涙の理由
そこは薄暗い部屋だった。
四畳半程度の四角い部屋、窓から外の景色は見えないが秋の澄んだ陽の光がワックスで磨かれた床を照らしていた。スポットライトのようなその光は舞い上がった埃の存在を暴いてしまうが、ふわふわと舞うその様は静謐な今の状況に相応しく心を落ち着けてくれる。
部屋に響くのは自分の呼吸の音。意識せずとも規則的に繰り返される音。蛍光灯から鳴る音、カーテンが靡く音、部屋の外を行き来する人の靴が交わり合って心地よいリズムを生み出していた。
そんな音に耳を傾けているうちに寝てしまっていたらしく、目が覚めたのがつい先程のことだった。
ベッドなど用意されていないので椅子に腰掛けていたので背中が痛い。立ち上がって狭い部屋の中を散歩する。先ほどまで寝ていたというのに、時計が目に入った途端にソワソワしてしまう。自分のこととはいえ単純で笑えてしまう。
外の景色が見たいと思い窓に手を伸ばそうとした瞬間、木製のドアをノックする小気味良い音が響く。
ドアを開けると瑕疵一つない正装に身を包んだ女性が立っていた。
女性は自分のことを見て満足そうに一度頷き、何も言わずに一歩下がる。言葉はないが意味は十分に伝わった。
僕は部屋から一歩外に踏み出した。部屋の中も居心地は良かったが、一気に視界が開けて気分が良い。
女性は向かって左側を指し示し、僕はそれに頷きを一つ返して歩みを進めた。
向かう先には一つの扉。金の取手、金の装飾で彩られた白亜の両扉。それが両側から開け放たれた。
急な眩しさに思わず目をすぼめてしまうが、順応した視界には白を基調とした華で彩られた空間が広がった。
その中心に背を向けて1人の女性が佇んでいる。自分の目で捉えた瞬間に心の中を温かいものが伝播していくのを感じた。
僕は一歩ずつ、一歩ずつ距離を縮めて遂には手が届く距離に至った。惜しげもなく晒された肩口に触れるとビクッと震えるのを感じた。それだけでは収まらず、目の前の女性は背を向けたまま震え続けていた。
怖いの?と尋ねると女性は首を横にブンブンと振って否定の意思を示した。
そしてくるっと周り僕にその表情を見せてくれた。晴れ渡った秋の空よりも眩しい、身に纏った純白のドレスよりも美しい、周囲を彩った華々よりも暖かな笑顔なのだけれどその眼からは涙がとめどなく流れていて笑えるほどのミスマッチを生んでいた。思わず吹き出しそうになるがグッと堪える。こういう時のために持たされたのだなと得心して、胸ポケットからハンカチを取り出して涙を拭いてあげる。うん、綺麗な笑顔だ。と眺めていたのだがまた涙が彼女頬を濡らしていく。再びハンカチを持った手を伸ばそうとするが彼女はゆっくりと首を振る。
確かな意志を持った眼は僕の眼を捉えて離さない。
彼女は口を開いて言葉を紡ごうとするが、緊張のためか声にならない。だが僕には声にされる必要もなく伝わっていた。
幸せです。と
なぜなら僕も同じ気持ちなのだから。
2人が夫婦として祝福されるまで、あと一時間。
10/10/2023, 11:50:53 AM