが減っていった。
ベッドルームに朝陽が差す。
キミはふるりと長い睫毛を震わせて目を開けた。
「おはよう」
俺が笑うとキミは顔を背けて「今何時?」とベッドフレームのスマホを探し始める。
スマホをキミに探させたまま、耳、首筋、肩…柔らかなキスを繰り返す。指は触れるか触れないかの強さで柔やわとキスの後を辿っていく。
キミは口元に手を当てたけれど、隠しきれない吐息が熱く乱れていく。
「どうして我慢するの?」
「だって、朝からなんて、」
「時間なんて関係ないよ」
俺を恋人だと認めたくないのなら、
外せない蔦を絡めてあげる。
甘やかな棘で刺してあげる。
キスをさせてくれない酷い女。
他界した元カレを忘れられない憐れな女。
キミと俺がキャンパスの木陰のベンチで会話するようになってから、キミの元恋人---俺の親友が俺たちの会話に加わるようになった。
3人で遊びに行くようになって、何度も3人で遊びに行って、そしてキミの心は親友に傾いていった。
俺の前で笑い合う2人。
小説が映画化されたと、映画館デートを約束する2人。
一緒に観に行って良かったと、感想を言い合う2人。
首に浮かぶ鮮やかなキスマーク。
もう、どうでも良いや。
それからは、木陰のベンチに行かなくなった。
飲み会で誘われるまま女の肩を抱き、肌を重ねた。
キャンパスで会うキミは、俺に心配そうな視線を投げた。
LINEで大丈夫かと問いかけられて、ホテルに誘ってみた。
それ以降、LINEが送られてくることはなかった。
親友は、俺の気持ちに気づいていた。
「ごめん。でも、アイツだけは譲れないから」
「そりゃそうだろ。俺だってそうするよ」
頭を下げた親友の肩を叩いてキャンパスを後にする。
天気雨が俺の顔を濡らす。
濡れたまま歩く俺を人々が足早に追い抜いていく。
水溜りの飛沫が俺の脚元を濡らして、カーキのズボンに濃いシミを作った。
「何で歩いているかなあ」
呆れたような声に視線を向けると、何度か肌を重ねた女が俺に傘を差し掛けようとしていた。
長い黒髪の眼鏡、色白の小柄な女。キミに外見が似ている女。
「雨、気持ち良いからさ」
「そう?」
女が傘を閉じて、俺は慌てた。
「待て待て、結構降ってるぞ?」
「気持ち良いって言ったじゃん」
「言ったけどさあ」
会話だけは軽やかに、女は俺のペースに合わせて早歩きをしてくれているんだと気づいた。
「俺とさ。彼氏ができるまで付き合ってくれない?」
「それって、セフレじゃなくってこと?」
「そう。男女交際の方」
瞳をまん丸にして、俺を見上げた。
「唐突だね。まあ良いけど」
女の目の前でセフレをブロックして、女との交際は3年ほど続いた。
キミから再び連絡が来るまで。
キミから呼び出されて向かった先は大きな大学病院だった。
痩せ細った親友が、ベッドに横たわって点滴に繋がれていた。
「俺さ、癌なんだ。若いから進行が速いんだって。余命数ヶ月ってとこ」
か細く聴き取りにくいけれど、親友は気丈に話した。
親友が癌になったことも、余命数ヶ月だということも、信じたくないのに、親友の痩せ細った姿が現実を突きつける。
「また来るから」
碌に会話もせずに約束だけを残して、病室のドアを後ろ手に閉める。
信じられない。信じたくない。
指先が冷たくなって小刻みに震えている。
その後、何度か病室へ通った。
キミも気丈も親友に付き添っていた。
キミは会うたびに顔色が悪くなって、痩せていった。
---親友は自ら命を絶ってしまった
遺書はキミと俺と両親に宛てられた3通。
「彼女を頼む」
たった5文字の最期の願い。
彼女なんて書くなよ。
ずっとオマエのモノみたいじゃん。
棺の中の親友は癌の疼痛に歪んでいた表情が嘘みたいに穏やかに眠っているよう。
泣きじゃくるキミを抱き寄せて、俺も泣いた。
そんなことしかできなかった。
頼まれても無理だよ。
俺には、無理だよ。
キミとの再会は、親友の墓前。親友の誕生日だった。
花を手向け、線香を焚いて手を合わせるキミの横顔は白過ぎて、リップには彩がのっていなかった。
透き通って消えてしまうかと思うほど儚げな姿が痛々しくて俺は目を背けた。
墓前から離れた背中も手脚も細過ぎて、やっぱり目を背けた。
「この後、用事ある?ないならなんか食いに行く?」
「私…あんまり食べれないから、ごめんね」
あんまり食べてないだろうこと、行かないという意思表示は予想通りと言えばそうだった。
「じゃ、一緒に眠るか。俺、実はあんまり眠れてないんだ。キミも、だろ?」
「うん…」
俺の部屋へ連れて行き、肩を寄せ合って寝転んだ。
一つの布団を分け合って、緩く抱き寄せた。
声を殺して泣くキミの背中を摩った。
眠っても、キミの頬には涙が流れた。
いっそう強く、抱きしめた。
翌朝、キミは僕が焚いた白米を食べてくれた。目玉焼きしか作れないと言うと、キミは卵焼きを作ってくれた。
美味しいって笑える俺たちは、少しだけ前に進めた気がした。
肩を寄せ合い眠る夜が、肌を重ねて寝る夜に変わる。
吐息を漏らし、汗ばむ体躯を揺らす夜になる。
キスはいつも手で覆われて、唇へ届かない。
身体は開けるのに、心は開けない女。
愛する、それ故に、
本当の俺はキミの心を欲しがっている。
愛する、それ故に
僕はアイスリンクでの貸切練習を終えて、ひとり、電車のロングシートに座っていた。
車内は座席が埋まるほど乗客は多くはなく、かと言ってガラ空きでもなかった。スマホに視線を落とす人、居眠りをする人などを電車はガタンゴトンと一定のリズムを刻みながら運んで行く。
前のロングシートの奥、窓の外に広がる景色に視線を向けた。線路沿いのショッピングモールや小さな商店が遠のき、今は住宅街を満月が柔らかく輪郭を浮かび上がらせている。
AirPodsを両耳に嵌めて、スマホの履歴の1番上にあるサムネイルに触れた。
僕はフィギュアスケーターの宇野昌磨さんのファンだ。
彼の優れたところを語ったら一晩中語れる自信はあるけれど、その中で、あらゆるジャンルを自分のものにしてしまう才能が特に優れた点だと思う。僕の憧れだ。
今夜のような美しい月夜にピッタリなのは、彼の選手時代のフリープログラム「月光」だ。氷の上で滑る彼のコスチュームは月光が降り注ぐ湖面のようで、彼が動くたびに施された銀色のビジューがまるで月光のようにキラキラと光る。
ベートーヴェンのピアノの旋律が彼を彩る。
否、彼はいつも音楽を滑りによって奏でる側だ。
彼の緩急強弱のある滑りが、身体から美しい旋律を鳴らしているかのよう。彼は氷の上に降り立って自ら音楽を奏でる楽器のようだ。
少し大きな駅に電車が滑り込み、乗降客が交差する。僕はチラリと視線をあげ、またスマホに視線を向ける。彼の別の試合の月光が流れていた。
隣に、ふわりと誰かが腰を下ろした。ほのかに漂うシャンプーの香り。
僕は少し視線を上げ、隣に座ったのが同じクラスの山崎だと気づいた。塾帰りらしい、高校の制服に少し疲れた表情。彼女は学校に持ってきている大きなリュックを膝に抱え、参考書やプリントが入っているだろうコットンバッグも膝に抱えた。
「こんばんは」
同じクラスではあるけど、プライベートで喋ったことはない。でもこの近距離で挨拶くらいしないとな、と控えめに言うと、彼女も小声で挨拶をした。
特にそれ以上話すこともなく、彼女は満月の光が振る窓の外をぼんやり見つめている。
僕は再び画面に目を落とした。
このシーズンの彼は、足首の捻挫を繰り返していた。その当時、幼かった僕は、テレビの前で手を合わせて祈りながら応援していた。
素晴らしい成績は残していたけれど、表情はいつも険しくて、それが冴え冴えとした銀色の月の冷たさを思い起こさせた。
そんなことを思い出した瞬間、宇野選手がジャンプを失敗し、氷に手をつく。
「アッ!」
二人の声が、ぴったり重なった。
僕の驚いた山崎を見た視線と山崎が焦る視線とが交差する。彼女の頬はみるみる赤くなり、慌てて僕に言い募った。
「ご、ごめん! 勝手に画面見て…。宇野選手、転んじゃったね」と山崎が小さく謝った。
「いや、いいよ。びっくりしただけ」
僕は彼女の慌てぶりに声を顰めて笑った。
図書委員のおとなしい同級生。彼女の友人も似たようなタイプで、控えめな集団のひとりという印象だった。
でも、今、僕は人間らしい一面が知れたようで少し興味が湧く。
AirPodsの片方を外して、指で軽くはたく。
「僕ので嫌じゃなければ……一緒に観る?」
山崎は一瞬目を丸くしたが、すぐに頷いてくれた。
僕はAirPodsを彼女の手のひらにそっと置いた。指先が彼女の薄い手のひらに触れて一瞬だけドキリとした。なんたが彼女に触れた指先から全身へと熱がじんわりと広がっていく気がした。
画面の中で、宇野選手が再び滑り始める。ベートーヴェンの「月光ソナタ」が、電車の揺れと共鳴するように耳に響く。
僕は山崎が見やすいように、スマホを彼女の方へ近づけた。彼女は自分の大きな荷物を膝に抱えながらも僕のスマホを支える。
優しいな。でも、申し訳ないな。
彼女の許しをもらって荷物の上でスマホを支えて、僕たちは肩を寄せ合い、小さな画面を見つめた。
「望月くんって、フィギュアスケートをしてるんだってね」
彼女は控えめに呟いた。
視線を上げると、彼女は夜の静寂な湖面のような静かな瞳で僕を見ていた。
僕は画面に視線を落とす。ピアノソナタは第三楽章に進み、宇野選手は速く強くステップを刻む。
「うん…でも、今シーズンで辞めようと思って」
「えっ!?」
彼女の驚く声は電車が揺れる音しかない静まり返った車内には不釣り合いで、その瞬間、たくさんの視線が彼女に向けられた。
彼女は慌てて両手で口元を押さえる。
僕はクスッと笑った。
「僕…中部選手権を突破して西日本選手権に出場するのが毎年の目標なんだ」
「うん…」
山崎が心配そうな声で頷く。
「でも、なんかいっつも上手くいかなくて。練習でできることが、試合だとできなくて」
「うん…わかるかも。私、ピアノの発表会で、何度も練習してやっと演奏できるようになったのに、本番で失敗したことあるから…」
「そうなんだ…」
何年も練習してやっと跳べるようになったトリプルアクセル。
宇野昌磨選手も、習得に時間を要し、跳べるようになってからはいつもクリーンに跳んでいる。音が止まった瞬間飛び立ち、音と共に着氷する。リンクを削る音が、次のステップへ繋げる。
あんな風に僕も試合で跳んでみたい。だけどいつだって、僕は試合で転んで悔し涙を流した。
もう、引退して大学へ行こう。来年は受験生。受験勉強に取り掛かろう。
僕たちに沈黙が訪れる。
その沈黙を埋めているのは、試合を終えた直後の観客の歓声と鳴り止まない拍手。宇野選手は全身全霊で演技の最後のポーズを決めた瞬間、顔を歪めて膝から崩れ落ちている。怪我を押して、全力で滑り切って、でも、次の選手がリンク上で身体を温める準備の時間だからと立ち上がる。
僕が幼い頃から何度も勇気をもらっている、憧れのフィギュアスケーター。
宇野昌磨選手の月光が、何度も失敗して挫けそうになる僕に勇気を与えてくれた。
頑張ったら、観客が感動して拍手してくれることを教えてくれた。
「今シーズンをラストに引退しようと決めて、今年のプログラムを月光にしたんだ。コーチには難しい曲だからって反対されたけど、最後だからどうしても月光にしたいって粘って」
彼女は深く強く頷いた。
僕を見つめた大きな瞳がキラリと輝く。
スマホの光が彼女の顔を下から照らす。髪を縁取るのはガラス越しの満月の光。
「頑張って。頑張ってると思うけど、頑張ってね」
強く見つめられた後、気圧されたまま頷くと、彼女はふわりと笑った。丸く柔らかそうな頬が、綺麗な満月みたいだと思った。そんな自分が可笑しくて、山崎が僕に向けた笑顔もなんだか嬉しくて、心が温まったような気がして、僕は自然と笑っていた。
同じ降車駅を降りると、山崎は親が車で待っていると言う。
駅舎を出た時、先に歩いていた山崎は僕を振り返った。
「私、望月くんの試合、観に行きたいかも」
「えっ?」
「…望月くんのフィギュアスケート、二度と観られなくなる前に」
悪戯っぽく笑うのは、きっと逆説的な応援のメッセージ。月光の下で瞳がキラキラ輝く。
「今年こそ、西日本出るから」
「うん!」
破顔した顔は、満月のように丸く柔らかだった。
こんなに表情がくるくる変わる子だったんだ。気づいた瞬間、なぜか胸が温かくなった。
「じゃあね」
「うん。明日、学校で」
「あっ、そうだ。私も宇野昌磨くんのファンなんだ。望月くんて、ちょっと宇野くんに似てるよね」
「えっ!?」
「じゃあね」
悪戯な瞳でクスッと笑うと、駅舎の前で立ち尽くした僕をそのままに、彼女は白いワンボックスに向かって歩き出した。
月光が、黒いリュックを背負った華奢な山崎の背中に降り注ぐ。
山崎の「ちょっと宇野くんに似てるよね」と悪戯なセリフと、
宇野選手を応援する拍手や歓声が僕の心に響いて、動悸を加速させる。
似てるなんて初めて言われたし、似てるなんて思ったこともなかった。
どういう意味だろう?
疑問と共に、心を占めるのは憧れの人に似ていると言われた嬉しさ。
満月を追いかけるように自転車のペダルを漕ぐ。
夜の静寂を覆うように満月の光が僕に熱を与えてくれる。
山崎の丸い頬の笑顔を思い出し、僕は坂道を一気に駆け上がった。
moonlight