「祈りの果て」
ザク、ザク、とリズムを取るように丸を付ける。
切りの良いところでボールペンを置いて、椅子の上で伸びをする。窓の外は相変わらず真っ暗で、この図書室には俺と、後ろに座る彼女しか居なかった。蛍光灯は二人だけを照らしていて、少し先は真っ暗だ。
この椅子に座ってからかなり時間が経っていて、ふと気を抜くと重たく瞼の裏を見つめてしまう。
時計の針がカチカチと鳴る。頭の先から紙を擦る音が聞こえる。図書室独特の匂い。シャーペンを回す音。吹雪。
「...そのまま寝る気?」
蛍光灯の光が暗くなる、少し軽くなった瞼を開く。
ほんのりと図書室とは別の香りする。彼女の厳格な瞳が俺を見ている。
「...寝ないよ。少し休憩していただけ。」
「そう、なら良いんだけど。」
そう彼女は影をのかす。俺は少しため息を吐いて、時計の視線を向ける。時針は九を指していて、後ろから筆箱を閉める音が聞こえる。目を擦って、机を急いで片付け始める。
「...もう大丈夫?電気消すわよ。」
「うん、ありがとう。」
図書室の鍵は彼女が持っているから、職員玄関まで暗い廊下を一緒に歩かなきゃ行けなかった。最初は慣れなかったけれど、彼女は沈黙を続ける為、次第に慣れてしまった。
ガタガタと吹雪が窓を揺らす。冬特有の廊下の暗さは、少し恐怖を促す。そんな感情とは相対に、小さくお腹が鳴ってしまった。彼女が俺を見つめる。
「...ごめん、お腹空いちゃって...。」
はあ、とため息をついて、彼女は鞄から飴を取り出しす。無言で渡してくる。唖然としたまま、俺を封を開けた。
「...ここ、飲食禁止だけど...。」
「いいのよ、どうせ誰も居ないし。君も共犯でしょ?」
普段ならルールを破る人を指導する側なのに、今日の彼女はなんだが似つかわしくない行動をしている。飴をコロコロと舐める。辺りが少しずつ明るくなる。静寂が走る。
そんな状況が落ち着かなくて、飴を頬の隅に寄せる。
いらない事をこぼしてしまった。そう気づいた時にはもう既に句点を打っていた。
「...たまに思うんだ。ここまで勉強をする必要ってあるのかなって...。」
思わず彼女を見ると、その厳格な瞳は「そうねぇ...」と真剣に空を見つめる。ガタガタと音が鳴る。
蛍光灯が彼女の髪を照らす。自分の発言に後悔する。けれども、彼女の声が職員玄関に小さく響いた。
「...必要性で言ったら、要らないと思うわ。」
「私はね、祈りみたいなものだと思っているの。罪悪感や焦燥感を少しでも無くす為に人は祈るけど、それと一緒で私は勉強をするの。」
そんな事を言うなんて、予想外の言葉に俺は何も言えなかった。けれども、少し肩の荷が降りた感覚がする。靴を履き替える。スニーカーの端を引っ張って、踵を収める。
「...そうなんだ、意外だったけど、ちょっと気が楽になったよ、ありがとう。」
「いいえ、大丈夫よ。実際に君は大丈夫だと思うし。」
「...え?」
先に玄関のドアを開けて、彼女はありがとうと呟いて暗闇の世界に一歩進む。持ち手から力を抜いて、ドアがゆっくりと元に戻った。
「君は毎日図書室居るでしょ?私は十分頑張ってると思うし、そんな君をリスペクトしているわ。」
そう言って彼女は視線をあげる。その瞳には厳格さはなくなっていて、その代わり俺だけがその瞳に映っている。
数秒だけ、時間が止まった。
彼女の瞳が揺れる。頬が熱くなる。鼓動が強くなる。先に時間を動かしたのは彼女だった。
「...じゃあ先行くね。ハッピーバレンタイン。」
そう言って彼女は吹雪の中去っていった。動揺がして、ポケットに手を突っ込む。カサ、と音が鳴る。そこには、彼女に渡された飴の袋が残っていた。
「ティーカップ」
バサバサと音が聞こえる。
それはカモメの羽なのか、それとも船内で干している洗濯物からなのか、正直どっちでも良かった。
ゆっくりと揺れる木甲板の上にテーブルと椅子を置いて、白いテーブルクロスを敷く。小さい花瓶にエリカの花を添える。調理室から必要なものを取り出して船尾へ戻ってくると、彼は既に優雅に景色を眺めながら座っていた。
「今すぐ準備致します。」
「...」
「いつも通り珈琲でよろしいでしょうか。」
「...」
普段なら返ってくる返事が帰って来なくて、思い当たる原因を探す。天気、気温、予定、日付....。あぁ、そうか。
「失礼致しました。本日は紅茶を用意致します。」
そう言って静かにデッキを立ち去る。何故忘れていたのだろうか。今日はそういう日だった。
調理室に向かう廊下の一室のドアが空いている。その部屋は"相変わらず当時の雰囲気"が保たれていて、花瓶には新しい花が添えられている。この海域ではほとんど入手できない品種。どうやって手に入れたのか、それを知ることはできない。ゆっくりとドアを閉める。ガチャと音が鳴る。
調理室の戸棚に珈琲豆を直し、紅茶の缶を取り出す。カップボードから使い古されたティーカップ2つに変え、ティースプーンを乗せる。新しくお湯を入れ直す。全てを乗せてサービングカートをガラガラと運ぶ。
船尾へと戻ると、小波はオレンジ色に染まっていた。主人の瞳もそう光っていて、私は静かに紅茶の準備をする。
「...昔の話をしよう。私は今まで一度も人を愛したことが無かった。ただひたすら血を浴びて、船を動かしていた。お金にすら興味が無かったんだ。」
お湯をティーポットとカップに注ぎ、温める。
「けれどもある日、彼女がこの船に乗り込んで来た。身に合わないボストンバッグを持ってね。私は今日から世界を旅するんだって。」
ティーポットに二人分の茶葉を入れる。
「正気かと思った。だって、当時この船は海賊船だったし、令嬢どころか、好きで乗り込む人なんていなかった。僕は勿論言ったよ。血の花を咲かせたくなければ帰って紅茶でも飲んどけ、ってな。」
沸騰したお湯をティーポットに注ぎ、蓋をして蒸らす。ポットからズレた蓋を戻した。
「そしたら、なんて言ったと思う?"ここでも紅茶は飲めます"ってボストンバッグからティーセットを取り出したんだ。狂ってると思った、けれども同時に興味を引いた。一年だけだって、そう決めて彼女を入れることにした。」
数分経ったポットの中をスプーンで軽く混ぜる。手が震えた。
「けれども、その一年を延期したのは俺の方だった。気づけば彼女は船に馴染んでいたし、この景色に感動していたし、あんなに軽視していた紅茶を、こうやって二人で飲むようになったんだ。だから...」
茶ガラをこして、紅茶を注ぐ。身体が震えた。
「...なぁ、いい加減、思い出せよ...」
ベストドロップを逃さないよう、ティーカップの中を見つめる。視界が震えて、一滴、ティーカップへと落ちた。
バサバサと音が聞こえる。
さざ波の音が聞こえる、彼の震えた声が聞こえる。最後の一滴が落ちたこのティーカップは、確かに私のだった。
「透明な羽根」
インターホンを押すと、壁越しに何かが崩れる音がした。ため息を吐くけれど、結局これで得をするのは俺のほうだった。
「入って。」
じっとこちらを見つめたかと思うと、彼女はすぐに扉から手を外すから、歓迎されているのか正直分からない。重い負荷が腕にかかる。日に日に低くなった段差を超える。
「今日もいつもと一緒で。あと、ここ。さっき棚が崩れちゃたから、追加でよろしくね。」
カチャ、と机に置いていた細縁メガネをかけながら、そう静かに放ってはすぐに筆を拾った。どうせ聞こえてないって知っているけれど、「じゃあ、始めるね」と言って背を向ける。筆が走る音が部屋に響く。
地下倉庫でしか見たことないようなスチールラックから、ズラズラと物が雪崩ている。壁中にメモや落書きが貼られている。帽子を被った石膏像、作りかけのキャンバス。
よく見ないようで、よく見る光景だった。
有り得ない重さの箱、大量の画用液の空瓶、無数の絵の具が入った壺、かさばるイーゼル、作りかけの油絵。
大きいものからゴミかと疑うものまで、ひとつずつラックに戻していき、区画ごとにラベリングをして、床の汚れを雑巾で落とし、箒で塵ゴミを集める。
一仕事を終えて、ふとキャンバスを揺さぶる音のほうを見る。無造作に置かれた道具、完成しているのか分からない作品、化粧をする女のように油絵と向き合う彼女。
綺麗に整ったこちらとは正反対に、混沌を泳がせた空間は、同じ空間で、数歩で越えられて、少女の背に手を伸ばせる。それと同時に、真っ白な展示場に飾られ、テープのその先、額縁の中の天使の背にも見えた。そう感じた。
毎日通っている筈なのに、知らない場所でもある。
それは好奇の保証であって、同時に、自分の情けなさが酷く染み渡ることでもあった。
「コーヒー、要る?」
透き通るような声が響いて、ハッとする。彼女はレンズ越しに俺を見つめている。返事をする。
「コーヒーの淹れ方、知らないでしょ。待ってて。」
「...天使の羽根。」
焦ってキッチンに向かおうと背を向けると、その透き通った声が更に天井に響く。思わず振り返る。
「...いつも、こうやって書いてくれるよね。付箋。」
そう続けて、さっきまで触っていたラックの付箋を細い指で撫でる。付箋には「作品」と書いていた。
「私はね、書き途中に見えても、一筆置いただけでも、作りかけのキャンバスでも、完成はしてないけれど、未完成だとは思わないの。...あんまりそう思ってくれる人、居ないのだけれども。」
彼女はその指をそのまま滑らせて、キャンバスの端を階段を登るように撫でていく。
「...だからね、こうやって君が"作品"として扱ってくれるの、すごく嬉しいなぁ。」
ザラザラと音を奏でた指は、床へと辿り着き、彼女は窓から入る逆光を背中から放って、レンズ越しに見つめる。
「君のまわりの子達は知らないかもだけど、君の背中には羽根が見えるよ。本当だからね?」
そう言い放ってクルッと回り、彼女はまた額縁の先に戻った。もし俺に、羽根が生えているとしても、天使ではないと思う。そう言いかけて、俺はキッチンへと向かった。
「灯火を囲って」
永遠ってなんだろう。
数週間と続いた吹雪は、気づけば京の都を覆い尽くしてしまった。雑音が混じるラジオは、永遠に続くかもしれません。そう言っていた。
無数の人で賑わうこの道も、ただひたすらに白く、しんどい程に静けさが終わらない。それでも二人で種をまいていった。すぐに消えると言うのに。
「ここで夜を明かそう。」
この吹雪がなかったら、この建物は趣のある、そう謳われていたのだろうけど、今となってはただ古いだけだった。けれども、雪の染みた薪を集めて火をつけるよりは、囲炉裏を囲んだほうがマシだった。
「...こんな状況じゃ、東の都は使えないだろうな。」
薪を渡して、囲炉裏の近くに座る。
どこがマシなんだろうね、そう思ったけれど、これが永遠なら、どこも変わりないかもしれない。
「いっそのこと、ここでも良いかもな。こっちのほうが面白い。」
パチパチと囲炉裏が鳴る。顔を見ることなく、ただ目の前の灯火を見つめた。
「...じゃあ、一刻後に。」
そう言って彼から時計を渡される。引き戸が跳ねる音がする。ため息をつく。
ボストンバッグから本とネジを取り出して、時計のチェーンを外す。本当は秒針が良いのだけれど、まだやることが残っているし、仕方ない。
時計を置いて、本のページを捲る。強く引っ張って、本には凹凸が残った。ページの一節を見て、思わず笑ってしまう。
囲炉裏を花で囲って、チェーンとページを軽く燃え尽きた炭火に放り投げる。残った花を更に火に捨てる。
都からひとつの火が消えた。月明かりが反射する。
「終わった?そう。じゃあ、次の場所に。」
ガラガラと引き戸が動いて、彼は囲炉裏の炭火から白い宝石を取り出す。キラキラと光るそれは、いつも通り冬の輝きを込めている。
ボストンバッグに本をしまって、時計を彼に返す。引き戸を閉めて、また新しい道を歩き出す。もうこの土地に用はない。
この吹雪が永遠なら、私達はなんだろう。雑音が混じるラジオは、数週間後には吹雪は止むでしょう、そう言っていた。