【132,お題:部屋の片隅で】
部屋の片隅で、鳶色の塊が丸まっている
なんてことのないマンションのワンルーム、一人暮らしには十分すぎる部屋だ
その部屋の片隅、もっと言えばバルコニーのすぐ横の太陽の光が降り注ぐスペース
ピョコッ、その塊が動いた
ごろんと派手に寝返りを打って伸びをするのは、鳶色の猫だった
その猫の目は気持ち良さげに細められていて、耳を澄ますとゴロゴロとかわいらしいモーター音が聞こえてくる
白いお腹を太陽にさらけ出し、また横に転がって今度は鳶色の背中を日に当てる
ごろんごろんと転げ回り、ようやく気が済んだかのように起き上がると
ぐんと伸びをし、欠伸をし、少し離れた日陰に移動すると、ごろんとまた横になった
はぁ~お昼寝は最高だにゃ~
まるでそんな声が聞こえてきそうな光景である
何分そうしていただろう?
うとうとと船を漕いでいた猫は、ふとある音がして起き上がった
小さな音だ、人間ならまず聞こえない
遠くから徐々に近付いてくる、カラカラと回る車輪の音
ピルルッ、と耳を震わせて音を拾う、コンクリートの段差を乗り越えガタンと車体が揺れた
だんだんと疑念が確信に変わる
軽いブレーキ音がして、トントンと大股のゆったりとした足音
帰ってきた...!
一目散に玄関まで走ってストンと座る、足音が階段を上がる
この感じは、何か持っているんだろう、途中で狩りでもしてきたのだろうか?
...ガチャ
にゃああっ、にゃあ~
「...ただいま、ルク」
おかえりにゃあ~
鍵を開けて入ってきたのは、特徴的な白い髪をした青年だ
右手に鍵、左手にはハンドバックを持っている
「ルク...お土産買ってきた...」
へへ、と不器用に笑って見せる
ハンドバックから出したのは、いつもとは少し違う柄の猫缶
「今日のご飯はちょっと豪華だね」
そうなのにゃあ~
青年の足に纏わり付きながら、撫でろと要求する
青年は困ったように笑いながらも、しゃがみこんで猫のふわふわの毛を撫でた
帰ったらまず、手洗いうがいと決めている彼だがこれでは全く進めない
まあそれでも良いか、戯れに猫のお腹に顔を埋め猫は満更でもない顔をする
ありきたりな日常の切り抜き、幸せな1コマ
当たり前の小さな幸せを大事にしたい
【131,お題:逆さま】
まるで上下逆さまで宙に浮かんでいるような、そんな感覚
じっとりと汗をかいた手のひらが気持ち悪い
頭の方にだけ集中して血が集まるから、ズンと重くなって吐き気がした
いつまでこれは続くんだろう...
...ピッ、ピーーーーッ
「もう終わりだぞー...って、誰か吉野が降りるの手伝ってやれー」
「わっ!寧音ちゃん大丈夫?」
先生の笛の音がなって、みんなそれぞれの位置に戻っていく
そんな中私は鉄棒に足をかけたまま、逆さまの姿勢で固まっていた
「大丈夫っすか吉野サン?」
「これが大丈夫に見えるなら、お前は今すぐ眼科に行った方がいい」
「寧音ちゃんは運動苦手だもんね~苦手なものは仕方ないよ」
足離していいよ~と言われ、親友の葵依に体重支えてもらいながゆっくりと鉄棒から降りる
なんとなく葵依の支え方が上手くなって来ているのが腑に落ちない
「登ったはいいが降りれない、なんて何だか猫みたいっすね」
長い間鉄棒にぶら下がったままだったので、痺れた足を引き摺りながら歩いていると
猫宮がそんなことを横から茶化してくる、実際に名字が猫であるお前に言われたくない
「お前ら早く並べー」
「「すいませーん」」
列の一番後ろに3人で固まって並ぶ、この様子だと次は短距離走か、気が重い
先生のスタート合図で、前の運動神経のいい男子達が疾風のごとく駆け出すのが見えた
あれだけ早く走れたら気持ちいいのだろうか?、なんてことをふと考える
「ねぇねぇ、今日学校終わったらカフェ行かない?」
「カフェ?近場にそんなのあった?」
「ふっふっふ、実は最近新しく出来たんだって~、あっ猫宮くんも行こうよ」
そいつは誘わなくてもいいだろ、どうせ勝手に着いてくるし
なになに?何の話しっすか~?と、近付いてきた猫宮に同じ内容を話す葵依を見て
なんとなくこの日常感溢れる光景に頬が緩んだ
「えっ俺も行っていいの?」
「もちろん!寧音ちゃんも良いって」
しれっと了承したことになっているのは置いといて
下らない日常ってこういう事なのかな、とふと思う
もう少しこの光景を見ていたい、いまはその欲に従うことにした
...そのお喋りが熱中しすぎたせいで、この後先生からの怒声が飛んだのは言うまでもない。
【130,お題:眠れないほど】
「お前最近寝れてねえの?」
「ふぇっ?」
唐突に、そして直球に飛んできた質問に、あわや手元のコーヒーを落とすとこだった
「急に何だ?」コーヒーを啜って眠気を覚ましながら言い返す
「いやお前隈凄いぞ、それにやけにコーヒーばっか頼むし」
それ3杯目だぞ、そう言われるが...そうだろうか?いまいち記憶がない
「寝不足は身体に良くねえからあんますんなよ?」
「いや...別に、寝不足では...」
「...じゃあその歯切れの悪さは何だよ、それに今日の講義中ずっとダルそうだったよな?
学食でも、もとから少食なくせに今日は特に食わねえし、あ、あと...
やばい、変なスイッチを入れてしまった。
確かにちゃんと寝ていないのは当たっているが、別に体調が悪いわけではないし特に問題もないはずだ
彼は意外と人のことを良く見ているから、いろいろ目についてしまうんだろう
本当に自分は大丈夫なのだ、自分のことは自分が一番分かると言うし...
「あ、おい!人の話は最後まで聞けよ、どこ行くんだ?」
「図書館、自習しに行く」
「またか?お前気ぃ張りすぎじゃね?」
てかお前昨日も一日中勉強して...
と、彼のお喋りはとどまるところを知らない、お前は俺のオカンかよ
これ以上何を言っても会話らしい会話になる気がしないので、残りのコーヒーを胃に流し入れ
自習用のノートと筆記用具をまとめて席を立つ、が
「痛ッ...」
ズンと頭が重くなる感覚、押し寄せ引き返す波のような痛みに思わずしゃがみこんだ
何だこれは、いつもの痛み方と違う...
「お、おい大丈夫か...!?」
「大したこと無い...別にいつもと変わらな...うっ」
無理に起きようとテーブルに手を置いて立ち上がる、だがそれも叶わず
よろけながらなんとか数歩進むが、すぐに平衡感覚がバカになって足が縺れた
あ、ヤバい倒れ...
ドサッ
「うおっ!?あっぶねぇ...大丈夫か?」
ぐるりと回転した視界に脳が追い付いていないのか、まだ視界が揺れている
転びかけた俺を、彼が引っ張って助けてくれたんだと、数秒たってから理解した
「...ぁ...あぁ、すまん...そっちこそ平気か?」
引っ張った拍子に一緒に縺れて転んだため、俺の下敷きになっている
慌てて退くと、彼がのっそりと身体を起こした
「俺は平気、それよりお前随分軽くねえか?最後に飯食ったのいつだよ」
「...」
「その感じだと、もう数日は食ってねえんじゃねえか!お前死ぬぞそれは」
あっやば、...何か言い訳
「いや...課題が...」
「お前、課題はいつもここで終わらせてくだろが」
「......」
これ以上なにも浮かばない、やはりろくに寝ていないから思考力が低下してきているのか
なにも言えずにもごもごと押し黙っていると、はぁぁと深いため息を吐く音が聞こえた
「お前が何かに集中しやすい正確だってことは知ってんだよ、何年の付き合いだと思ってんだ
どーせろくに眠れないほど熱中してる何かがあんだろ、だが」
子供を叱る親のような眼差しがスッと和らぎ、優しい声色で告げる
「あんま無理しすぎんなよ、俺だって心配になる
お前だけの身体じゃねえんだ、他にも心配する奴がいると思うぜ」
俺だけ身体じゃない、か...そうか ...ところで
「ちなみにだが、午後の講義が何時からかは知っているか?」
「?13時か?」
「そうだ、残り時間あと2分だな」
ピシッ、と彼の表情が凍り付くのが見えた
「...おいお前気付いてて黙ってただろ」
「俺は体調が悪いから午後の講義は出られん、すまんがお前一人で叱られてくれ」
「口元にやついてんのバレてんぞ!...っだああもう!」
お前体調が戻ったら俺の課題手伝えよ!と叫び声を残し
物凄い勢いで廊下を駆けていく、あの調子じゃ講義室に着く前に別の理由で叱られるぞ
「はぁ...頭痛え...」
さっきまで彼の居たテーブルに突っ伏し、うとうとと船を漕ぐ
確かに俺は無理をしすぎていたかもしれない、1人反省しながら
あいつが戻って来たら、少しくらいは課題を手伝ってやろう
そう思いながら、数日ぶりに眠りに落ちるのであった。
【129,お題:夢と現実】
深い泥沼の底から、ゆっくりと浮上していくような目覚めだった
重たいヘドロを引き摺って、夢の余韻を残しながら上体を起こした
内側から鈍器で殴られているような、鈍い痛みに顔をしかめて額を押さえる
嫌な夢を見た
どこか抽象的で、なんとも形容しがたい
あえて表現するなら、酷い風邪を引いた時に見る悪夢のようなそんな夢
床も壁も上も下も分からない空間に何時間も閉じ込められ、自身が徐々に狂っていくのが漠然と理解できる
狂気の金切り声を上げながら、耐え難い憎悪恐怖と負の感情が津波のように押し寄せた
視界は歪み、周りの風景は目まぐるしく変化し、一時たりともやむことの無い嵐
眼球を抉る針のような蛍光色の黄色、腐乱死体から滲み出るようなおどろおどろしい体液の生臭い紅
最悪の目覚めに吐き気がする
しかも夢から覚めたとて、そこは先程までの夢と大差ない程の悪夢のような現実
夢も現実も、そう違わないじゃないか
嫌な夢、嫌な現実、嫌な夢、ずっとこのサイクルの繰り返し、一度だって安心して眠れた日はない
もう身体が覚えているのだ、普通の人間が食って寝て起きるよう、当たり前の日常に習慣化されている
喉のすぐそこまで込み上げた物を、無理やり飲み込んで
おぼつかない足で危なっかしく歩きながら、幼児の落書きのようにグチャグチャに歪んだ視界で前を見据える
これがもし夢であったなら、目覚めた時、少しは良かったと思えるだろうか
そんなことを思っても結局これが現実なのか
また今日も1日が始まる
【128,お題:さよならは言わないで】
「またね」
いつもそう言って別れる君が、一度だけ
「さよなら」
そう言った日があったんだ
その翌日、君は行方不明になって、帰ってきたのは2週間後だった
全身傷だらけ泥まみれで、骨も折れてたしあちこちボロボロだったけど
君が帰ってきてくれたこと、また会えたことが何より嬉しくて他の事なんてどうでも良かった
だが、行方不明だった2週間何をしていたのか、何処にいたのかは、何度聞いても教えてはくれなかった
心配で心配でぐずぐずに泣き腫らした顔で訴える
「もう2度と、さよならなんて言わないで」
「...ああ、もう言わない」
その日から帰り際には「さよなら」ではなく
「また明日」と言うのが、僕たちの間の暗黙のルールとなった