押し入れを漁ってたら、古いアルバムを見つけた。今時アルバムかよ……そう思いながらパラパラとページを捲る。
生まれたばかりの僕を嬉しそうに見守る家族。食べている僕、走っている僕、弟を抱き抱えている僕……
写真の中の自分は、みんな笑ってて幸せそうだ。辛かったことや、苦しかったことなんて知ったこっちゃないって感じで。子ども特有の、無邪気な全能感で思いっきり笑ってる。
いつからだろう、僕が笑わなくなったのは。そう思いながら、そっとアルバムを閉じた。部屋を見渡す。物が床に散らばり、机には食べさしのカップ麺。埃を被った本棚。この部屋で元気なのはパソコンだけだ。
どうしてこうなったんだろう。惨めさが部屋を満たしていく。写真の中の自分が瞼から離れない。何もかも忘れるために、僕はまたパソコンに向き直った。
『懐かしく思うこと』
初めはそんなつもりじゃなかった。言い訳っぽく聞こえるけど、本当にただ呑むだけ……少なくとも私はそうだった。いい人だとは思ってたけど、既婚者なのは知ってたし、別に好きだったわけでもない。だからそんなことはあまり考えず、誘われたのも仕事の話をするためだって……そう思ってた。
お酒で失敗しただけ。彼も所詮一時の気の迷い。ホテルを出てからそう言い聞かせた。身体に刻まれた彼の感触は無視した。既婚者なんて、これ以上関わらない方がいい。面倒に決まってる。
「今晩呑みませんか?」
数日後、彼から届いたメッセージ。最初は無視しようとした。気がつかないふりを。そうすれば、彼も諦めるだろうって。だけど……
「はい」
文面とは裏腹に、口からは重い溜め息が出た。
「何やってんだろ」
その夜ーー
「ねえ、よかったらまた……」
「だめです」
彼の顔を見ず、手を触りながらそう言った。私より随分大きくて、分厚い。全体的に小麦色に焼けているが薬指に一本、白い線が入っている。
「じゃあ、今日は何で?」
「多分……寂しかったんだと思います。最近仕事ばっかりだったから」
「俺でよければ、話聞くよ?」
下心の透けた、使い古された誘い文句。こんな陳腐なセリフを吐く人だったなんて、知らなかった。
「じゃあ、よかったらまた……呑みに誘ってくれますか?」
『愛言葉』
手、腹、顔。全身の痛みに意識が朦朧とする。街行く人々は、ふらつく僕に蔑みの目を向けてる。彼を除いて。
「だからやめとけって言ったよな?」
ボロボロの僕にそう言った。肩に手を回し、付き添ってくれてる。
「あいつら間違ってる」
「ああそうだ。お前が正しいよ」
面倒くさそうに、だけどどこか誇らしげに彼は答えた。
「で、やったのか?」
「ああ、かなりいいとこいったと思うよ」
「右フック?」
「強烈なのを」
「そりゃいい。あれきついからな。俺も半日起き上がれなかった」
気づけば、僕の家に着いていた。彼は僕をソファに寝かせ、保冷剤を投げる。
「ありがとう」
心外なことに、彼は酷く驚いていた。
「どうした? 頭に食らったのか?」
「平気だ。ちょっと、感謝したくなっただけで」
「……やっぱりおかしい。病院に行った方がいい」
「大丈夫だって。早く済ませてくれ」
「わかった」
彼はそう言って、僕の顔を縫い始めた。
『友達』
「ねえお願い……」
ドアの前で懇願する私を見ても、彼の決心は揺らがなかった。私の目を見て、ゆっくりと首を振る。
「そんな状態でいっても、殺されるだけよ。今は警察に任せて……」
「警察は買収された」
彼は静かに、淡々と言い放った。
「このままにはしておけない。誰かがやらないと」
「あなた怪我してるのよ? 立ってるだけでフラフラじゃない。スーツの下はミイラ男。目の青痣も引いてない。歩くのにも足を引きずってる……」
彼は私を優しく制した。
「わかってるはずだ。僕じゃなきゃだめなんだ」
「あなたが死んじゃう」
「みんな同じだ。このままじゃスナイダーさんみたいに遅かれ早かれ殺される。これ以上僕の街で奴の勝手を許すわけにはいかない!」
彼は珍しく声を荒げた。その怒気に一瞬身がすくんだ。街の犯罪者が彼を恐れる理由が、少しわかった気がした。
「お願いだから、そこを退いてくれ」
私は震えながらも唇を強く結んで、首を横に振った。
「いや」
彼の目はどことなく悲しそうだった。
「すまない」
それだけ言うと、彼は目にも止まらぬ勢いで窓から飛び降りた。慌てて下を覗くと、彼は都会の喧騒の中を跳び回り、闇に消えていった。
「だめ!」
私は夜空に向かって叫んだ。
「行かないで……」
その声を聞いてくれる人は、もういなかった。
『行かないで』
3日つづいた雨があがり、晴れ晴れとした空が広がっている。まだほんのり湿気を孕んだ空気が、朝の低音と混じって独特の雰囲気を演出している。
久しぶりの晴れの日に気分が高揚する。周りに人がいなければ、スキップし始めたかもしれない。
天を見上げ、深呼吸。肺が新鮮な空気で満たされる。
「今日も頑張るぞ」
足元の水たまりには、明るい青い空が広がっている。
『どこまでも続く青い空』