『上手くいかなくたっていい』
気に食わない女がいる。
品行方正、文武両道。誰にでも親切で、いつもクラスの中心にいる学級委員長様。…まるで漫画かアニメのキャラクターかよっていうほど、“完璧”な女。
そんなヤツと俺は家が隣同士の、いわゆる幼なじみというやつだった。ありがた迷惑なことに、ちょうど同い年だったもんだから幼い頃はよく一緒に遊ばされたものだ。
…幼い記憶の中にいるアイツは、“完璧”とはほど遠い。
春に両家で花見に行くと、アイツは桜なんて目もくれず公園で走り回ってすっころび、
夏になると、暑さに辟易している俺の腕を無理やり引っ掴んで、虫取り網と虫かご片手に近所の野原を連れ回され、
秋には大量に集めたひっつき虫を、きゃらきゃらと笑いながらぽーんっとこっちに投げて俺の服へとひっつけてきた。
冬ともなれば、雪が積もった途端に外へと駆け出し、俺と一緒に真っ白な雪へダイブするのがアイツの定番だった。
幼い頃の記憶には、今でもそんなアイツの姿が焼き付いている。
…アイツが変わったのは、小学校四年生の冬頃。病気でアイツの母親が入院し、それを補う為に父親も夜遅くまで働くようになってからだ。
うちの両親はそんなお隣さんを見て、父親が帰ってくるまでアイツをうちで預かると申し出たのだ。アイツの親父さんは申し訳なさそうに何度も頭を下げてお礼を言っていた。そんな中、アイツは親父さんの袖口をぎゅっと握ったかと思うとすぐに離して、
「私はいい子で待ってるから、パパもお仕事頑張ってね!」
と、にっこり笑っていたのをよく覚えている。
そこからだ。アイツがいかにも優等生になっていったのは。まず、俺を無理やり引っ張って連れ回すことがなくなった。無闇矢鱈に外を駆けずり回ることはしないで、放課後は大人しく俺の部屋で一緒にノートを広げるようになった。
そんなアイツがどうにも俺には気持ち悪くて、一度だけアイツに聞いてみたことがある。
「急にどうしたんだ、何かヘンなものでも食べたのか?」
怒って欲しかった。いつもみたいに、バカにしないでよ!なんて言って俺に向かってきて欲しかった。
でもアイツは、俯いてカリカリとノートに鉛筆を走らせたまま、ただ一言、
「ママとパパを心配させたくないの。二人が安心出来るように私、いい子になる。」
なんて、今まで聞いたこともないようなか細い声で答えただけだった。
俺は、そんなアイツの姿に何も言えなかった。ただ黙って、アイツと同じように宿題の続きをするしかなかった。
あれから何年か立ち、俺もアイツももう高校生になった。今でもアイツは、“完璧”な優等生だ。うちに来て一緒にノートを広げることは、もうないけれど。
俺はあの“完璧”な優等生が気に食わない。アイツが優等生になる為に死ぬほど努力したのはよく知っている。その努力も、アイツの想いも、否定するつもりはない。でも、それでも。俺はアイツに一言言ってやりたいのだ。
「上手くいかなくたっていいんだ。たまには愚痴のひとつくらい零してみせろ。」
今度こそ、俺はアイツに伝えたいんだ。
『蝶よ花よ』
「私、蝶よ花よと育てられたの。」
緊張のあまり、手のひらに人を書いては飲むを繰り返していた俺。そんな俺を見て、彼女は唐突にそんなことを言った。…このまま数分も歩けば予定通りの時間に彼女の実家に到着するだろう。
「パパはね、仕事が終わった後、いつも急いで家に帰ってきた。その後、めいいっぱい私と遊んでくれるの。今思えば、パパだって仕事終わりで疲れてたのにね。私にはそういう所、全然見せてくれなかった。」
全然見せてくれなかった。なんて不満げなはずの彼女は、しかしうっすらと口角を上げて楽しげに続ける。
「ママはね、いつでも私の話を聞いてくれて。洗濯物を畳んでるときでも、お掃除をしてるときでも。私が話しかけると絶対に一度は手を止めて、私の目をまっすぐにみつめて話を聞いてくれた。だからかな?ママにみつめられると、すっごく安心する。」
隣で歩いていた彼女が足を止めたから、自然と俺の足も止まった。目の前には、綺麗に整えられた一軒家。
「貴方はこれから、そんな私を貰い受けに行くんだから、気合い入れて頑張ってよね!」
得意げになって笑う彼女は、まさしく彼女のご両親が手塩にかけて育て上げた美しい華だ。
緊張はまだしている。それでも、俺もこの先ずっとこの美しい華の隣にいたいから。
俺はこの震える指を、インターホンへと伸ばすのだ。
『最初から決まってた』
人間は平等じゃない。
時々、ふと周りを見渡すことがある。例えば会社。黙々と仕事をしている中で、気が付くと同じように働いている同期の姿を見詰めている。テキパキという擬音がよく似合う彼女。明るく社交的で、同い年なのに私とは正反対な人。私は見詰めていたことに気が付くやいなや、すぐに目線を下に落とし、仕事を続けた。
…正直に言おう。私は彼女に劣等感を抱いている。だからといって、別に彼女に嫉妬しているわけではない。嫉妬というは、その人を妬み、恨めしく思うことだから。彼女は私にも親しく話しかけてくれる優しい人だ。そんな優しい人を勝手に自分と比べて、勝手に自分を傷つけている。そんな自分勝手なだけの話。
自分で自分を傷つけるなんて、バカな話だと思うかも知れない。実際私はバカなのかも。傷つくと分かっていながらも、何度も無意識に彼女と自分を比べてはその度勝手に苦しんでいるのだから。
「人間の能力値は最初から決まってた」
どうしようもなく、そう思いたくなる。自分が要領悪いのも、彼女が出来る人間なのも。生まれたときから人間の能力値はある程度決まっていて、だから私たちの違いはしょうがないことなんだって。誰かに言い訳したかった。自分を言い含めたかった。しょうがない。どうしようもない。諦めてしまってもいいんだって。
でも、本当は分かっている。そんなものは自分を甘やかすための、甘い毒でしかない。最初から決まっていたのなら私は今、こんなにも苦しんでなんかいない。
昔から、他人と自分を比べて勝手に傷ついてきた。その度に辛くて、自分が情けなくて、どうしようもなく醜く藻掻いていた。
もし本当に最初から決まっていたのだとしたら、今までの私の醜い藻掻きまでもが否定されてしまうだろう。それだけは許せない。だって、例え醜い藻掻きだとしても、無駄な悪あがきだとしても、世界中の誰だろうが私のこの藻掻きを否定することはさせない。私がずっとこの苦しみと向き合い続けたことは、私が一番よく知っている。私だけは、その苦しみを否定してはいけないのだから。
また無意識に私の視界の中にいた彼女は、今も忙しなさそうに働いていた。上司に声を掛けられたのだろう。彼女はパタパタと遠ざかっていく。
彼女を見ていると辛い。それでも、私は「人間の能力値が最初から決まってた」なんて思いたくないから。私はいつまでも、劣等感を抱いて彼女を見詰めていくのだろう。この苦しみから、手を離すことだけはしたくないのだ。
『鐘の音』
───鐘の音が聞こえる。僕を嘲笑うような、あの音が。
今日、幼なじみのあの子が結婚する。
相手はそれなりに立派な会社で働くサラリーマン。僕とは大学の頃から居酒屋でよく肩を並べて愚痴り合う、そんな奴だ。
あの子とアイツが出会ったのは、ミンミン煩い音で茹で上がって仕舞うような暑さの僕の家だった。リビングでアイツと二人してヒーヒー言いながら課題に取り組んでいた中、あの子がお裾分けにと持って来てくれた美味しそうなスイカと、夏の日差しのようなあの子の得意げな笑顔を、今でもよく覚えている。
「あの時一緒にいた彼と仲いいの?」
後日、あの子に聞かれた最初の一言も、よく覚えている。僕は一瞬頭が真っ白になってしまって、「まあ、それなりにはね。」なんて当たり障りの無い言葉を返したような気がする。あの時の彼女の顔を見れば、あの子の気持ちなんて誰だって分かるだろう。…幼なじみの僕なら尚更。
大切な幼なじみの頼みならば一肌脱がねばと僕は大学でヤツに掛け合ってみた。するとアイツもほんの少し頬を染め、まんざらでも無い様子が見て取れてしまった。
それからの僕は、二人の仲を取り持つのに奮闘した。僕はいわゆる二人の恋のキューピッドというやつだった。時には二人のすれ違いにヒヤヒヤしたり、奥手な二人にやきもきすることもあったけれど、二人に揃って交際の報告を受けたときには思わず目尻に涙が浮かんでしまった。
そして今日、二人は結婚式を挙げる。厳かな挙式を終え、式場の庭園に出て来た二人の周りには、多くの笑顔が溢れている。僕は、そんな二人を少しだけ離れた場所から見詰めていた。…アイツの隣で輝くように笑うあの子の顔が、あの日と重なる。
アイツは良いヤツだ。絶対にあの子を幸せにしてくれる。そんなこと、友人である僕が一番分かっている。
だからこそ、今だけは鳴り響くこの鐘の音が憎たらしかった。あの子の隣を奪われた滑稽な僕を、神様が笑っているように思える。…だからどうか、この鐘の音が鳴り終えるまで、醜く嫉妬してしまう僕を赦してくれないか。
鐘の音が鳴り終えたその時、僕は神様に「それでも僕は二人が大好きなんだ、バカヤロー!」って言い返してやるんだからさ。
『つまらないことでも』
あの頃、セカイは僕のものだった。
欲しいものはちょっと駄々をこねれば買ってもらえたし、周りの大人は僕が何かすると皆してやたらめったら褒めてくれた。クラスの中心にいつもいる、お調子者の男の子。それがあの頃の僕だった。
あの頃毎日通った通学路。
周りを空と田んぼに囲まれて、その間を貫くように薄茶色の砂利道がどこまでも伸びている。カタカタ。僕のランドセルが鳴らす音以外、目立った音は聞こえない。そんな静かで何も無い道を、僕は毎日歩いていた。
毎日。毎日。同じ道を。
そんな登下校の時間が、僕にはどうも退屈でとってもつまらないものだった。だって、僕のセカイは毎日楽しいことで溢れているのに。この時間だけが何も無い。遠くに見える青々とした山も、雲一つ無い空も、もう見飽きてしまった。
「あ~あ。今すぐ隕石でも降ってこないかなぁ。」
そんなようなことを、毎日考えていた。
そして今、俺は世界の一部品として働く社会人になった。欲しいものが出来ても躊躇してしまって結局買わないし、上司に褒められることなんて滅多にない。居ても居なくても変わらない、ごくごく平凡な会社員。それが今の俺だった。
毎日乗り込む通勤電車。周りを冷たい鋼鉄と人に囲まれて、その間に体を縮こまらせるようにして立つ。ガタンゴトン。そこかしこから、音が聞こえる。そんな忙しない、冷たい毎日を俺は生きている。
あの頃の僕が見飽きたつまらない光景を、俺が最後に見たのはいつのことだっただろう。あの頃、セカイは僕のものだったはずなのに。もう久しく、青空なんて見ていない気がした。あの何も無い通学路が何だかどうしようもなく恋しくて、息が詰まる。
つまらないことでも、どうやら俺にとっては大事な思い出の一部だったらしい。狭い車窓から青空をのぞき見て、初めて気が付くのだった。