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「透明な羽根」

インターホンを押すと、壁越しに何かが崩れる音がした。ため息を吐くけれど、結局これで得をするのは俺のほうだった。

「入って。」

じっとこちらを見つめたかと思うと、彼女はすぐに扉から手を外すから、歓迎されているのか正直分からない。重い負荷が腕にかかる。日に日に低くなった段差を超える。

「今日もいつもと一緒で。あと、ここ。さっき棚が崩れちゃたから、追加でよろしくね。」

カチャ、と机に置いていた細縁メガネをかけながら、そう静かに放ってはすぐに筆を拾った。どうせ聞こえてないって知っているけれど、「じゃあ、始めるね」と言って背を向ける。筆が走る音が部屋に響く。

地下倉庫でしか見たことないようなスチールラックから、ズラズラと物が雪崩ている。壁中にメモや落書きが貼られている。帽子を被った石膏像、作りかけのキャンバス。
よく見ないようで、よく見る光景だった。

有り得ない重さの箱、大量の画用液の空瓶、無数の絵の具が入った壺、かさばるイーゼル、作りかけの油絵。

大きいものからゴミかと疑うものまで、ひとつずつラックに戻していき、区画ごとにラベリングをして、床の汚れを雑巾で落とし、箒で塵ゴミを集める。

一仕事を終えて、ふとキャンバスを揺さぶる音のほうを見る。無造作に置かれた道具、完成しているのか分からない作品、化粧をする女のように油絵と向き合う彼女。

綺麗に整ったこちらとは正反対に、混沌を泳がせた空間は、同じ空間で、数歩で越えられて、少女の背に手を伸ばせる。それと同時に、真っ白な展示場に飾られ、テープのその先、額縁の中の天使の背にも見えた。そう感じた。

毎日通っている筈なのに、知らない場所でもある。
それは好奇の保証であって、同時に、自分の情けなさが酷く染み渡ることでもあった。

「コーヒー、要る?」

透き通るような声が響いて、ハッとする。彼女はレンズ越しに俺を見つめている。返事をする。

「コーヒーの淹れ方、知らないでしょ。待ってて。」
「...天使の羽根。」

焦ってキッチンに向かおうと背を向けると、その透き通った声が更に天井に響く。思わず振り返る。

「...いつも、こうやって書いてくれるよね。付箋。」

そう続けて、さっきまで触っていたラックの付箋を細い指で撫でる。付箋には「作品」と書いていた。

「私はね、書き途中に見えても、一筆置いただけでも、作りかけのキャンバスでも、完成はしてないけれど、未完成だとは思わないの。...あんまりそう思ってくれる人、居ないのだけれども。」

彼女はその指をそのまま滑らせて、キャンバスの端を階段を登るように撫でていく。

「...だからね、こうやって君が"作品"として扱ってくれるの、すごく嬉しいなぁ。」

ザラザラと音を奏でた指は、床へと辿り着き、彼女は窓から入る逆光を背中から放って、レンズ越しに見つめる。

「君のまわりの子達は知らないかもだけど、君の背中には羽根が見えるよ。本当だからね?」

そう言い放ってクルッと回り、彼女はまた額縁の先に戻った。もし俺に、羽根が生えているとしても、天使ではないと思う。そう言いかけて、俺はキッチンへと向かった。

11/8/2025, 5:46:16 PM