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「ティーカップ」

バサバサと音が聞こえる。
それはカモメの羽なのか、それとも船内で干している洗濯物からなのか、正直どっちでも良かった。

ゆっくりと揺れる木甲板の上にテーブルと椅子を置いて、白いテーブルクロスを敷く。小さい花瓶にエリカの花を添える。調理室から必要なものを取り出して船尾へ戻ってくると、彼は既に優雅に景色を眺めながら座っていた。


「今すぐ準備致します。」
「...」
「いつも通り珈琲でよろしいでしょうか。」
「...」


普段なら返ってくる返事が帰って来なくて、思い当たる原因を探す。天気、気温、予定、日付....。あぁ、そうか。


「失礼致しました。本日は紅茶を用意致します。」


そう言って静かにデッキを立ち去る。何故忘れていたのだろうか。今日はそういう日だった。

調理室に向かう廊下の一室のドアが空いている。その部屋は"相変わらず当時の雰囲気"が保たれていて、花瓶には新しい花が添えられている。この海域ではほとんど入手できない品種。どうやって手に入れたのか、それを知ることはできない。ゆっくりとドアを閉める。ガチャと音が鳴る。

調理室の戸棚に珈琲豆を直し、紅茶の缶を取り出す。カップボードから使い古されたティーカップ2つに変え、ティースプーンを乗せる。新しくお湯を入れ直す。全てを乗せてサービングカートをガラガラと運ぶ。

船尾へと戻ると、小波はオレンジ色に染まっていた。主人の瞳もそう光っていて、私は静かに紅茶の準備をする。


「...昔の話をしよう。私は今まで一度も人を愛したことが無かった。ただひたすら血を浴びて、船を動かしていた。お金にすら興味が無かったんだ。」


お湯をティーポットとカップに注ぎ、温める。


「けれどもある日、彼女がこの船に乗り込んで来た。身に合わないボストンバッグを持ってね。私は今日から世界を旅するんだって。」


ティーポットに二人分の茶葉を入れる。


「正気かと思った。だって、当時この船は海賊船だったし、令嬢どころか、好きで乗り込む人なんていなかった。僕は勿論言ったよ。血の花を咲かせたくなければ帰って紅茶でも飲んどけ、ってな。」


沸騰したお湯をティーポットに注ぎ、蓋をして蒸らす。ポットからズレた蓋を戻した。


「そしたら、なんて言ったと思う?"ここでも紅茶は飲めます"ってボストンバッグからティーセットを取り出したんだ。狂ってると思った、けれども同時に興味を引いた。一年だけだって、そう決めて彼女を入れることにした。」


数分経ったポットの中をスプーンで軽く混ぜる。手が震えた。


「けれども、その一年を延期したのは俺の方だった。気づけば彼女は船に馴染んでいたし、この景色に感動していたし、あんなに軽視していた紅茶を、こうやって二人で飲むようになったんだ。だから...」


茶ガラをこして、紅茶を注ぐ。身体が震えた。


「...なぁ、いい加減、思い出せよ...」


ベストドロップを逃さないよう、ティーカップの中を見つめる。視界が震えて、一滴、ティーカップへと落ちた。

バサバサと音が聞こえる。
さざ波の音が聞こえる、彼の震えた声が聞こえる。最後の一滴が落ちたこのティーカップは、確かに私のだった。

11/11/2025, 6:43:18 PM