【静寂の中心で】
ふと見上げると、綺麗な夕焼けが空を満たしていた。世界が綺麗であることを知る度、私は君に宛てて物語を書きたくなる。
輝くオレンジ色の陽光。そこから生み出される神秘的なグラデーション。夜の青に雲が靡いていて、雲だけが太陽の光を拾って桃色になっている。まるで水面のような空をスマホのカメラ越しに捉えてから、私は思わず息を吐いた。
教えたい。この光景の綺麗さを。
知りたい。君がどう思うのかを。
叶うのなら、それを隣で聞いていたい。見ていたい。
叶わない願いを胸に、室内へ戻った。
まだ家族も帰っていない。秒針の音だけが聞こえる部屋の入口に座り込んで、君に宛てて限りない世界を綴っていく。
いかに君が教えてくれた世界が綺麗であるのか。君のおかげで、どんなに綺麗に見えるようになったのか。……結局、綺麗な世界を書きたいのは、君への想いを綴りたいだけなのだと思いながら。
不思議と、騒がしいだけの動画を見ていた先程より、静けさでいっぱいの今の方が感情でいっぱいになっていた。
もう日は落ちて、残るのは夜だけだ。
静寂の中心にいることを感じるこの時間。好きだな、と思った。
【モノクロ】
世界には色彩がない。
天気の良し悪しだけを映す空、代わり映えのない道。春とも夏ともつかない、晴れでありながら雨のようなじめじめとした空気。それらが蔓延したこの時期が、私はあまり好きではなかった。
身に纏わりつく熱気に顔をしかめながら、ここはアスファルトが荒いとか、逆に新しくて綺麗だとか、そんなことばかり考えていた気がする。
私にとって、世界とは自分の周りのごく狭いスペースだけであった。物語や、ニュースや、人の綴る光景は、どんなにリアルでも別世界のような、どこか遠い場所を映したもののように思えていた。
ただ存在していたものが意味を持ち始めたのはつい最近のことだ。
君が空を見ていたから、私も空を見上げるようになった。夏にかけて空は翠色を帯び、はっきりとした輪郭の雲がそのコントラストを強調する。広がりを持った空の前を、電線や信号、鮮やかな標識が通過していく。どんなに足を速めても、視界の左右を街が通りすぎていくばかりで、空はほとんど動かない。そうしてようやく、私は空の高さを知ったのだ。
変わらなかったはずの光景も、日々移ろぐようになった。名も知らないような植物の表情が違うこと。毎日すれ違う人々が皆違う人であること。柔らかで暖かだった空気が、澄んだ青になってきていること。同じものを見てきたはずなのに、こんなにも新しいことに気がつくなんて。自分の"世界"の窓が君によって開かれて、新鮮な空気が、世界が体中に巡る。
気づけば、じっとりとした湿気も悪いようには思えなくなっていた。汗ばんだ体の不快感も、通り抜ける風の心地よさも、夏の訪れを彩る描写の一つだ。
広がる空を眺めて、風に吹かれてざわめく木々や、人々の雑踏に意識を傾ける。そうすると、視界の中央に今まで気になりもしなかった鼻がぼやあと見えてきて、それに汗が浮かんでいるではないか。私はは右の人差し指でそれを拭った。
世界は、色で溢れている。
【パラレルワールド】
私は同時に2つの人生を生きている。と言っても、片方は夢の中でだが。
学生時代に成功を収め、画家として活動する私。
夢の中では、芽が出ずとも、いじめと家庭内暴力でぼろぼろになりながらも、絵を好んで描き続ける私。
夢でも絵を描くのだから、よっぽど好きなのだろう。あまりの芸術家ぶりにいつも笑ってしまう。
最近制作しているのは大きな作品で、脚立を使って壁にかけたキャンパスの前に腰を据える。色を乗せながら、今日の出来事を振り返るのが、私の至福のときだった。
夢が現実なら、どれほど辛かったか。
起床時から階下で聞こえる父親の罵声。喧嘩をする両親の隙間を縫って登校。黒インクをぶちまけられ、バラバラにして黒板に貼られている渾身の一作。傷だらけの体に刺さる好奇の目。それを更に増やす父親と、無関心の母親。布団に入っても、嫌な思い出がめぐるばかりで寝られないから、現実のことを必死に考えて眠って……こちらに戻ってきた。
辛いリアルな夢も、全てが創作の糧になる。感じた心と身体の痛みを大きなキャンバスにぶつけていく瞬間が、私は何よりも好きだ。経験が作品になるその様こそが、私の命だから。
腕を伸ばしたところで、ぐらり。足場にしていた脚立が倒れる。危ない__と思った時には、インクと一緒に床に倒れていた。白く、どこまでも伸びるように思えるアトリエの天井を見ながら、私は。
「痛くない」
ああ、そうか。こっちが"夢"なんだ。こちらの世界で痛みを感じる機会がないから分からなかっただけで。ずっと、そう思い込んでいただけで。
パラレルワールドを夢見て逃げ込んでいただけだったのだ。
夢が現実なら、どれほど良かったか。
【時計の針が重なって】
「今日は楽しかったね」
そう言うあなたは、どこかぎこちない。間もなく日付を回るかという頃、とたんに付き合いたてのような様子になってしまうのだ。
今日は泊まりの予定なのだから、そわそわする必要もないのに。
「楽しかったね。」
かち、かち、と秒針が進む音がする。二人のの距離は腕一本伸ばしてようやくといったところ。秒針のリズムは一定に刻まれているのに、これを詰め切るには途方もない時間がかかりそうだ。
さりげなくソファに座り直して、壁際に座るあなたとの距離を縮める。一定の距離を保ちたかったのだろうか、ただえさえ細身の身体がよりぎゆっと縮こまった。
「そんなに緊張しなくてもいいじゃん」
「……君はもう少し、自分がどれくらい愛されているか考えた方がいい。」
はて。誰にも見せたことのない顔で照れながら、一生懸命絞り出して出した言葉が「好き」。寡黙なあなたが"そう"なるんだから、あなたがどれくらい自分を愛しているかなんて明白だ。……そんな思考を回さずとも、身から溢れるオーラの違いで丸わかりなのだけれど。
じりじりと距離を詰め、ようやくその愛おしい顔がすぐそこに見える位置までやって来た。
「かわいいね」
「そんな風に言っても、なんにも、出てこないよ」
あれだけ聞こえていた秒針も、心臓の鼓動が大きすぎて聞こえなくなった。またふいっと顔を逸らしたあなたの美しい横顔をじっと観察して、にっこり。すこしふくれているようだが、耳や首筋まで赤くてあまりにも愛おしい。
「綺麗な顔だ。」
「……ばか。」
こちらを振り返ったあなたの瞳は丸く潤んでいる。顔にかかる髪を耳にかけてやり、こちらに引き寄せた顔が受け入れようと瞼を閉じる瞬間が好きだ。
カチ。
やわらかさとは反対の無機質な音が部屋に響く。ちょうど時計の針が重なった午前十二時。まだまだ、時間はたくさんある。