Mey

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私の手を引いてくれるダークグレーのスーツを着た同僚の後ろを歩く。
てっきり駅へ向かって私の知らない近道を歩いているのだと思ったけれど、どうも街の雰囲気は駅の賑やかさとは対極にある気がする。入り組んだ狭い路地を歩き続けて、方角は見失っているけれど。
繋いだ手の温もりがなければ見失ってしまいそうなほど、彼のスーツは夜の闇に溶けていた。


住宅街を貫く見知らぬ路地裏の交差点で私は「ねえ」と同僚を呼んだ。
急に立ち止まった私の隣に彼は並んだ。
背の高い彼に見下ろされ、黒い瞳に光は届いていない。
ドクン、と心音が低く響いた気がした。

「どこ行くの?駅、じゃないの?」
大きな声で尋ねたつもりだったのに、私の声は震えてか細かった。
「違うよ」
間髪入れずに彼は低い声で答えた。私の質問は彼の思惑通りだったかのように。

彼は私の背後へ回り両肩にそっと触れて、私の身体を右方向へ向けた。
「右へ進むと行き止まり」
「えっ?」
クルッと身体の向きを変えられ、私の顔の横へ彼の顔が近づく。
吐息が微かに私の耳へ触れた。
「左へ進むと俺の家」
ドクンドクンと心音がうるさく鳴り響く。

「駅へ行くなら来た道を戻る。もっと戻ると会社」
「会社は嫌」

私は吐き捨てた。


会社で残業終わりに廊下から見てしまったのは、交際中の彼が所属している部署とは異なるデスクで、新入社員の女を膝に乗せて一緒にパソコンを操作している姿だった。
今にもキスしそうな距離感は、吐き気をもよおすほど気持ちが悪かった。


彼氏、否、私を裏切った人は私と同期入社で、あの人とは会社の歓迎会で意気投合して友人から交際へと発展した。
負けず嫌いでいつも頑張る私が好きだと、私をよく褒めてくれた。
「俺も負けないようにしなきゃな」とまるで戦友のような恋人関係は、私の理想の交際相手だと信じて疑わなかった。

それなのに。
彼が膝に乗せていたあの子は、ウチの会社の中でも女子力が高い、良いところのお嬢様だともっぱらの噂の人。
肝心の仕事の能力はまだまだだとぼやいていたのは、他ならぬ彼なのに。

仕事を頑張る私が好きだった人が、なんで仕事ができない女へ裏切るの?


部署に走って戻った私に同僚は驚いて、私を呼び止めるように大きな声で呼んだ。私は彼の方を見ずに挨拶だけをして部署を飛び出した。
会社の前で手首が掴まれ、引き留められる。強く握られて「痛い」と伝えたら涙声だった。街灯は容赦なく私を照らす。

同僚と私は仕事の実力が拮抗していて、私は彼をいつもライバル視していた。負けたくなかった。
彼はそんな私に友好的な態度で接した。それが彼の余裕を感じさせて、私は益々負けないように仕事に精を出した。
そんな相手に自分の弱さを見せている今の状況はとても嫌。

「大丈夫だから」
「大丈夫と思えないから追いかけたんだけど」

彼は掴んだ手を外し、私のビジネスバッグを取り上げて自分の肩に掛けた。空いた手は私と手を繋ぐ。私の手は大きな手にすっぽりとおさまった。

「俺の手、あったかいでしょ」
「…うん」
人懐っこい笑顔を向けられて、小さく頷く。
彼がふふっと軽く笑ったのが夜の闇に溶けた。

歩き出した彼の後ろを着いて行く。
彼の背負ったバッグの金属を街灯がキラキラと反射させている。
闇い夜の道標のように。


同僚に対する私の態度は、決して褒められたものじゃなかったと思う。
ライバル視して、接し方も一線を引いたような態度だったはずなのに。

彼は私に時折さりげなくヒントを置いてくれた。アドバイスほど明瞭な助けではなく、私のプライドを崩さないように、解決への手がかりになる小さなアイデアを。

本当は、ずっとずっと彼に負けているんだ。
彼が他の社員に気づかせないように気遣ってくれているだけで。


「いつも…ありがとう」
「何が?」
突然の私からの感謝の言葉に彼は振り返って不思議そうに疑問を投げかけた。

「仕事で私が行き詰まってると、さりげなくヒントくれるでしょう?すごく助けられてるのに、私、お礼を言ったことなかったなと思って」

夜の闇に紛れて、彼の瞳に私がぼんやりと映る。
「別に…同じチームだし、なんとなくこうしたら良いんじゃないかなと感じたことを言ってるだけ。実際に仕事を動かしているのは貴女だよ」
私は首を横に振った。
「ヒントがなければ打開できなかったよ」
「そっか。お役に立ててなにより」
彼は微笑んで再び歩き始めたけれど、私は立ち止まって彼の歩みを止めた。

「今日も…ありがとう。追いかけてくれて、嬉しかった」

驚きに目を丸くした彼は、次の瞬間、破顔した。
嬉しそうに笑う笑顔はちょっと可愛くて、走ったときのように鼓動が速まった気がする。



見知らぬ交差点。
左か、元来た道を戻るか。

私は彼が持っている自分のバッグに手を伸ばす。
彼の瞳が悲しげに揺れた気がした。

彼は私のバッグを私の手に持たせた。

「ごめん…送らないけど」

彼の傷ついたような声を初めて聴いた。

ああ、そうか。
この人は私のことが好きだったのか。

だから私に優しくて、私の異変に気がついて、後を追いかけてくれたのか。


薄ぼんやりと浮かぶ電球が切れかけた街灯がひとつだけの、暗闇に溶けそうな信号のない小さな交差点。

だけど、手の温もりとカバンの金属が反射する光を頼りに私が自ら歩いてきた交差点。

この導かれた交差点の先は、きっと同僚が教えてくれる。

交差点を左折する。
追いかけてくれるはずの彼は隣に並ばなかったから、数メートル先で振り返った。

「道案内してくれなきゃわからないよ」
「あっ、」

駆け寄った彼は私のバッグをそっと肩から外した。
タブレット、モバイルバッテリー、ファイル。
重かった右肩が軽くなる。


カバンの金属が街灯に反射して眩しいくらいにキラキラ光る。

「…良かった。追いかけて…」
彼がポツリと呟いた一言は、夜の闇にとても優しく温かく私の心に響いた。




未知の交差点

10/12/2025, 1:59:26 AM