「ズボンのチャック開いてるよ」って伝えたい。
平日昼間、春の公園はのどかであたたかく、ブランコでは幼児がキャッキャして遊んでいる。
だからこそ彼に伝えたい。でも。
彼はまっすぐ私の目を見てこう言った。
「やっぱり俺たち、別れた方が良いと思う」
こんな別れ話の最中に言うのもなあ。
でも早く言わないと、恥ずかしい思いをするのは彼なんだし。こういう時は多少空気を読まない方が良いかもしれない。
「あの」
「分かってる。俺だって辛い。でもこれ以上好きになったら、どうしていいか分からなくて」
「あの、チャック」
「もう一度友達に戻らないか。それくらいの関係の方が、きっとうまくいく」
「チャック〜」
さりげないチャックをあげる動作をしてみるも、彼は話に夢中で気づかない。
今日は水玉柄だなあ。
まあ別れ話だからな。でも1ヶ月前もこんな話をして結局こうしてよりが戻ったんだから、たぶん大丈夫。
どこかでウグイスが楽しげに鳴いている。
【お題:伝えたい】
荷造りが終わり、がらんとした部屋に寝転ぶ。
思えばここに引っ越してきた日も、こうして何もない床で寝転がったっけ。
大学から徒歩15分の、静かな6畳のワンルーム。ちっぽけな部屋だけど、実家を出て一人暮らしを始めた私にとっては初めて手に入れた自分だけの城で。
初めて自分でご飯を炊いた日。炊飯器の蓋を開けた時の喜び。あの感動が忘れられず半年ぐらい料理にハマり、最終的にクックパッドでご飯からアイスクリームを作るレシピを見つけて試したら大失敗して、その後一週間くらい料理をやめたこと。
キッチン用のでかいゴミ箱を隣町のホームセンターへ買いに行き、買ったはいいもののどう持って帰ればいいか分からず担ぎ上げて電車に乗ったこと。
アパートの廊下に見事な蜘蛛の巣が張られ、朝露できらきらしたそれが美しくて壊すことができず、しゃがんで通り抜けたこと。
ここから出ていくんだなあ。
掃き出し窓の外の木が、風にそよいでいる。
この木ともお別れだ。
次はどんな子がここに住むんだろう。
【お題:この場所で】
音のない悲鳴が棘になって切りつけあって朝の通勤列車は透明な血があちこちで流れている。
そこにいたら身がもたないから、スマホの小さな画面に自我を逃避させる。巣穴に逃れて危機が去るのを待つネズミのように。
極彩色の車内広告ばかりが馬鹿騒ぎでぐるぐる画面が切り替わり、乗客の疲れた顔面に塗りたくられて知らぬ間に極彩色に洗脳されていく。
「もう無理です」と私が言ったら、医者はがくれたのは錠剤サイズの洗濯機。
「飲み込むと楽になるよ」
小指の爪サイズの白い家電の中でめちゃくちゃに水が渦巻いている。心の混乱を動力源に回るドラム式洗濯機。
駅のホームで耐えかねて飲み込んだら、なるほど透明な切り傷からは血が流れなくなって、ついでに自分の名前まで忘れちゃった!
【タイトル:透明な殺人事件】
【お題:誰もがみんな】
(※百合注意)
彼女の熱が唇に残っている。
「どう? チョコレートの味した?」
こちらを見つめる彼女の視線から逃れるように、私は顔を逸らす。唇からの熱が頬へ、鼻先へ、耳の先まで広がっていく。
外は今年初めての雪が降り始めている。
「なに、してんの」
やっと絞り出せた声は、びっくりするほど情けなくて。
「かわいい」
「やめて」
再び顔を近づけてくる彼女を押し除けようとする。
「誰か来ちゃうよ」
「来ないよ」
「なんで」
「みんな雪に夢中だから」
昼休み。北校舎隅の生徒会室。校庭の喧騒が遠く聞こえる。降りしきる雪が私たちから音を奪っていく。
「誰も見てないのに、いつまで生徒会長の顔してるの?」
「やめて、城山さん」
「香奈って呼んで。昔みたいに」
彼女が私の頬に触れる。触れた場所が痺れそうになる。
彼女の吐息は甘い香りがする。
【お題:Kiss】
自分の名前と引き換えに、彼女との思い出を忘れずにすむ薬、、
【お題:勿忘草(わすれなぐさ)】