Mey

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僕はアイスリンクでの貸切練習を終えて、ひとり、電車のロングシートに座っていた。
車内は座席が埋まるほど乗客は多くはなく、かと言ってガラ空きでもなかった。スマホに視線を落とす人、居眠りをする人などを電車はガタンゴトンと一定のリズムを刻みながら運んで行く。
前のロングシートの奥、窓の外に広がる景色に視線を向けた。線路沿いのショッピングモールや小さな商店が遠のき、今は住宅街を満月が柔らかく輪郭を浮かび上がらせている。
AirPodsを両耳に嵌めて、スマホの履歴の1番上にあるサムネイルに触れた。
僕はフィギュアスケーターの宇野昌磨さんのファンだ。
彼の優れたところを語ったら一晩中語れる自信はあるけれど、その中で、あらゆるジャンルを自分のものにしてしまう才能が特に優れた点だと思う。僕の憧れだ。
今夜のような美しい月夜にピッタリなのは、彼の選手時代のフリープログラム「月光」だ。氷の上で滑る彼のコスチュームは月光が降り注ぐ湖面のようで、彼が動くたびに施された銀色のビジューがまるで月光のようにキラキラと光る。
ベートーヴェンのピアノの旋律が彼を彩る。
否、彼はいつも音楽を滑りによって奏でる側だ。
彼の緩急強弱のある滑りが、身体から美しい旋律を鳴らしているかのよう。彼は氷の上に降り立って自ら音楽を奏でる楽器のようだ。


少し大きな駅に電車が滑り込み、乗降客が交差する。僕はチラリと視線をあげ、またスマホに視線を向ける。彼の別の試合の月光が流れていた。
隣に、ふわりと誰かが腰を下ろした。ほのかに漂うシャンプーの香り。
僕は少し視線を上げ、隣に座ったのが同じクラスの山崎だと気づいた。塾帰りらしい、高校の制服に少し疲れた表情。彼女は学校に持ってきている大きなリュックを膝に抱え、参考書やプリントが入っているだろうコットンバッグも膝に抱えた。

「こんばんは」
同じクラスではあるけど、プライベートで喋ったことはない。でもこの近距離で挨拶くらいしないとな、と控えめに言うと、彼女も小声で挨拶をした。
特にそれ以上話すこともなく、彼女は満月の光が振る窓の外をぼんやり見つめている。

僕は再び画面に目を落とした。
このシーズンの彼は、足首の捻挫を繰り返していた。その当時、幼かった僕は、テレビの前で手を合わせて祈りながら応援していた。
素晴らしい成績は残していたけれど、表情はいつも険しくて、それが冴え冴えとした銀色の月の冷たさを思い起こさせた。
そんなことを思い出した瞬間、宇野選手がジャンプを失敗し、氷に手をつく。

「アッ!」

二人の声が、ぴったり重なった。

僕の驚いた山崎を見た視線と山崎が焦る視線とが交差する。彼女の頬はみるみる赤くなり、慌てて僕に言い募った。

「ご、ごめん! 勝手に画面見て…。宇野選手、転んじゃったね」と山崎が小さく謝った。
「いや、いいよ。びっくりしただけ」
僕は彼女の慌てぶりに声を顰めて笑った。

図書委員のおとなしい同級生。彼女の友人も似たようなタイプで、控えめな集団のひとりという印象だった。
でも、今、僕は人間らしい一面が知れたようで少し興味が湧く。

AirPodsの片方を外して、指で軽くはたく。
「僕ので嫌じゃなければ……一緒に観る?」

山崎は一瞬目を丸くしたが、すぐに頷いてくれた。
僕はAirPodsを彼女の手のひらにそっと置いた。指先が彼女の薄い手のひらに触れて一瞬だけドキリとした。なんたが彼女に触れた指先から全身へと熱がじんわりと広がっていく気がした。


画面の中で、宇野選手が再び滑り始める。ベートーヴェンの「月光ソナタ」が、電車の揺れと共鳴するように耳に響く。
僕は山崎が見やすいように、スマホを彼女の方へ近づけた。彼女は自分の大きな荷物を膝に抱えながらも僕のスマホを支える。
優しいな。でも、申し訳ないな。
彼女の許しをもらって荷物の上でスマホを支えて、僕たちは肩を寄せ合い、小さな画面を見つめた。

「望月くんって、フィギュアスケートをしてるんだってね」
彼女は控えめに呟いた。
視線を上げると、彼女は夜の静寂な湖面のような静かな瞳で僕を見ていた。
僕は画面に視線を落とす。ピアノソナタは第三楽章に進み、宇野選手は速く強くステップを刻む。

「うん…でも、今シーズンで辞めようと思って」
「えっ!?」

彼女の驚く声は電車が揺れる音しかない静まり返った車内には不釣り合いで、その瞬間、たくさんの視線が彼女に向けられた。
彼女は慌てて両手で口元を押さえる。
僕はクスッと笑った。

「僕…中部選手権を突破して西日本選手権に出場するのが毎年の目標なんだ」
「うん…」
山崎が心配そうな声で頷く。
「でも、なんかいっつも上手くいかなくて。練習でできることが、試合だとできなくて」
「うん…わかるかも。私、ピアノの発表会で、何度も練習してやっと演奏できるようになったのに、本番で失敗したことあるから…」
「そうなんだ…」

何年も練習してやっと跳べるようになったトリプルアクセル。
宇野昌磨選手も、習得に時間を要し、跳べるようになってからはいつもクリーンに跳んでいる。音が止まった瞬間飛び立ち、音と共に着氷する。リンクを削る音が、次のステップへ繋げる。
あんな風に僕も試合で跳んでみたい。だけどいつだって、僕は試合で転んで悔し涙を流した。
もう、引退して大学へ行こう。来年は受験生。受験勉強に取り掛かろう。


僕たちに沈黙が訪れる。
その沈黙を埋めているのは、試合を終えた直後の観客の歓声と鳴り止まない拍手。宇野選手は全身全霊で演技の最後のポーズを決めた瞬間、顔を歪めて膝から崩れ落ちている。怪我を押して、全力で滑り切って、でも、次の選手がリンク上で身体を温める準備の時間だからと立ち上がる。
僕が幼い頃から何度も勇気をもらっている、憧れのフィギュアスケーター。
宇野昌磨選手の月光が、何度も失敗して挫けそうになる僕に勇気を与えてくれた。
頑張ったら、観客が感動して拍手してくれることを教えてくれた。


「今シーズンをラストに引退しようと決めて、今年のプログラムを月光にしたんだ。コーチには難しい曲だからって反対されたけど、最後だからどうしても月光にしたいって粘って」
彼女は深く強く頷いた。
僕を見つめた大きな瞳がキラリと輝く。
スマホの光が彼女の顔を下から照らす。髪を縁取るのはガラス越しの満月の光。

「頑張って。頑張ってると思うけど、頑張ってね」
強く見つめられた後、気圧されたまま頷くと、彼女はふわりと笑った。丸く柔らかそうな頬が、綺麗な満月みたいだと思った。そんな自分が可笑しくて、山崎が僕に向けた笑顔もなんだか嬉しくて、心が温まったような気がして、僕は自然と笑っていた。



同じ降車駅を降りると、山崎は親が車で待っていると言う。
駅舎を出た時、先に歩いていた山崎は僕を振り返った。

「私、望月くんの試合、観に行きたいかも」
「えっ?」
「…望月くんのフィギュアスケート、二度と観られなくなる前に」
悪戯っぽく笑うのは、きっと逆説的な応援のメッセージ。月光の下で瞳がキラキラ輝く。
「今年こそ、西日本出るから」
「うん!」
破顔した顔は、満月のように丸く柔らかだった。
こんなに表情がくるくる変わる子だったんだ。気づいた瞬間、なぜか胸が温かくなった。

「じゃあね」
「うん。明日、学校で」

「あっ、そうだ。私も宇野昌磨くんのファンなんだ。望月くんて、ちょっと宇野くんに似てるよね」
「えっ!?」
「じゃあね」


悪戯な瞳でクスッと笑うと、駅舎の前で立ち尽くした僕をそのままに、彼女は白いワンボックスに向かって歩き出した。
月光が、黒いリュックを背負った華奢な山崎の背中に降り注ぐ。
山崎の「ちょっと宇野くんに似てるよね」と悪戯なセリフと、
宇野選手を応援する拍手や歓声が僕の心に響いて、動悸を加速させる。

似てるなんて初めて言われたし、似てるなんて思ったこともなかった。
どういう意味だろう?
疑問と共に、心を占めるのは憧れの人に似ていると言われた嬉しさ。

満月を追いかけるように自転車のペダルを漕ぐ。
夜の静寂を覆うように満月の光が僕に熱を与えてくれる。


山崎の丸い頬の笑顔を思い出し、僕は坂道を一気に駆け上がった。







moonlight

10/6/2025, 9:57:57 AM