「彩花!」
出会い頭に飛び出して来た自転車を避けるため、彩花の手首を強く引く。
自転車はスピードを緩めずに走り去って行った。
危なかった、こいつに何かあったら俺は…
「せんせい…」
小さな声で呼ばれて、細い手首を握ったままだと気づく。
パッと離したが、鈴木は俺の顔を驚いたように見つめている。
綺麗な瞳だ。
元教え子なのに。いくら鈴木が同僚で、同じ立場になったとしても、俺は鈴木よりも10歳以上も年上なのに…
「どうした?思いっきり引っ張ってごめんな」
優しく笑いかけたつもりだったけど、鈴木は何も反応しない。
「どこか傷めたか?肩か?手首か?」
俺が握りしめた手首を確認しようとして腕を伸ばす。
「そうじゃなくて」
鈴木が俺をまっすぐに見上げて言った。
「彩花って言ってくれた…」
ハッとする。
そうだ、俺は慌てて鈴木を彩花と呼んでしまった。
「悪いっ、咄嗟だったから。つい、呼んだだけで、」
情けない。
ここのところ夜毎鈴木が夢に現れるんだ。
鈴木の夢だけは、翌朝いつも鮮明に記憶があるんだ。
ある夜は7年前のこの中学のグラウンドや木漏れ日の緑地公園で、鈴木や米田を長距離継走部の顧問として走らせる夢だったり。
またある夜は鈴木と米田の指導初年度、大会本番で米田が順位を落としてしょぼくれているのを慰める鈴木の姿とか。その後、霧雨の中、俺の貸した傘を閉じて米田と鈴木がすっごい笑顔で俺の所へ走り寄ってくる姿とか。
鈴木が新卒の教員として、職員室に現れて二人ですっげえ驚いて校長に睨まれ、鈴木が小さく笑ったこととか。
指導案の作成を夜の職員室で手伝ったり、陸上部の練習を一緒に監督したり、鈴木が部員を大声で応援したり、本番で力を出せなかった生徒に鈴木が優しく寄り添っていたり…
夢の中で俺は、教員の鈴木を「彩花」と呼びたいといつも願っていた。
だからと言って。
焦る俺に鈴木はふうわりと笑った。
幸せそうに口角が上がり、瞳は煌めきを放つ。
「先生に彩花って言われて、私、すごく嬉しいです」
「鈴木、」
それって。それって。
「私、先生が好きです」
可愛い声だった。
今まで聞いた中で1番、ときめいた。
元教え子だけど、俺は10歳以上歳上だけど。でも。
「俺も、同じ。彩花が好きだ」
認めて心が楽になる。
ああそうか。俺は我慢してたんだな。
必死で同僚として線を引いて。
本当は毎夜夢に現れるほど好きなのに。それを全部覚えているくらい好きなのに。
「えっ、うそ、ホントに…」
胸に手を当てて心臓のドキドキを隠すような仕草の彩花。
やっぱり可愛い声で、紅に染まる頬が可愛くて。
「ホント…?」
視線を逸らした小さな声の呟きをそよ風が運んでくれる。
彩花、俺だって年甲斐もなく動悸が激しいよ。
同僚としての線引きを壊したのは、彩花だぞ。
俺の心のハードルを彩花の告白が飛び越えてくれた。
咳払いをする。じゃないと、喜びに声が掠れてしまいそうだから。
「俺が嘘言ったことあったか?」
彩花が顔を上げた。
「先生、真っ赤…」
彩花が呟く。知ってるよ!頬っぺた熱いからな!これも全部彩花のせい。
彩花がふふっと幸せそうに笑みを溢す。
そして空を見上げた。俺も視線を追うように見上げると、晴れた空に柔らかな雲は緩やかに流れている。良い天気だ。
彩花は俺に視線を移していた。その笑顔は中学校の頃のようなどこか悪戯な微笑み。
「ないって言いたいけど、ありますね」
「あった!?」
デカイ声で驚く俺に彩花は声を立てて笑った。
「私たちが2年生のときの長距離継走大会の後で、米ちゃんが先生にタオルを差し出したとき」
「…ああ」
俺が2人に傘を貸して霧雨で濡れたから、米田は頭を拭いて良いよと俺にタオルを渡そうとした。それを俺は「汗臭ぇ」と嘘を言ったんだった。
「あれはノーカンだ。米田に自分の頭を拭かせるためなんだから」
「わかってますよ。米ちゃん、言ってましたよ?
『もう怪我しないように優しい体育教師にストレッチとかトレーニングを教えてもらおうかな』って」
「彩花も一緒に来たな。嬉しかったよ、俺。教師になって良かった、長距離教えて良かったと心から思ったから」
「先生…」
見上げる瞳はまっすぐに俺を映す。
めっちゃ素直に喜んでいる笑顔の俺を。
「彩花」
「はい」
「返事、ちっさい声だな」
「名前呼ばれてすごく嬉しいんですけど、照れちゃいます」
ちっさい声も可愛いし照れ笑いも可愛い。
「気づいてるか?彩花に先生って呼ばれるの好きだけど、名前を呼んでくれたらなって思ってること」
「…剛士(たけし)さん」
「やべえな。嬉しいわ」
手で口を覆ってニヤける顔を隠す。
込み上げる笑みを抑えられねーよ。
「今、手を繋いだらさ、まずいかな」
「まずいですよ。私、緑地公園の木立や池のほとりでランニングしてると、よく保護者さんのジョギングや犬の散歩で挨拶されますよ」
「あ、俺もだ」
「ほらぁ」
彩花は笑う。楽しそうに、幸せそうに。
彩花が中学3年のマラソン大会で、米田のクソデカボイスの応援の中、1位を守り抜いてゴールテープを切ったときの面影を残して。
「週末、どっか出かけるか」
「部活ありますよ?」
「あーじゃあ夜だなぁ。飯でも食う?」
「そうですね」
俺たちは中学校行きつけの商店での買い出しを終える。
彩花の荷物を持とうと思ったら小さな声で断られた。
俺の片手が開いてたら、手は繋げないけど少し距離が近くなるからって。
学校に戻る並んだ二人の距離は、今までの自分たちよりも少しだけ近づいていた。
「君の名前を呼んだ日」
陸上競技場のスタンド席の屋根の下で、私と鈴ちゃんは霧雨のトラックをぼんやりと見ていた。
曇天の下で先ほど終了した中学生市民長距離継走大会。生徒、教師、大会関係者、保護者、地域住民が集い選手の力走と各々の応援に熱が入り、曇天とは思えないほど活気に溢れていた。
表彰式終了を待つかのように直後に弱い雨がポツリポツリと降り出し、大会に参加していた人々は大急ぎで撤収作業に入り、慌てて帰宅して行った。
鈴ちゃんだけが、この陸上競技場に佇む私の隣に寄り添ってくれている。
「早坂先生…」
「あ、いたね。去年までウチの中学で長距離継走部の顧問やってた先生。今、西中にいるんだっけ」
私の呟きを拾って、鈴ちゃんが引き受けてくれた。
「そう。さっきね、私、走り終わった後、声をかけられたの」
「……なんて?」
鈴ちゃんの心配そうな瞳に少し微笑んだ。
柔らかな優しい雨音が競技場に満ちていて、鈴ちゃんの声も優しかった。
「走り込み不足だなって」
「それは…!」
鈴ちゃんが勢いよく立ち上がり、私を見下ろす。
鈴ちゃんの怒った声が雨の音をかき消した。
「だって、米ちゃんは捻挫したから、夏休みの間、走れなかったんだよ?練習したくても練習できなかった!」
鈴ちゃんの瞳に涙が光る。
私の代わりに怒ってくれる。
あの瞬間、言いたくなったけど飲み込んだ言葉を、鈴ちゃんはわかってくれている。
「でもやっぱり、試合に出たら選手だから。走り込みが足りないのも事実だから」
「米ちゃん…」
鈴ちゃんはさっきと同じように私の隣に腰をかけた。
私たちの沈黙を霧雨の音が埋める。
トラックを照らす白く眩しいライトが、霧雨を浮かび上がらせている。
太陽が照りつけるあの夏休み直前の熱い日。
中学校近くの緑地公園に向かって鈴ちゃんと走っていた。
緑地公園は木々の間を風が吹き抜け、木漏れ日がキラキラ輝く長距離継走部の練習コース。
そこへ向かう途中のアスファルトの歩道で、私は小石に滑って足を挫いた。
ズキズキする足首の強い痛み、ギラギラと照りつける太陽、ミンミン五月蝿い蝉の声。
私は足首を押さえて痛みに顔を歪めて悔しさで溢れそうになる涙を抑えるのに必死だった。
鈴ちゃんは悔しそうに唇を噛んで瞳には涙を湛えていた。
私の背中を鈴ちゃんが何度も優しく摩ってくれて、顧問が愛車で到着するのを一緒に待ってくれていた。
軽度の捻挫と診断され、完治まで1週間、本格的な練習開始まで4週間かかった。
捻挫の前は鈴ちゃんと同じペースで走れていたのに、捻挫後は鈴ちゃんについて行けなくなった。
大会前には鈴ちゃんとの差は少しは縮まったけれど、私はいつも疲労困憊。
足首は痛くないのに、前みたいに鈴ちゃんに追い抜かれないように走ることはできなくなった。私は常に、鈴ちゃんのだんだんと遠くなる背中を追いかけていた。
「私たちしかいないからサボれないじゃん」
「選抜されたんだからサボるな」
顧問にうそぶいていたけど、本当は捻挫なんかしたくなかった。
鈴ちゃんと一緒に走りたかった。
今日のレース、私は3位で襷を受け取り、6位で襷を次に走る鈴ちゃんに渡した。
疲労困憊で鈴ちゃんを応援する声も出せずに、私は顧問に抱えられた。
鈴ちゃんは4位で帰って来て、先輩に襷を渡した。
ウチの中学校は4位でフィニッシュした。
目標の表彰台に登ることは叶わなかった。
先輩たちが啜り泣く中で、私は自分を責めながら、表彰式をただぼんやりと眺めていた。
「帰るぞー」
顧問が黒い紳士用の大きな傘を差しながら私たちに近づいてきた。
「ここ、もう締めるからって管理人が言ってる。ほら、早く」
普段と変わらない豪快さで私たちを立たせて傘を鈴ちゃんに持たせた。
「3人で入るのは無理だから、俺の車まで2人で来なさい」
「来なさいって、私たち自転車だけど」
自転車にカッパも置いてある。
自転車に乗る時にはカッパを携帯するように。傘さし運転は厳禁。それが中学校のルールだ。
「2人とも、学校までは徒歩通学だろ?」
「そうだけど」
「じゃあ、今日はここに自転車を置いていきなさい。暗いから家まで送ってやるよ。明日、学校へ来なさい。俺も学校にいるから、ここまで連れて来てやるよ」
軽く微笑んで、顧問は踵を返して駐車場に向かって行く。
私たちは顔を見合わせた後、大きな傘の下で体を寄せて先生の後をついていく。
傘が雨音をリズミカルに鳴らす。
先生の大きな背中はしっとりと濡れて染みになっている。
「米ちゃん」
「ん?」
「私初めて顧問を見直したかも」
真面目な口調が可笑しくてちょっと笑った。
「私も」
二人で密やかに笑い合った後、沈黙を雨音が埋める。
優しい音で。
「私たち、このまま行ったら3年生でも選ばれるじゃん?」
「うん、そうだね」
「そしたら、もっと筋力トレーニングとか柔軟とか真面目にやって怪我しないようにする」
「米ちゃん」
「あの優しい顧問の体育教師に聞いてさ。喜んで教えてくれそうじゃん?」
「うん。私も一緒にやりたい」
傘をさす私たちのペースが遅いのか、顧問は振り返って私たちが近づくのを髪を濡らして待っている。
私たちは顧問に追いつくために足を速める。
速足は焦ったくなって、鈴ちゃんと顔を見合わせて。
鈴ちゃんは傘を閉じた。私はバッグのファスナーを開けてタオルを取り出す。
ギョッとした顔の顧問に笑いながら走る。
「おまえら、なぁにやってんだー」
私たちに叫ぶ声。
しっとりと顔を濡らしていく優しい霧雨。
雨が降り注ぐアスファルトの上を走るリズミカルな足音。
なんでもない音が、とても優しく私たちを包む。
「あーあー」
近づいた顧問は呆れ顔で、私は濡れないように抱えていたタオルを「はいっ」と差し出した。
「頭拭いて良いよ」
顧問はタオルを少し眺めて「やだよ。汗臭ぇ」
「嘘っ」
「嘘だけど。他人のことより自分の頭拭け。あと、傘も差しなさい。今更と言えば今更だけど」
顧問は再び駐車場に向かって歩き出す。今度は傘を差した私たちと距離が開かないようゆっくりとした速さで。
「狭いけど」
そう言って助手席のドアを開け、助手席を倒してから後部座席に私たち二人を誘導してくれる。
「これ、ジムニーでしょ」
「そう。狭くないか?」
「大丈夫」
優しく雨音を響かせながら、霧雨が窓を滑り落ちていく。
私はもう大丈夫。
皆んなが優しいから、大丈夫。
「優しい雨音」
公立中学校2年C組。ウチのクラスは同じ学年の他のクラスに比べて目立たない。
ヤンチャな人がいない、飛び抜けて勉強のできる人もいなければ、運動ができて目立つ人もいなかった。リーダーとして活発に意見を言う人もいない。その代わり、落ちこぼれもおらず、登校拒否の人もおらず、皆んなそれぞれが気の合うグループに属していて、その中で平々凡々に学校生活を送る。そんなクラスだった。
私も、そんな1人だった。
そんなある日、2年C組に事件は起きた。
それは給食を食べ終えて、気の合うグループ同士でお喋りに興じるいつもの日常に突然。
教室の後ろの方で、派手な大きな音がした。身体をびくつかせて音がした方へ振り返ると、椅子が倒れ、同級生男子2人が腕を掴み合っていた。
喧嘩!?
2人の表情は硬く、喧嘩は収まりそうもない。
クラスの皆んなは固唾を飲んで2人を見つつ、どうしよう…という雰囲気になっている。
腕を掴み合う2人は「お前が悪い」「悪くない」と口からツバを吐きながら大声で罵り合っている。
私はそっとこの教室の中にいる教育実習生を見る。
大学生は、青ざめながら2人を見ていた。
こんな場面に遭遇するなんて、ツイてないね。
クラスの子が担任を呼びに行ったのを横目で捉えて、先生が早く来ればと私は思っていた。
他のクラスの子たちが喧嘩に気づいて廊下からC組を眺めていた。
「やめろよっ!2人ともやめろって!」
クラス委員長が、2人の中に入って、2人を引き離し始めた。
それがきっかけとなって、2人の仲の良い男子たちが引き剥がしに加勢し、なんとか羽交い締めにして引き剥がす。
クラス委員長は、罵り合っている2人を静止させようとしている。
走って来た担任が一喝し、2人とも教室から連れ出されていった。
廊下の野次馬も、自分のクラスへ戻っていく。
斜めになった机、倒れた椅子をもくもくと元に戻していく委員長。
手助けをしたい気持ちに駆られて私は倒れた机に手を伸ばす。金属の冷たさ、机の重さ。委員長が「ありがとう」と私に向けて微笑んで、私は「うん」と小さく頷いた。
何をするにも一緒の女の子2人組の内緒話が聴こえてくる。
「結局、何が原因だったの?」
「さぁ」
「ビックリした…あんなにいつも仲が良いのにね」
「ね、大人しい2人なのに」
ビックリしたと言えば、と机や椅子を並べ終えた後、乱れた制服を整える委員長の横顔を見る。
2年C組の、目立たない委員長さん。
他のクラスのような陽キャな感じは全くなく、クラスの決め事の司会の声だって落ち着いてて声量も普通なのに。推薦で選ばれたけど、私はよく知らないから別の人に投票したくらい、真面目そうだけど普通の人だと思ってた。
すごく正義感のある行動だった。私が物心ついてから初めて接した勇気だった。
推薦した人、投票した人は彼の本当の姿を知っていたのだろうか。
それとも、彼はクラス委員長という肩書き故の責任感で、喧嘩の仲裁に飛び込んでいったのだろうか。
斜め前に座る委員長。
小柄で、色白で、目立たないと思っていた人が、あの瞬間は誰よりも勇敢で。
別に恋をしそうとかそういうんじゃないけど、でも、喧嘩を仲裁する行動は正直、カッコ良かった。
教室はまだ密やかにざわめいている。
委員長が席を立ち、仲の良い友人へ話しかけに行く。
友人は少し戸惑いつつも笑顔で迎え入れて、すごかったと委員長を褒め、彼は照れた笑顔を見せつつも謙遜している。
その姿は私が知っている委員長さん。
だけど彼の内面はとても正義感が強く実行力がある。
今日、私はそれを知った。
放課の間だけ許されているスマホの電源を入れる。
ビデオモードで自分の顔を映せば、それはよく知る平凡な私。
ただ観察して、人に深く関わらない私。
今までの私は平凡で、そんな生き方しかできないと思い込んでいたけど、そうではないかもしれない。
内面を磨くこともせずに、自分を評価するべきではないんだ。
ビデオモードの自分の瞳は、強い意志を持っていた。
「昨日と違う私」
桜の葉が生い茂る川沿いでワンコの散歩をしていると、黒のタンクトップ黒の短パンでランニングする色黒の日本人と思しき男が前から走ってきた。
しなやかな筋肉を持つその男の腕には、アラビア語のような黒い文字の刺青が肩から肘まで一直線に描かれている。
川沿いの遊歩道を私たちに譲り、その男は車道の端へ。
男とすれ違いざま、ふわん、と石鹸の香が強く漂う。
えっ?
石鹸の香りを残し、その男はあっという間に去って行った。
その後も私とワンコはいつもの散歩コースを歩く。
川沿いを離れ、住宅街へ。
ワンコはハイテンションが落ち着き、今は私がゆっくり歩けるペースでトコトコ歩く。
後方から車のエンジン音がする。
道路の端へ避けると、また、あの石鹸がふわんと香る。
えっ!?
黒いハッチバックの運転席の窓は開いており、窓枠に肘が乗っていた。
刺青の腕が見える。
石鹸の香りが強く漂う。
ワンコは変わらず散歩を続ける。
刺青の男は、どこへ向かったのだろう。
あんなに石鹸を強く香らせて。
ワンコに引かれてその場を離れると石鹸の香りは空に溶けてなくなった。
それでも私は刺青の男の行き先が気になっている。
空に溶ける
「どうしても…」
今日は沙希が久しぶりにテニスをしにやってくる。
靴擦れが治るまでテニス禁止令を出して1週間。
昨日の夜「靴擦れ治ったよ。明日からテニス行く!」と沙希から連絡をもらって、俺は心躍らせながら咲希の到着を待っている。
沙希がテニスコートへ向かって歩いてくる。
何て話しかけようかなあ。
靴擦れ治って良かったな、かな?
そう思いながら沙希の姿を目で追っていると、テニスコート入口で同じテニスサークルに参加する1年後輩の女に沙希が捕まった。
過去にテニス仲間から揶揄われたことがある。
「1年のあの子って、祐樹のこと絶対好きだろ。めっちゃ羨ましい。付き合っちゃえば?」って。
「何とも思わねー奴と付き合えねーだろ」って返したけど、その子が沙希に個人的に話しかけてるっぽいのは胸騒ぎがする。
後輩の女と連れ立っていく沙希を慌てて追いかけた。
近づくと声が聞こえた。
「付き合ってないよ」
沙希の声音は硬く緊張していた。
後輩の女が、沙希に絆創膏を貼ったのを見て、俺たちが親密な感じがしたと告げている。
そう見えたのか。
靴擦れが痛そうで心配して、なのにキュッと締まった白い肌の足首が女らしくてどうしようもなくドキマギしていたあの時。
幼馴染がただの幼馴染じゃなくなったあの時。
「ただの幼馴染だよ。…祐樹もそう言ってたし」
言った。言ったよ。俺は沙希に幼馴染だって。タクシー代を折半なって笑いながら。
けどアレは俺の照れ隠しで、沙希はわかれよ!
後輩が遠去かり、沙希は用品庫の方に体を向けて、リストバンドで目元を覆う。
また何でもないフリしやがって。
足元で砂利を踏み締める音がする。
俺の苛立ちのような荒い音。
沙希の頭のてっぺんを拳で小突く。少し痛い。
「何でもないフリは禁止って言ったじゃん」
「だって、幼馴染じゃん…祐樹もそう言ったし…」
言った。言ったよ。だけど!
「ただの、なんて付けることないじゃん。無理、してるじゃん」
何も言わない沙希の後ろ姿。
こんな時でも黒いウェアの華奢な肩や目元を覆うように伸びた細い腕が綺麗だと思ってる。
「俺、言ったよな。誰かに何か言われるなら、2度と言えないように言い返してやるって」
「だって、言われたわけじゃないから」
「沙希に泣かれるのは何か言われたのと俺にとっては同じだよ」
怒り口調になってる。だって、苛立っているから。
沙希にただの幼馴染だなんて言わせたくない。
言わせないためにはどうすればいい?
俺の気持ちを話せば、沙希は信用してくれる?
「俺さ、あの子のこと、何とも思ってないから」
「祐樹?」
沙希が驚いて振り向く。
マスカラは滲んでパンダみたいな目をしてる。でも、瞳は潤んで可愛い。
自分のリストバンドを外して、沙希の目元をリストバンドで傷つかないように優しく拭いた。
「…沙希」
顔を覆わず俺を見つめる沙希が眩しい。
「実は俺もさ、あの絆創膏を貼った日、何でもないフリをしてたんだ」
「えっ?」
「絆創膏を貼りながら、沙希って……」
そこまで言って、緊張していることに気づく。
沙希が俺を見つめて続きの言葉を待っている。
続きを早口で言い初めて、どんどん口調が早くなった。
「綺麗だなって思ってた。俺は咲希の特別でいたいかもしれないって。でも、言えなくて。もっと気持ちが固まったら言おうって」
恥ずかしくて腕で顔を覆う。
でも恥ずかしさと沙希に本音を伝えられた安堵や嬉しさが同居する。
まともに沙希の顔は見られない。
だって驚いている顔が、どんどん破顔していってるから。
ほんと…?
沙希が呟く。
しっかりと頷いて、俺はテニスコートへと体を反転させた。
「じゃあ、そういうことだから。先に行ってるから」
沙希の返事を待てずに俺はテニスコートへ走って行く。
伝わったよな?
あんなに嬉しそうに笑ってたし。
心のモヤは晴れている。
テニスコートで、サークル仲間と準備運動をしながら、心は沙希が合流するのを待っている。
沙希が後輩の前を通る時、互いに会釈してすれ違った。
その後、小走りで沙希は俺の元へ駆けてくる。
その顔は、可愛い笑顔。
俺も笑顔で、隣に来なよと手招きした。
(どうしようもなく恋が加速する)