2日前の日勤で出勤した直後、小児科外来の看護師がインフルエンザで出勤停止になった補充要員として、3日間、小児科外来で勤務するように命じられた。
今日が最終日3日目。
この3日間の患児の多くは熱発。インフルエンザ、コロナ、風邪。それらを縫うように持病持ちの定期受診患児が来院するといった具合。
今朝、起床時に感じたのは、喉に若干の違和感と鼻汁。だけど平熱。
病院に到着する頃には、喉の違和感は軽度の痛みに置き換わり、風邪特有の倦怠感が多少あった。
念のためにドラッグストアで購入したコロナとインフルエンザの抗原検査キットでチェックしてみたが陰性だった。
今日を乗り切れば、明日は休み。明日はゆっくりしよう。
一昨日よりも昨日、昨日よりも今日。
発熱者の外来患児は増え続けている。
特に今日は、子どもや母親に絶大な人気を誇る佐々木先生が外来担当ということもあって、目が回るほどに忙しい。
私が若干感じた不調は、働いているうちにアドレナリンのためか全然気にならなくなった。それどころか、忘れていたのに。
午前診療の最後の患児の診察が終了したのは午後14時を回っている。午後の診療は15時から。午前に使用した物品の片付けと診察室の消毒がまだ業務として残っている。
休憩時間は普段から1時間取れたことはほぼないからそれは通常としても。
佐々木先生をチラリと見る。
仕事熱心な佐々木先生は、きっとこの後病棟へ向かうのだろう。
今日入院させた喘息の児と肺炎の児の様子を見に。
二人とも、症状は軽くはなかった。
そして、休憩が取れてないことなどなかったかのように、笑顔で午後の診療を開始するのだ。
「宮島さん、ちょっとここに座って」
「えっ?」
「ほら、早く」
ここって、佐々木先生の目の前の、患者が座る椅子なんですけど。
訳がわからないけれど座らないといけない雰囲気を感じて、ちょこんと座る。
佐々木先生はちょっとごめんね、と私の首筋を指で触っていく。
「リンパは腫れてないね。でも熱いから熱を測ってね」
「……気づいていたんですか?」
「うん。僕がキミのこと、好きになって何ヶ月経ったと思ってるの」
「っ、」
「はい、あーん」
おずおずと口を開けて、あーと声を出す。
「咽頭がちょっと赤いね。背中聴診するけど良い?」
「お願いします」
ナース服の上から背部を聴診。こっちは問題ないね、と言いながら、先生は電子カルテに入力する。
外来を見渡したけれど、他の看護師の姿はない。
佐々木先生が私を好きなことを私や仕事仲間にオープンにした日から、ごくたまにこういう時がある。佐々木先生と私を二人きりにする瞬間が、同僚たちによって。
そんなとき、佐々木先生は私のことを好きだと軽く伝えるのだ。
言葉だったり、態度だったり。
私はそれが決して嫌ではなく…寧ろドキドキと動悸がする。
胸が熱くなって、頬が熱くなって、私はこの感情をどう処理すれば良いのかわからなくて。
最近はちょっとだけ困っていたりする。
「コロナとインフルの抗原検査やっておいて。結果が出たら僕に連絡して。あと熱も」
「はい」
「今日は帰って良いからね。送っていけなくて申し訳ないけど」
「そんな、大丈夫です。って言うか、帰ったら、外来が」
「外来は何とかするよ。
それよりも、風邪かコロナかインフルかわからないけど、ちゃんと休みなさい。じゃないと、申し訳ないよ」
「え?」
「本当はキミが3日目の今日も無事に外来を終わらせたかったんだけどね。小児はマスクをつけられない子も多いし、密着もするし、難しいよね。キミも手洗いとか感染予防を頑張ってくれていたけど」
佐々木先生はいつも、私たちの努力を認めてくれる。どんなときでも、変わらずに優しい。
こんなに連日仕事で忙しくても、休憩時間がなくなっても、午後の外来が忙しいことも予測できるのに。
「佐々木先生」
「ん?」
「私、ちゃんと今日の午後診の最後まで佐々木先生と一緒に仕事したかったです。でも、できなくなってごめんなさい」
「宮島さん」
「佐々木先生まで、風邪引かないでくださいね」
「うん。わかった。ありがとう。気をつけるよ」
先生は手洗いをして、小児科外来を後にした。
私は自分で抗原検査を行なって、15分後に検査結果を陰性だと確認する。熱は37.6℃。まだ熱型を確認しなきゃいけないけれど、とりあえず今日は風邪だと確認できた。
風邪なら、熱が下がれば、また佐々木先生と一緒に働ける。
良かった。うん。早く治さなくちゃ。
私は弾んだ心のまま、佐々木先生の仕事用のスマホへ連絡した。
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私の住む街は、年間を通して雪が降る日は片手で足りるほど。
中でも降雪日は1〜2日だけという雪にはほぼ無縁と言って良い。
そんな私が、毎年、降雪を楽しみに待っている。
長野県や静岡県に雪が降った晴天の日、私の住む街から遠く南アルプスが見える。
それは年間を通して南アルプスに雪が積もった季節だけ見られる特別な景色。
見慣れた景色のその奥に、美しい山々が連なっている。
美しいなぁ。
私は白い息を吐きながら、スマホのカメラを起動させるのだ。
雪を待つ
「愛を注いでいたら、いつか報われるのかなぁ?」
グラウンドでサッカーボールを追いかける彼。
それをグラウンドを取り囲むフェンス越しに眺めた。
同じクラスの彼にそれとなくアピールしているんだけど、今のところ手応えは全くない。
恋心を気づかれてすらいないと思う。
「私、愛と努力って似てると思うんだよね」
「へ?どういうこと?」
私の隣で同じくサッカー部を眺めている親友。
彼女の言葉を咀嚼できなくて聞き返す。
彼女はサッカー部のGKに恋している。
ちなみに私の好きな人はFWだ。
「キーパーの彼が言ってたの。
キーパーはこれ以上練習できないくらい練習しても、必ずしも試合で無得点に抑えられるわけじゃない。シュートを止めるために右側に飛んだけど左側に打たれたりとか。シュートの前に止める方向を予測するから、どうしようもないこともあるんだって」
「努力は報われないってこと?」
シュート練習と、それを止める練習をしている彼に視線を移す。
随分と寂しいことを言う。
でも彼がそんなことを言っていたとは信じられないほど、懸命に練習を続けている。
「努力しても試合で必ずしも結果として結びつかないこともある。けれど、長い目で見れば努力したことは自分の身になってるんだって。小学生の頃からキーパーやってる自分が言うから間違いないって言ってた」
「ふぅん。自分のどんな身になったのか聞いてみたいなぁ」
愛と努力は似ている、か。
努力しても、試合で結果が得られるとは限らない。
愛を注いでも、片想いが実るとは限らない。
努力したら、長い目で見れば自分の身になる。
愛を注いでいたら、長い目で見れば自分の身になる…?
親友が呟いた。
「愛を注ぐ経験値が、愛し方のレベルを上げるんじゃないかなあ」
「なるほど」
「付き合ってる人たちを羨ましいなって思ってたけど、まだ皆んな、レベル上げの途中なんだよ」
「うん。きっとそうだね。もしかしたら死ぬまでレベル上げするのかも。人は人と無関係ではいられないから」
「深いね」
「深いわ」
「あっ!」「あっ!」
2人同時に叫ぶ。
試合形式の練習が開始されて早々、FWの彼がシュートを放ち、GKがそれを止めた。
「キーパーめっちゃファインプレーだった」
「シュートもめっちゃ綺麗だったよ」
真剣な表情でボールを追いかける彼は、あっという間に私たちから遠ざかってしまった。
私がずっと見ていることなんて気づいてても気づかなくても。
結局私は彼のことが好きなんだなぁと思う。
真剣な横顔にときめいてドキドキしているから。
愛を注いで、私の想いは報われる?
わからない。
でも、人生におけるレベル上げの途中だと思えば、
愛を注ぐことに躊躇いなんていらないのだ。
「FWがんばー!」
親友が笑って、私と同じく声を張り上げる。
「GKがんばー!」
応援の声に気づき、サムズアップしたものの、照れてるのが可愛い。
私たちは調子に乗って、もっと応援してみる。
彼はもうヤメロと両手でバツを作って、照れながらボールを追いかけて行った。
愛を注いで
今夜は居酒屋で部署の忘年会。
若手の俺は幹事を任され、雑用に動き回っている。
ノンアルを飲み続ける1人の女を視界に入れながら。
今なら一息つけそうだと、自分の席であり、視界に入れ続けていた先輩の隣に座った。
「お疲れさま」
「幹事って大変ですね」
「ね。うちの部署は飲める人が多いからね」
「先輩は飲まないんですか?」
「そっか。注文取ってる人には飲んでないのバレてるか。内緒にしておいて」
先輩はシーっと指先を当てて笑った。
26歳だっけ。そして人妻。
こんなに可愛いなんて反則だ。
新卒で入って、既婚者なんて知らなくてすぐに好きになった。
その後は…自分の気持ちなんて言えるわけない。
好きになる前に何で気づかなかったのか。
いつだって、先輩の指にはプラチナのエンゲージリングがキラリと光る。
埋め込まれた小さなダイヤモンドが恨めしい。
「飲むとどうなるんですか?」
見てみたいなあ、先輩の酔ったところ。
「んー、戻す」
「1杯でも?」
「1杯ならいけるんだけどね。でも、もし何かあってもね。ノンアルで十分だよ」
先輩がグラスをカチンと合わせた。
「旦那さんはいつ帰って来るんですか?」
先輩の旦那さんは単身赴任で、長期の休みしか帰って来ない。
先輩はときどき寂しそうな顔をする。
慰めたいんだけど、でも、どうやって?
付き合った人数が少な過ぎて、俺にはハードルが高すぎる。
「今月末。お盆ぶり。
旦那が帰って来たら大変なんだよね。
自分のペースで過ごせなくなるし、よく食べる人だから食事もたくさん作らなきゃいけなくなるし。しかも、品数を欲しがるんだよね。あれ絶対お姑さんのせい」
先輩が饒舌になる。
さっきまで、ポツリポツリと喋っていたのに。
うんうん、と相槌を打ってはあげるけど、でも、正直辛いなぁ。
「それって、文句を言いつつ旦那さんの希望を聞いてあげてるってことですよね?
結局先輩は、旦那さんが帰ってくるのを楽しみにしてるんですよ。旦那さんだって、先輩に色々言えるってことは、心を許してるんだと思うし」
先輩の頬が赤くなる。
結婚して何年も経っているのに、未だに照れるってことは、結局仲良しだってことじゃん。
「お盆ぶりですか。
夜、燃えますね。あ、もしかして朝までとか」
んんっ!
急にぶっ込んだ爆弾発言に、先輩が思いっきり咽せた。
何だなんだと注目されたのに気づいたけど、素知らぬふりして「大丈夫ですか?」と背中を軽く叩く。
先輩も「大丈夫」と咳をしながら言ってくれる。
納得していない様子も、社員たちは会話に戻っていった。
「ちょ、飲み過ぎじゃないの?」
「別に。俺がずっと動いてたの知ってるじゃないですか。
飲み会なんですから、これくらい普通ですよね」
「…………」
わざとらしくため息を吐かれた。
「帰って来るのを楽しみにしてる人がいるって良いですよね。憧れます」
ノンアルを飲もうとしていた先輩の手が止まる。
「愛している人に愛されて身体を繋げる。俺にはできないから、羨ましいですよ」
何かを言おうとして言うことが見つからない。
そんなことを思っていそうな視線を感じる。
「俺は、片想い中だから」
「……そっか。……そっかぁ」
俺が持ち歩いていたタブレットを自分の方へ寄せて操作して、先輩はノンアルを注文した。俺が今飲んでいるハイボールも。
「そこはノンアルで譲れないんですね」
「だって戻したら幹事さんに迷惑かけちゃうし」
「俺、先輩に迷惑かけられるくらい、何とも思わないですよ?」
「私が気になる!」
真剣に言われて噴き出すと、先輩も噴き出した。
笑い合って楽しい時間だなと思いながら、切なくなる。
今、この瞬間に一緒に笑うことはできるけれど、一日中、笑い合える日は絶対に来ない。
先輩が心と心を繋いだのは、旦那さんだから。
心と心
「うおっ!」
幼馴染の踵には靴擦れ。
俺の顔を見て、沙希は「大丈夫だよ」と嘯く。
俺に何でもないフリなんかするな。
未だ、ヘラヘラと笑う沙希に何故かムカついた。
はぁ、とため息を吐いて、怒りを逃す。
アンガーマネジメント。確か6秒。
沙希をよく観察する。
申し訳なさを全身で訴えて小さくなっている幼馴染。
責めたところで、悲しませるだけだ。
思考は落ち着き、俺は小さな頭にポンと手を乗せた。
沙希が上目遣いで俺をそっと見上げた。
そう言えば昔は言いたいこと、やりたいこと、やりたくないことをたくさん言われたのに、いつから沙希は「大丈夫だよ」と言うようになってしまったんだろう。
沙希が鞄の中のポーチを漁る。
いつから入っているんだか。
シワだらけの絆創膏を1つ見つけて、沙希が恥ずかしそうに笑った。
「貼ってやるよ」
遠慮されたけど奪い取り、靴擦れに貼る。
痛々しい傷は目を背けたくなる。
だけど白くて肌理の細かい脚や締まった細い脚首に急にオンナを感じて、胸がドキッと熱くなった。
「ありがとう」
「ん。…なぁ。昔は何でも言ってきたじゃん。何で、何でもないフリするようになった?」
沙希を見つめる。
フイっと視線を外され、「そういうとこなんだけど」と強めに言った。
「俺さ。沙希に色々我儘を言われるの、面倒くせぇって思いながら、殆ど叶えてやってたような気がする。
それで、いつの間にか言われなくなって、面倒なことはなくなったけど…なんか、幼馴染じゃなくなったみたいな気がしてた」
「祐樹」
「俺さ…沙希の特別でいたいのかもしれない」
沙希は目を見開いて驚いている。
あまりにも沈黙が長い。
「なんか言え」と頬をぶにっと摘んだ。
柔らかくてもちもちとして、自分の顔とは全然違う感触に心臓が跳ねる。
「あ…私…、祐樹に迷惑をかけちゃいけないって…
祐樹、モテるから、私なんかがウロウロしちゃいけないと思って…」
「なんだそれ。俺と沙希が幼馴染なのは変えられない事実だろ。気にして縮こまる必要なんて全くねーよ」
沙希はまだ、踏ん切りがつかないらしい。
どう言ったら伝わるのか。
何でもないフリをするなって。
っていうか、言えば良いのか。
「沙希さ。何でもないフリをするのは禁止」
「えっ、」
「今日みたいに、俺のために何でもないフリをして、傷ついてても知らずにいるとか、そんなの嫌なんだよ」
「祐樹」
「俺にとって沙希は特別だよ。誰かに何か言われるなら、俺が二度と言えないように言い返してやる」
「やり過ぎだよ。…でも、ありがとう」
沙希がやっと笑った。
明るい笑顔は、まだ、男も女も関係なく駆け回っていた時代を思い出す。
俺も笑うと、「やっと笑ったね」と安心したように言われた。
「帰るか」
「うん」
「タクシー代は折半な」
「ケチ」
「幼馴染だから」
「……まぁ、そうだね」
視線を落として、寂しそうな顔をする。
「今後はどうなるかわからないけど。俺の気持ちも、沙希の気持ちも」
さっき見た、白くて肌理の細かい脚や締まった細い脚首を思い出す。
いつの間にか、大人っぽくなっていた沙希。
もっともっと知ってしまったら…幼馴染だ、と言えるだろうか。
沙希に「幼馴染」と言ったときに寂しそうな顔をされて、すぐにフォローした俺が。
……何でもないフリをしているのは、俺自身もかもしれない。
それでも、もう少し、沙希への気持ちが明確になるまでは。
何でもないフリ