Luca

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10/14/2023, 4:17:22 PM

「高く高く」


———何故山に登るのか。そこに山があるからだ。
ジョージ・マロリーという登山家の名言がある。
誰しも一度は耳にしたことはあるだろう。
現在ではただ単純に登山を指すのではなく、物事に挑むことに応用させて引用されることも多い至言だ。

 今私は山を登っているわけではない。
ただ道を歩いている。平凡な、どこにでもある住宅街の中心を貫く一本道を。しかしその道中でふとその言葉が頭をよぎったのだ。

 人生は山に似ていると私は思う。幾多の艱難辛苦を乗り越えた先の幸福を目指して、不恰好に泥臭く足掻く。達成までに流した汗水、時間はその時々によって異なるところも山の高さに例えることができる。
 何度転んでも立ち上がり、心を奮い立たせてようやくゴールに辿り着いた時には今までの苦しさなど吹き飛んでしまう快感が得られる。他ならぬ私とて日々ゴールを目指して悪戦苦闘している1人であり、大小はあれども少なくない数のゴールをこの手にしてきた。

 だがその後には必ず次の山が待っている。正しくは頂上にとどまることが不可能なのだ。
——もう疲れた、こんな苦しみは味わいたくない、だからここで休むんだ。
 どれだけ強い意志で留まろうとしたところで世界は絶えず動いている。世間、大衆、そんな大質量の奔流の中で止まることなどちっぽけなこの身一つでは叶うはずもなく、気づけば次の山の麓に立たされている。
 天高く聳え立つ山を見上げて、雲に隠れた高みを視界に入れて体の体積以上もあるのではないかと思えるほどのため息を着きたくなるときがある。私は今まさにそのため息をつききった所にいた。

 今日の疲れを癒す間もなく、終わりのない仕事に追いかけられる毎日。もう嫌だ!と手に持った鞄をその辺りの家の塀に投げつけたくなる。なるのだが、その度に頭に浮かぶのはただ1人の顔。大切な、わたしの人生を賭して添い遂げると心に決めた君。
 隙あらば道を捻じ曲げようとする私の弱気を払ってくれる、まっすぐな一本道に戻してくれる左手の指に感じるほんの小さな重み。また今日も助けられてしまったなと呆れのような微笑を浮かべてしまう。
 辛い道のりも君となら歩いて行ける。そんな確信がある。そう思えるただ1人の人だから、私は立ち止まらずに歩いて行こうと、何度目か分からない決意を新たにした。顔を上げれば青白い街灯にぼんやり照らされた一本道が続いていた。私は道を間違えないように一歩一歩踏みしめながら、人生という山を高く高く登っていく。

10/13/2023, 1:51:00 PM

汗がはじける。
どれだけ走ったか思い出せない。

目的地なんてない。でも目的は明確にある。
ただひたすらに高みを目指して。
敵に、自分に負けないように、もっと強くなるために。
自分の限界を認めないために。

毎日朝から晩までグラウンドを駆けずり回ることができたあの頃の自分とは違う。お金を払って勉強する毎日ではなく、お金をもらいながら社会を回すそんな歯車のような自分。そんな自分が嫌いではないが、絶対に譲れない芯が自分には残っていた。
ジムでは何か違う、マラソンを走っても何か違う。
求めているものは負荷ではない、距離でもない、ただ自分の目的に向けた血肉のみ。

より速い球を投げられるように、相手をねじ伏せられるように、ただ相方のミットに白球を届けられるように。
太陽はとっくに眠り、若い月が薄ぼんやりと照らす公園の中を隅から隅まで全力で駆け抜ける。
ジョギングしている男性に、1日の終わりに至福の時間を送っている高校生たちに奇異な目を向けられるが気にしない。

今この時だけは子供のように、がむしゃらに駆け抜ける。
自分が誇れる自分であるために。

10/11/2023, 3:30:54 PM

長年使い込まれた色をした机の上に光が差していた。
誰もいない放課後の教室、窓際の席。
机に差した光は机の色しか返さないはずなのに穏やかな茜色をそこから感じ取れるのは何故だろうか。
そんな役体もないことを考えながら視線を窓の外に向ける。3階の教室から見える景色は道路とその先に広がる住宅街。田舎の学校ということもあり学校の敷地内の緑、景観保持のための植樹、子どもたちがまさに帰ろうとしている公園の緑が目に入る。空は先ほど光から感じ取れた茜色とはまた一味違う、オレンジと紫と青のグラデーション。やはり先程の光から感じた温度は錯覚らしい。人間の感覚はなんと当てにならないことか。
開け放たれた窓から涼しい空気の奔流が僕の体に向かってくる。夏とはいえ9月にもなると逢魔時は心地よく涼しいものだ。
三週間前の足の骨折で松葉杖生活になって以来、迎えを待つ間教室で1人で過ごす時間が増えた。普段は怪我をしていても部活動に赴いているが、テスト期間に入って以来はこうして教室で1人本を読んでいることが多い。
物語は素晴らしい、自分をここではないどこかへ連れて行ってくれる、そんな気がするから。
どれだけ練習しても上手くならない野球、そんな野球中に怪我をしてしまい、これまでの練習の成果が泡と消えていくことをまざまざと見せつけてくる細ったふくらはぎ。そんな不安からこの一時は解放されるような気がしていた。
教室のスピーカーから家路が流れる。そろそろ親が迎えにくる時間だ。荷物をカバンにしまっていつでも帰れる準備を整えたが席は立たない。何故ならもうじき、、、

ガラッと引き戸が開け放たれる音。同時に華のような、果実のような、そしてどこか石鹸のような優しい匂いが風に乗って運ばれてきた。目を向けなくともわかる、いつものように彼女がそこにいた。
目が合うと彼女は笑うでもなく、声を発するでもなく、ただゆったりとした足取りで近づいてきて、僕の前の席の窓ベリに腰掛けた。
彼女は一言も話さない、僕も話さない。だけども満たされた一つの世界がその教室にはあった。我が身の不幸からくる不安、きっかけや原因なんてない漠然とした不安、高校生らしい青臭い不安もその時だけは世界の片隅に押しやることができた。
物語からでは得られないこの充実感、この感情の名前はなんなのかをなんとなくは理解している。けれど意図的に考えないように、形を与えないようにして今を大切にしたいと思った。
怪我をして悪いことばかりじゃなかったなと、ここ数週間に何度も思ったことを改めて考えながら、カーテンの奥に見え隠れする彼女の横顔を眺めていた。

10/10/2023, 11:50:53 AM

涙の理由

そこは薄暗い部屋だった。
四畳半程度の四角い部屋、窓から外の景色は見えないが秋の澄んだ陽の光がワックスで磨かれた床を照らしていた。スポットライトのようなその光は舞い上がった埃の存在を暴いてしまうが、ふわふわと舞うその様は静謐な今の状況に相応しく心を落ち着けてくれる。
部屋に響くのは自分の呼吸の音。意識せずとも規則的に繰り返される音。蛍光灯から鳴る音、カーテンが靡く音、部屋の外を行き来する人の靴が交わり合って心地よいリズムを生み出していた。
そんな音に耳を傾けているうちに寝てしまっていたらしく、目が覚めたのがつい先程のことだった。
ベッドなど用意されていないので椅子に腰掛けていたので背中が痛い。立ち上がって狭い部屋の中を散歩する。先ほどまで寝ていたというのに、時計が目に入った途端にソワソワしてしまう。自分のこととはいえ単純で笑えてしまう。
外の景色が見たいと思い窓に手を伸ばそうとした瞬間、木製のドアをノックする小気味良い音が響く。
ドアを開けると瑕疵一つない正装に身を包んだ女性が立っていた。
女性は自分のことを見て満足そうに一度頷き、何も言わずに一歩下がる。言葉はないが意味は十分に伝わった。
僕は部屋から一歩外に踏み出した。部屋の中も居心地は良かったが、一気に視界が開けて気分が良い。
女性は向かって左側を指し示し、僕はそれに頷きを一つ返して歩みを進めた。
向かう先には一つの扉。金の取手、金の装飾で彩られた白亜の両扉。それが両側から開け放たれた。
急な眩しさに思わず目をすぼめてしまうが、順応した視界には白を基調とした華で彩られた空間が広がった。
その中心に背を向けて1人の女性が佇んでいる。自分の目で捉えた瞬間に心の中を温かいものが伝播していくのを感じた。
僕は一歩ずつ、一歩ずつ距離を縮めて遂には手が届く距離に至った。惜しげもなく晒された肩口に触れるとビクッと震えるのを感じた。それだけでは収まらず、目の前の女性は背を向けたまま震え続けていた。
怖いの?と尋ねると女性は首を横にブンブンと振って否定の意思を示した。
そしてくるっと周り僕にその表情を見せてくれた。晴れ渡った秋の空よりも眩しい、身に纏った純白のドレスよりも美しい、周囲を彩った華々よりも暖かな笑顔なのだけれどその眼からは涙がとめどなく流れていて笑えるほどのミスマッチを生んでいた。思わず吹き出しそうになるがグッと堪える。こういう時のために持たされたのだなと得心して、胸ポケットからハンカチを取り出して涙を拭いてあげる。うん、綺麗な笑顔だ。と眺めていたのだがまた涙が彼女頬を濡らしていく。再びハンカチを持った手を伸ばそうとするが彼女はゆっくりと首を振る。
確かな意志を持った眼は僕の眼を捉えて離さない。
彼女は口を開いて言葉を紡ごうとするが、緊張のためか声にならない。だが僕には声にされる必要もなく伝わっていた。
幸せです。と
なぜなら僕も同じ気持ちなのだから。
2人が夫婦として祝福されるまで、あと一時間。