確かに俺は一億円欲しいと言った。
だがそれは現実逃避ゆえの比喩であり、机にドカンと置かれた百科事典みたいな厚さの現物を見た時は言葉を失った。
「え、なにこれ」
「ちょっとね」
「いやいや、「ちょっとね」で済ませられるもんじゃないよ!? ていうか日本銀行ってテープ貼ってあるけど大丈夫なの!?」
「ショートケーキだってお店のロゴが入ったセロファンで包まれてるじゃない。それと同じだよ」
「同じじゃない!!」
引き合いに出されたショートケーキもびっくりだよ。
彼女は唇をとがらせて、
「ほしいって言ったのあんたじゃない」
「いや言ったけども!!」
実物を前にすると嬉しさよりも怖さが勝る。
「ほんとに大丈夫!? 最近話題の金塊をあっちで買ってこっちで売って儲けた金だったりしないの!? あと贈与税どうなるの!? 確定申告は青色赤色!? やり方分かんないんだけど!」
「まあまあ」
彼女は落ち着いた様子で日本銀行のテープを剥がし、透明なフィルムをはがしていく。新札の匂いってこんな感じなんだ。インクの匂いがプンプンする。
「半分こでいーい?」
「いや待てって……」
チャイムが鳴ったのはその時だった。続いてドンドンと玄関の戸を叩く音。ワンルームの部屋にその音が大きく響く。俺は思わずドアを見た。
「すいません、警察ですが」
ドスの効いた声。
「おい、これって……」
振り返ると、なんとそこに彼女はいなかった。
残されたのは机の上の札束で、綺麗に半分なくなっている。
開け放たれた窓でカーテンがそよぐ。いつの間にか窓の外へ出ていた彼女は、窓枠に手をかけて、顔の上半分だけこちらに向けていた。
「欲しいって言ったのはあんただからね。じゃ」
彼女がひらりと姿を消したのと、玄関の戸が乱暴に開けられたのはほぼ同時だった。
【お題:ないものねだり】
ここ数日晴天続きだというのに、彼が持っている傘はびしょ濡れだった。畳まれた傘の先から水滴が流れ落ち、玄関の乾いた三和土(たたき)に黒いしみを描く。
「いやあ、迷い込んじゃったみたいで」
「また行ったの? 近づくなって言ったじゃん」
「放っておけなくて」
ニャー、と鳴き声がした。
彼が左腕に抱えていた白い毛むくじゃらが動いた。
「とりあえず体拭きなよ、ずぶ濡れじゃん」
彼自身も、まるでどしゃ降りの中を駆けてきたように濡れていた。
彼の頭にタオルをかけてやると、彼は「ありがとう」と言って毛むくじゃらを包んだ。
「おのれを拭けって。あーもー」
結局もう一枚タオルを持ってきて彼にかけてやり、私が彼の頭を拭くことになる。
「今度は猫?」
「猫っぽいけど違うみたい。しっぽが6本あるし」
ほら、と彼が差し出したその毛むくじゃらは、確かにしっぽの数は多いし、しかも目が3つある。
「知らないよ、また上から注意されても。今度は減給じゃ済まないかも」
「見て見ぬふりはできないよ」
「心配してるんだよ。並行世界なんかウロウロしてたら、そのうち戻って来れなくなるよ」
「そしたら探しにきてよ」
「は? 巻き添えくらうの嫌なんだけど」
彼は私の方を見て微笑み、子供みたいなくしゃみをした。
【お題:ところにより雨】
耳掃除が気持ち良すぎてずっと綿棒を耳に突っ込んでズブズブしていたいがやりすぎると痛くなるのは分かっておりそろそろ終わりにしないといけないが耳の奥? なんか曲がり角みたいなところに水滴が溜まっているらしくせめてそこだけはとりたい、でもたぶんまっすぐな綿棒じゃ無理かも、胃カメラ用のチューブみたいに先っぽがくねくね曲がるやつ、と思ったけどあれを耳に入れるのは怖すぎるな、しかし人生だって綿棒みたいに真っ直ぐなだけじゃ届かないものもあるのだ、曲がってみたり捻れてみたりして初めて取れる汚れも、あー取れた気がしたけどなんかまだムズムズする、放っておけば蒸発するか、ていうかなんだこの耳の構造捻じ曲がりすぎだろ、その上まめに掃除する必要があるとか面倒すぎるだろ、だからこんな快感を得られるようにしたのか、耳掃除めんどくさくなって耳垢が詰まらないように耳掃除気持ちいい〜もっとしたい〜って感じに進化したのか、変なの、あああ時間が
【お題:夢が醒める前に】
クリームソーダから星が溢れる。人工着色料で彩られたメロン色の炭酸の泡がはじけて、グラスの上できらきら光る。
たった今ユウキくんから言われた言葉の意味を拾えず、私の気持ちはクリームソーダの水面の上で爆ぜていた。
「え、なんか、ないの」
ユウキくんのうわずった声。
「え?」
「え、ああ、いや、まあ」
ユウキくんはせわしなく視線を泳がす。クリームソーダ、テーブルの紙ナプキン、窓の外。明らかに私と目を合わせるのを避けている。ファミレスの中は暖かいのに、耳の先が真っ赤だ。
「えーと」
落ち着かない様子のユウキくんを見ていたら、なんだか私まで落ち着かなくなってしまって、赤いストローでグラスの中の氷をつついたりしてみる。グリーンの海に隠れていた炭酸の泡がしゅわしゅわ現れて、立ち上り、水面の泡は激しく爆ぜだす。
ユウキくんに言われた言葉が、じんわりと私の心の中に広がっていく。
「えーと、えーと」
顔が熱くなっていく。思わず手で頬をおおう。今まで考えたこともなかった点と点が繋がっていく。
そういえば、他の女の子と喋ってる時に比べて、私と喋っている時だけちょっと早口になっていたこと。
そういえば、図書委員会といい、文化祭で教室の飾り付けをする係になった時といい、なぜか一緒に組んでやるのが多かったこと。
そういうことだったのか。
全然気付かなかった。
なんだかやたらと視界に入ってくる人だなと思ってはいて、いやいや地味な私に限って、しかも彼に好かれているだなんて考えられないし、たぶん私の思い込みだと割り切って、今日も今日でお気に入りのメロンソーダが飲めるとほいほい喫茶店へ誘い込まれてしまったけれど。
メロンソーダの氷がカランと音を立てて、上に乗ったアイスがくるりと踊り、おしゃまに傾いた。
「あ、まあ、とりあえず」
ユウキくんはあらぬ方向を見たまま、手でメロンソーダを指し示す。
「い、いただきます」
とりあえず、食べよう。
食べ終わったら、私の気持ちもちゃんと言えるかな。
嬉しさでにやけそうになるのをこらえて、ほてった顔を冷ますように、私は溶けはじめたアイスを口に入れた。
【お題:星が溢れる】
「あなたのこと、もっと知りたいです!」
「放っといてくれ」
「やです」
路地裏の暗がりで、ボロボロのエアコンの室外機に座る陰気な俺に全く物怖じせず、ゆるふわガールはニコニコしながらこちらに近づいてくる。
長年ここにいて、俺に声をかけてきたやつは何人かいたが、こんな場違いなやつがきたのは初めてだ。
「知ってどうする」
「面白そうだから!」
満面の笑み。
「あなたのこと、なんでも良いから知りたいんです。好きなこと、嫌いなこと、得意なこと、苦手なこと。お父さんお母さんはどんな人だったのか。休みの日はどう過ごしていたのか。あと」
どうして自分から死んでおいて、こんな場所に縛られているのか。
「てめえ……っ!」
追い払うつもりで、塀に立てかけられていた鉄パイプを蹴飛ばす。
しかし彼女は笑みを崩さず、鉄パイプを片手でいとも簡単に受け止める。
「あはは、なんだか生きてる人間みたいですね」
彼女はその華奢な腕で、鉄パイプを勢いよくこちらに倒してきた。それは俺の体をすり抜け、塀や道にぶつかって甲高い音を立てて転がった。
「久々に、やりがいある人みたいで楽しそう」
ぺろりと出したその舌に、髑髏のピアスが光っていた。
【お題:もっと知りたい】