『どこまでも』
「左へ進むと俺の家」
耳元で囁かれた言葉を意識しないわけじゃない。
でもそれ以上に、闇に飲み込まれそうな見知らぬ細い路地を、同僚と繋いだ手の温もりと、同僚の背中のカバンの金属が街灯に照らされてキラキラと光るのを頼りに私は歩いてきたから。
この切れかけた街灯が薄ぼんやりと照らす見知らぬ交差点の私の行き先は、きっと、左。
交差点を左に曲がった。
同僚は私を慌てて追いかけて、私のカバンをそっと受け取った。パソコン、モバイルバッテリー、ファイル。重かったビジネスバッグは同僚が引き受けてくれて、右肩が軽くなる。
私の手は再び同僚にすっぽり包まれている。
「俺の手、暖かいでしょ?」と手を繋がれて「うん」と答えた。
交差点の先では変わらず夜の闇に溶けそうな細い路地が続いた。
恋人の裏切りが頭の片隅で疼いている。あの吐き気を催す光景――同期の彼が、新入社員の女を膝に乗せ、親しげにパソコンを覗き込む姿。まるでキスしそうな距離感だった。
でも、今、彼の手の温もりが、私の痛みをそっと包み込んで少しだけ和らいでいるかもしれない。
彼と私の交際は、会社では内緒だった。同期入社の戦友のような関係がいつしか恋に変わったけど、私たちは職場で私情を持ち込まないようにしようと話し合った。だから、誰も知らないはずだった。
なのに、なぜか今、隣で手を引いてくれるこの同僚の瞳には、私のすべてを見透かしているような深さがある。
「ここ、俺の家」
彼が立ち止まり、路地の奥のアパートを指さした。3階建ての建物とシンボルツリーがダウンライトに仄かに照らされどこか温かく浮かび上がっていた。
彼は階段を上った先の角部屋のドアの前で私を振り返って言った。
「狭いけど、まあ、上がって」
部屋はワンルームで、モノトーンやダークブラウンの家具で統一された簡素だけどお洒落な部屋だった。
同僚の会社のデスクと同じように部屋は整頓されていて、ビジネス書やノートパソコンが置いてある。
裏表のない性格なんだなあとなんとなく眺めてしまうと、彼は「あんまり見るなよ」とボソッと呟いた。
「ん、でも、柴犬?の羊毛フェルト?だっけ?かわいいね」
玄関の鍵を置くスペースにちょこんと乗った柴犬の手芸に笑みが溢れる。誰かからのプレゼントかな?
「実家で柴犬を飼ってるんだけどさ。一人暮らしをする前に妹が作ってプレゼントしてくれた」
「妹さんがいるんだ。お兄ちゃんのために、って優しいね」
「どうだか。こういうのに作るのにハマってる時期だったから、ちょうど良かったんじゃねーの?」
「そんなこともないと思うんだけどなあ」
彼は少し照れている。プライベートの話を聞くのは初めてだった。なんか楽しい。気が紛れる。
「座ってて。何か嫌いなものはある?」
「ううん、何でも食べれる」
「それは助かる」
ジャケットを脱いだ彼は冷蔵庫を開けて中身を確認している。
「手伝うよ」
私が立ち上がると、彼は柔らかい笑顔で首を振る。「キッチン狭いから、座ってて。チャーハンにするよ。すぐできるから」
その言葉通り、まな板で野菜を切るリズミカルな音がフライパンを振る音に変わり、チャーハンの香りが部屋に広がる。
胃が小さく鳴り、恥ずかしくてバッグをぎゅっと抱えた。
「自炊、するんだね。私、一人暮らしなのに、コンビニ弁当ばっかり」
彼は卵を割りながら、肩をすくめた。
「一人暮らしならキッチンも狭いし、そんなもんでしょ。俺は気分転換になるからしてるだけ。茨城に住む婆ちゃんが家庭菜園の野菜を送ってくるし」
彼の声に、照れ臭さとほのかな優しさが混じる。
「家族、仲が良いんだね」
「うん、まあ、そうかも」
だからあんなに仕事ができても友好的でいられるのかな。
穏やかな人柄のルーツを垣間見た気がして、なんだか微笑ましか思った。
テーブルに置かれたチャーハンは、シンプルだけど彩りがきれい。パラパラの米、刻んだネギ、ごま油の香り。「いただきます」一口食べると、温かさが身体に染みる。「…美味しい」思わず呟くと、彼は照れくさそうに笑った。「まじ?良かった」
夕食を終え、彼が「駅まで送るよ」と言ってくれた。
バッグを肩に掛け、夜のひんやりした空気の中を歩く。
路地を抜けると、あの交差点に辿り着いた。電球が切れかけた街灯が、薄ぼんやりと光る。闇に溶けそうな小さな交差点。
彼が立ち止まり、細い路地を指さした。
「さっき言わなかったけど、この細い路地、広い通りに出るよ。小池町に」
その言葉に、胸が締め付けられた。小池町。あの男の家がある場所。
行きの交差点では同僚の選択肢になかったのもあって、細すぎて気に留めなかった路地。
真っ直ぐ進めば、彼の家――裏切りの光景がフラッシュバックする。
会社で見た、彼が新入社員の女を膝に乗せる姿。「負けず嫌いなとこ、好きだよ」と言っていた彼が、仕事ができないとぼやいていた子と楽しそうに笑い合っていた。顔も身体もピタリとくっついてしまいそうなあの距離感が、吐き気をもよおす。
ふと、彼の瞳を見ると、どこか悲しげな光がある。「左、行く?」彼の声はそっと、私の心に問いかけているかのように響いた。
その瞬間、気づいてしまった。彼は知っていたんだ。私とあの男が付き合っていたこと。
きっと、あの裏切りも――。だから、私の異変に気がついて、追いかけてくれたんだ。
「…知ってた、んだよね?私とあいつのこと」
声が震える。
「あいつの裏切りも、ずっと前から…」
最悪な光景がフラッシュバックする。
彼は一瞬、目を逸らし、静かに頷いた。
「ごめん」
彼の声も傷ついている。私はため息を吐いた。
「言ってくれれば良かったのに」
「ごめん」
「謝らなくて良いよ。悪いのはあの男なんだから」
薄ぼんやりと灯っていた街灯が、切れかけて光がチラチラ揺れる。ノイズが夜の闇に響く。
「あいつの裏切りに気づいてから、言うべきか言わないでおくべきかずっと迷ってた。いや、言った方が良いに決まってるんだけど、言って傷つくのがわかってるから怖くて言えずにいた」
彼の声は低く、どこか痛みを帯びていた。
「ごめん、黙ってて」
胸が締め付けられた。彼は私のために黙っていた。ライバル視していた私に、いつもさりげないヒントをくれ、追いかけてきてくれたこの人は、こんなにも私のことを考えてくれていたんだ。
同じ交差点。行きの左は優しい同僚の家。
帰りの左は私を裏切った男の家。
私は目を閉じた。
裏切りの光景が頭をよぎる。あの笑顔、彼女の肩に触れる手。向き合いたい。でも、胸の奥が震える。
「まだ、行けない…」
私らしくない。裏切った男に、私へ伝えていたことと180度違う、どういうことかと問い詰めたい。
だけどそれをするには、会社での光景があまりに酷くて辛くて。
彼は一瞬黙り、切なそうに、だけど優しく微笑んだ。
「そうだね」と私の手を包み込むように握り、駅へと歩き出す。
私はまた彼の後ろを歩いた。
彼はダークスーツを脱ぎ、白い長袖Tシャツに着替えていた。闇い夜に白いTシャツが街灯に照らされる。まるで道標のように。
駅までの道は、静かで温かかった。彼の手の温もりが、私の凍えた心をやっぱり少しずつ溶かしてくれていると思う。
「何かあったらさ」
「うん?」
「もっと頼ってくれていいから。やけ食いでも、飲みに行くでも、何でも。俺、どうせ暇してるし」
テーブルの上にあったビジネス書は、付箋が何枚も貼られていた。
それでも、彼は私の力になってくれると伝えてくれる。
胸の奥が熱くなった。
彼が私の交際を知り、裏切りを知りながら、黙ってそばにいてくれたこと。それが、どれほどの優しさだったか。
改札の前で、彼は私のバッグをそっと返した。
「また明日、会社でな」
「うん…ありがと」
バッグを抱え、改札をくぐってからそっと振り返る。
彼は私を見送ってくれていた。
なんとなく寂しそうな表情をしている彼と目が合って、彼は小さく微笑んだ。彼の優しさに心が揺れる。私は小さく手を振って、ホームへと急ぎ足で向かった。
まだ勇気を出せない。あの男と向き合う力は、今の私にはない。
でも、この手を握ってくれた彼がいる。この温もりが、私を支えてくれる。
いつか、きっと、決着をつけられる日が来る。
その日まで、この道標の光を胸に刻んでおこう。
どこまでも、歩いていける気がする。
『どこまでも』
10/13/2025, 10:01:36 AM