「美しい」
その男は美しかった。学も地位も権力もない。ただ美しかった。美しさだけで生きられる程、美しかった。
男の美しさはしばしば争いを生んだ。男を取り合った争いは、大抵男が面倒になって離れていくことで収束する。争いを嫌った男は一処に留まることを避け、どこにも根を張らず根無草として流離うことで安寧を求めた。
路銀が無くなれば、美しさを使って稼ぎ、親切そうな人に一泊一飯を世話になり、極力顔を隠して生きてきた。故郷は捨て、何にも執着せず、ただ孤独に生きた。
人々が羨み、己の手に入れようと渇望するほどの美しさは、男にとってはただ煩わしい枷だった。美しさは男に多くを与えたが、それはどれも一時のもので、それよりも多くを諦めさせた。
そうして、街を流れるように生きた男は、とうとう誰も通る人もいない山奥で一人ひっそりと息を失った。後にそこにはこの世のものとは思えないほど美しい花が咲くようになった。今でもその場所には、季節を問わず美しい花が咲き誇っているらしい。
「この世界は」
この世界はもう直ぐ終わりを迎えます。頭の中で誰かが言った。到底信じられはしなかった。信じざるを得なくなったのは、翌日見た太陽があり得ない色に光っていたからだ。
あの日以来、太陽は毒々しく紫に輝いていて、昼でも薄暗い日が続いている。ネオンライトに照らされたような異様な街中に、尋常ではないことが起こっているのだと理解するのは早かった。
人々は恐慌し、治安も経済もめちゃくちゃだ。平和を失った世界は、確かに終わりに近づいているような気がした。
世界は確かに変わった。植物も動物も変容した。原因はおそらく紫の太陽だろうとされている。巨大化し、凶暴になった動植物はまるでゲームの中の魔物のようだ。
そんな中で、人間だけは変わっていないように見える。大きくも強くもなっていない。人間だけが世界の変化に取り残されて、まるで神様に見捨てられたようだと、考える人も多い。
この世界は、もう直ぐ終わりを迎える。この世界というのが人間社会のことだというならそうだろう。変化した世界に適応できていない人間は、すでに凶暴化した動植物に押し負けている。淘汰されるのも時間の問題だろう。
この世界はもう直ぐ終わる。しっかり鍵を掛けた部屋から街を眺める。昼とも夜ともしれない紫に染まった街が見える。夕焼けに赤く染まった街並みが酷く恋しい。
「どうして」
結局、私は誰かと生きるのに向いていないのだ。理解を求めることすら、烏滸がましかったのだろう。そんな簡単なことに気がつくのに、こんなにも時間がかかってしまった。
「なんか最近、みんなといるのしんどくなってきちゃった」
「……どうして」
「……ごめんね」
これまで一緒にいたことの方がおかしかったのだ。それくらい、私はみんなとは違っていた。変わっていることはずっと分かっていた。それでもいいと、受け入れてくれているのだと、信じていた。そうじゃなかったと気がついてしまったのだ。
結婚するなら〜〜とか、子供ができたら〜〜とか、そういう話題になる度に心が痛かった。昔から、恋愛に興味がないことも、結婚をするつもりがないことも、公言してきたはずだ。周りがみんな恋愛に興味津々な中でそういうことを言うのは、それなりに勇気がいることだった。家族にいうのはもっと。
それでも隠さずに伝えて、受け入れられているのだと思っていたのだ。でもそうではなかったらしい。しかしそれも仕方ないのかもしれない。世間的に見て、私の方が少数派であることは事実で、多数派の人は少数派の存在に目がいかないのだろう。違う考えの人間のことは透明化されて、見えないのだ。
それ自体は仕方ないと理解ができる。ただ、理解ができることと、共存ができることは別で、私はこれ以上否定された気持ちになるのは嫌だった。それが信頼している人からだから余計に。
離れるのはこれ以上傷つきたくないからだ。傷ついたことにすら気付かれたくないからだ。一緒にいると辛いから、離れることにしたのだ。嫌いになったわけじゃなくて、嫌いになりたくないから離れるのだ。
理由を伝えると傷つけてしまいそうだから、何も言わずに去ることにした。私だったら、自分の何気ない言葉で誰かを傷つけていたと知ると傷ついてしまうから。
どうして、に何も言えなくてごめんね。どうか私の知らない場所で幸せになってね。
「夢を見てたい」
夢を見ている。買ってもいない宝くじに当選したい。石油王に身染められて、出資されたい。働かずに大金が欲しい。来世は猫になりたい。異世界で無双したい。夢を、見ている。現実から目を背けている。
現実というものは、まるで毒のようだ。息をするのにもお金がかかる。物価は上がって、給料は上がらない。息苦しい世の中だ。少し現実逃避するくらい、構わないだろう。自分にばかり都合の良い夢を見てたいと思うのはおかしなことではないはずだ。
夢を見ている。毎晩、眠りにつく前の布団の中で。都合のいい夢を見ている。そうすれば、眠りの中でそこに行ける気がするから。毎晩毎晩、夢を見ている。現実が遠く、ぼやけていく。今生きているこの世界こそが、悪夢の中で、夢に見る世界こそが本当だと思うまで。ずっと、夢を、見ている。
「ずっとこのまま」
夕焼け空を見ていた。オレンジに染まった雲。群青の空。昼の名残が夜に覆い尽くされる狭間の景色を眺めている。
マジックアワー。昼と夜の間の極短い時間。そんな時間が好きだった。昼よりも夜よりも、その合間が好きだった。
夕暮れに溶ける太陽を見送って、その後に残る昼の終わりを見届ける。一瞬一瞬、瞬きをする毎にまるで違う色に染まる空を見ている。
ずっとこのまま、夜になりきれないままの空ならいいのに。今日が終わるのが淋しかった。夜が来ないまま、今が永遠に続けばいいと思った。ファインダーで切り取った狭間の空は、目に映るほどの美しさを失っていて、それが寂しかった。