僕にはとてもうっかりしたところがある。
先日も、取引先に渡す見積もり書類の中に、うっかり僕のSNSのホーム画面のスクリーンショットを紛れ込ませてしまった。何がどうなったらそんな間違いが起こるのかはわからないが、とにかく僕にはとてもうっかりしたところがあるのだ。
取引先は見積もり内容に満足し、僕の会社に案件を発注してくれることになった。つまり、僕と取引先のひとはそれからも顔を合わせることになったわけだ。
いつもにこやかに微笑む彼の頭の中には、しかし確かに紛れ込ませてしまったアレの記憶が残っているはずである。僕の顔を見るたび、SNSアカウント『あやちゅ激推し@一生ファン太郎』のことが脳裏によぎっているに違いない。
そう思うと、僕の心はざわめく。ざわ……ざわ……。穴があったら入りたい気持ち。
名前をつけるとしたら、羞恥心ということになるだろうそれ。だけど、仕事なので逃げる場所はない。
近くのコンビニで、あるおばちゃんにレジをしてもらう時も、僕の心はざわめく。なぜかといえば、以前猫耳のカチューシャを頭に着けたままこのコンビニで買物をしてしまった時のレジ担当が、このおばちゃんだったからである。
おばちゃんがあんまりにも僕の頭を凝視するものだから、僕はやっと自分のうっかりに気付いた。猫耳カチューシャはあやちゅのファングッズで、時々こっそり家で着けているのだが、忘れてそのまま家を出てしまったのだ。
あれからというもの、僕にはおばちゃんの営業スマイルが、猫耳男を嘲笑する顔に見えている。別の店や、別のレジ担当を選んで買い物すればいいのだろうけれど、僕のマンションの近くにはコンビニはここしかないし、ここのレジは十回に八回くらいの確率でこのおばちゃんなのだ。ざわ……ざわ……。背中がぞわぞわして、顔が赤くなるのを感じながら。
それから、それから……。
髭剃り機の軌道をうっかり逸らして眉毛が半分無くなったまま出社した時、上司を間違って「お父さん」と呼んだ時、あやちゅのライブでペンライトと間違って発煙筒に点火してしまった時。
心はざわめき、胃が締め付けられ、僕は落ち込んだ。
そんなある日、僕は奇妙な男に出会った。変な髪型に変なスーツを着た男は、僕のマンションの部屋の前に直立不動で立っていた。
「わたくし、未来デパートからお客さまにとっておきの商品をご紹介いたしますため参りました。こちら、お望みのものを一つだけ、物質でも非物質でも何でも消失させることの出来る機械なのですが……」
男がアタッシュケースをガバっと開くと、そこにはホッチキスにしか見えないものがずらりと並んでいた。
「ただいま試供品をお配りしております。壊れた家具から核廃棄物、忘れられない失恋から呪われた風習まで、全てをきれいさっぱり消失してご覧にいれます。どうぞ一度お試し下さい、きっとお気に召していただけますから」
男はホッチキスを僕の手に押しつけると、いつの間にか幻みたいに消え失せていた。
なんとも怪しい話だ。けれど僕は冗談のつもりで、ホッチキスを握りながらこう願ってみた。この心のざわめきを消してほしいと。
それからというもの、僕の心はざわめかなくなった。左右の足にそれぞれ革靴とスニーカーを履いて出かけてしまった時も、会社の電話対応でどちら様ですかと言おうとして『何様ですか?』と言ってしまった時も、取引先へのプレゼンでスクリーンにあやちゅと猫耳の僕のツーショットチェキを表示させてしまった時も、僕の心はすこしもざわめかなかった。
そして今日、僕はコンビニに出かけ、警察を呼ばれそうになっている。どういうわけか、ズボンを履かずに出かけてしまったからである。Tシャツにパンツ一丁の男など、通報されて当然である。けれどそれでも、僕の心はけしてざわめくことはない。
そのとき、僕はふと思った。どうせ消すなら、僕のうっかりしたところを消せばよかったんじゃないかって。
うっかりしていた。
とにかく、僕にはとてもうっかりしたところがあるのだ。
4月は、うさぎの季節だ。
リノリウム張りの床の上をそろそろと歩く。何ひとつとして見落とさないように、注意深くあたりを見回しながら。
とはいえ、廊下に特別何があるというわけでもない。あるといったら、壁に備え付けられた『消火用散水栓』と書かれた鉄の赤い箱くらいだろうか。
まさかここにはないよな……いや、でも、アリサならやりかねない。そう思いながら、私は箱の扉をすこし開いてみる。その途端、廊下に鳴り響くけたたましい非常ベルの音。
即座に閉じるとピタリと止まったが、近くの教室から教師が顔を出して、呆れたような目で睨まれる。『常識的な振る舞いをなさい』と叱られ、私は従順に謝るふりをした――そんなことを言われても、アリサ自身があまり常識的でない以上、仕方ないではないか、と思いながら。
「一体どこにあるのよ。どこに隠したのよあいつ!」
「トイレのタンクまで探したんだけど!でも無い!」
「そもそも誰があいつを儀典委員になんかしたんだよ!命がけで止めろよ!」
「もう無理、リカが探してきて。もうリカにしかわかんないでしょ、こんなの」
うんざりした様子の同級生に囲まれ、詰めるみたいにそう言われた私は今、何度目かの捜索に出ている。何を探しているかと言えば――卵だ。穴を開けて、中身を抜いて、乾かして、それに絵の具で美しい模様をつけた、イースターの卵。残された卵は、もうあとたった一つしかないらしい。
新学年が始まってすぐの時期ではあるけれど、聖アウグクチヌス女学園で最も重要視されるのはイースターを祝うことだ。イースター――キリスト様が磔刑ののちに、復活された奇跡を祝う日。
なぜそのお祝いに卵が関係するのか、宗教の授業でシスターに説明されたけれど、細かいことは忘れてしまった。ちなみに、イースターにはうさぎも関係しているらしいけど、それが何故なのかも忘れた。
そしてこのイースターに合わせて、学園では重要なイベントが開かれる。それがこの『卵探し』。いわゆるエッグハントというやつ。
イースターのうさぎが学園中に隠した7つのイースターエッグを、生徒たちが全員で探すのだ。イースターに最も近い4月の金曜日の午後の時間をまるごと使って行われる大イベントであり、新入学生やクラス替え直後の生徒たちにとってはオリエンテーションのようなものでもある。これは基本的にクラス対抗で行われ、卵を発見できた7クラスにはご褒美として玩具入りのチョコエッグが振る舞われる。
けれどみながこんなにも卵探しに必死になるのは、けしてチョコレートが欲しいことだけが理由ではなかった。
卵を探して学園中をさまよいながら、私はアリサについて考える。アリサなら、卵をどこに隠すだろうかと。
儀典委員なんか世界の終わりと引き換えにしてもやりたがらなさそうなアリサが、新学年の始まりに自ら立候補した時点で何かおかしいと気付いておくべきだった。
ほかの6つの卵については、それぞれ別のクラスの入り口近くの廊下に、いかにも見つけてくださいとでも言わんばかりの様子で落っこちていたらしい。けれど7つ目がどうしても見つからない――それが見つからなければ、私たちのクラスはご褒美無しなのに。
イースターエッグを隠す役割は、儀典委員の誰かに任されることになっている。その誰かが、イースターのうさぎになるのだ。そしてアリサがうさぎになるらしいよということは、少し前からクラスの中でも噂になっていた。
「ねぇアリサ、どうせならこのクラスの近くに隠してよ」
「イヤ」
「そう言わないで。どうせクラス全員、運命共同体なんだからさ。クソ寒いヨハネス堂でロザリオの祈りをやりたいわけ?素直にどこに隠したか事前に教えといてよ」
「いやよ、言わない」
同級生たちに取り囲まれながら、小さな顔につれない仏頂面を浮かべて、かたくなに意地の悪い態度を貫いていたアリサの姿が思い出される。
儀典委員たちは、エッグハントの勝者に密かにチョコレート以外のご褒美を用意している。それは、聖母月の5月に行われる儀式であるロザリオの祈りを、第一聖堂でなく第二聖堂で行えるという権利だ。
ロザリオの祈りとは、長椅子の前に跪いて、ロザリオの紐のビーズを一つ一つ触りながら、聖母の祈りの文言を繰り返し唱えるというもの。これを30分間ぶっ続けで、しかも5月の間は朝と夕方の2回やり続ける。
この学園はミッションスクールではあるものの、生徒は9割以上がクリスチャンではない。だから私たちはその祈りにほとんど意味も価値も感じないまま、ただそうしろと強いられているからと文言を繰り返す。
つまりほとんど面倒臭さしかないような儀式なわけだたが、さらなる問題はこの学園の第一聖堂、通称ヨハネス堂には暖房設備がないことだった。
ヨハネス堂は地域の重要文化財に指定されているほど歴史ある美しい建物だが、石造りで日当たりが酷く悪いので冷気がこもりやすく、5月ですら真冬の屋外みたいに寒い。そこで朝夕30分、冷たい床に膝を付けたまま過ごすのは、ほとんど拷問みたいなものなのである。ちなみに第二聖堂は校舎の一角にある教室を改装した部屋なので、そのような問題は一切ない。
もうどこもかしこも、探していない場所なんてないだろうと思いながら、私は下駄箱の一つ一つを覗き込み、それから校庭に出た。校庭でも大勢の生徒たちが生け垣の中やら花壇の中やら排水口の中やら必死になって探し回っている――それだけ、みんなヨハネス堂でのロザリオの祈りが嫌なのだ。
この学園に、それが嫌いじゃない人なんか恐らくいない。正直に言えば、クリスチャンの生徒たちですら面倒臭いと寒いしか言っているところを見たことがない――そこまで考えて、私はふとあることを思い出した。そして、校舎の隣にあるヨハネス堂に足を向ける。
ヨハネス堂は校舎と独立して建っている建物であり、こじんまりとはしているがそれ単体で教会として成立している。それほど高さはないが鐘楼もあり、そこから鐘が鳴らせる。
私は鐘楼に目をやり――その窓から、ふわふわとした白く長いものが二本並んでちらちらと見えるのに気が付いた。エッグハントが始まってからというもの姿を見かけなかったけれど、こんなところにいたとは。
「ふふ、権力って最高ね」
アリサが、かわいい顔をして悪徳政治家みたいに呟く。
鐘楼を登ると、そこには当然のようにアリサがいた。頭に被っている、白くてふわふわした、うさぎの耳のついた被り物が、少し狼狽えるほどによく似合っている。窓から身を乗り出し、外界で今も必死に卵を探すセーラー服の少女たちを見つめる彼女は、実に楽しげだ。
ヨハネス堂でのロザリオの祈りは、私もアリサももう何度か経験がある。そしてなぜか、アリサはいつも祈りの間はどこかへ消えてしまう。第二聖堂であれば隣にいるのに。てっきりサボっているのだろうと思っていたけれど、実は――。
「なるほど、祈りを聞きたかったんだね」
「そう。リカなら、見つけられるだろうって思ってたわ」
そう言うアリサの白く美しい手には、最後の一つの卵が乗せられている。艷やかなエメラルドグリーンに、白い線でレースのような繊細な模様が描かれた、とてもきれいな卵だ。
ロザリオの祈りの最中、姿を消すアリサの行方が気になった私は、彼女をしつこく探したことがある。屋上や、教室や、保健室や――サボるのに最適と思われる場所のどこにも、この美しい鳶色の瞳と栗毛の少女の姿はなかった。そして最後に私は、この鐘楼に登る階段の途中で彼女を見つけた。
アリサはどこからか持ち込んだらしい暖かそうな毛布に身を包んだまま、なにかに耳を澄ませるようにしてじっとしていた。白い壁に身体を寄りかからせ、長い睫毛を伏せて目を閉じた彼女は――祭壇の神の子の像を彷彿させるくらい、静かで、厳かで、美しい。
私はしばらく息を飲んで、彼女を見つめた。しかしやがて、そこにいるのが神の像でなく単なる扱いの難しい女の子であることを思い出して、何をしているの、と聞いた。
すると、アリサはとたんにただのひとの少女らしくなって、煩わしそうに眉を寄せ「しずかにして」と怒る。
「……お祈りを聞いているの。ここからだと、すごくきれいに響いて聞こえるから……もしかしたら、願いが何もかも叶うんじゃないかって、気持ちになれるの」
カトリックの聖堂は、大抵よく音が反響するように設計される。それは音響機器が無かった時代の知恵でもあるし、おそらく荘厳に反響する祈りの言葉や聖歌の美しさが、人に神の存在を信じさせる助けになるからでもある。ヨハネス堂にはその機能があるが、第二聖堂には無い。
アリサは洗礼を受けているんだっけ、と私が聞くと、アリサはどうでもよさそうに『神様なんか信じてないわ』と言った。聞き分けのない子どもを叱るみたいに、そういうことじゃないのよ、と。
アリサの遠大な計画に、私はすこし感心していた。
けれど、成すすべもなくそれに巻き込まれるしか無いクラスメイトたちを気の毒には思う。教室に帰ったら、卵を見つけられなかったことを彼女たちに詰められるだろうな、とも。
しかし満足げなうさぎのアリサを見ていると、まあいいかという気にもなる。
「これはね、誰にも見つかっちゃいけない卵なのよね」
そう言って、アリサは私が見る前でその手の中の卵を握りつぶしてしまった。エメラルドの卵はバラバラの細かい欠片になり、アリサが窓の外へ手をかざすと風に乗って、散り散りになっていく。
まるで宝石を、少女たちに降らせるみたいに。
透明なゆびさき
もう何もつかめないこの手が たしかに握るもの
それは春の陽射し
君と釣りの帰りに 川に落ちたとき見た太陽
夏のソーダのきらめきも
君に騙されて 拭きこぼした滴
遠い校庭で 笑う君の高い声
何年かあとには おとなの声になってしまった
駆け出していく君の影が遠ざかる
それを踏めなくならないように 懸命に追いかける僕
通り過ぎた全てのことを握りしめている
今と未来の先に起こることは もうつかめない
けれど 多分 君の心は握りしめている
透明なゆびさき
たぶんそれは とても冷たいだろう
ときおり 泣いている君を見かける
僕のせいじゃないかと思う 指が冷たいから
君の心を出来れば手放したい
でもやり方がわからない
君の心は今と未来の前にある
僕のために
僕が君を つかめなくなるために
ただ 忘れてほしいと願う
君が今と未来の先に行くために
自転車の乗り方
軌道を外れてガラスを割るボール
二つに割って食べるアイスキャンディ
季節外れの線香花火
僕はもう十分すぎるほど
握りしめているから
24回目のお葬式は、特別盛大にやることにした。
会場は二千人規模の大宴会場。祭壇には肉体年齢23歳のあたしの一番盛れているでっかい写真を掲げて、その周りを千本の白いバラで飾る。
会場にはスクリーンとプロジェクターも用意されている。そこに、感傷的な映像を流すのた。
映像は仲睦まじく暮らす彼とあたしの姿から始まる。しかしほんのささいなすれ違いから、次第に距離を置き、お互いに他の人に惹かれ始める。
そこから切り替わって病院のシーンへ。医者が重々しく『もう手遅れです、余命半年ですね』と告げ、あたしは顔を覆って静かに泣く。一方、またもシーンが切り替わり、夜景がきれいなバーのカウンターで一人水割りを飲む彼の姿。彼は『あいつを失うことになるなんて……俺には耐えられない』と顔を歪め、肩を震わせる。
そこで映像は終わり。スクリーンが取り払われると、祭壇の前にはスポットライトに照らされた彼とあたしがいる。死に装束としての純白のドレスを着たあたしと、喪服としての黒いタキシードを着た彼は向かい合い、熱く見つめ合う。
「本当は、あなたを一番愛してる!生まれ変わっても、また結婚しようねっ!」
マイクを握りしめ、涙声で絶叫するあたし。すると彼は感極まったようにあたしを抱きしめ、『俺も愛してる!』と叫ぶ。ここが一番盛り上がるはずのところで、実際参列客の多くが涙を堪えられなかったみたいだ。そもそもわざわざあたしのお葬式に出るような人たちは、そういうのが好きなのだ。
葬儀は盛況のうちに終わった。死に装束のまま、あたしは香典の札束を数える。
成績は上々、なかなかの売り上げだった。もろもろの用意でそれなりの費用はかかったけど、費用対効果を考えればまずまずの高コスパ。彼とあたしのダブル不倫が世間にバレた時にはもういよいよ終わったなと思ったけれど、今日のお葬式でうまく挽回出来たんじゃないかと思う。実際ネットの反応もチェックした感じ、なかなか好感触だ。
「そういえばさ、分裂室にはいつ入るんだっけ?」
「ん?このあとすぐだけど?」
「マジで?今夜、肉でも食いに行こうかと思ってたんだけど。お前、しばらく喃語に四足歩行で固形物も食えない暮らしだろ」
「あぁ、いいよ気使わなくて。あの子と一緒に行ったら?今日も来てたし。そういえばさ、あの子がこないだくれたサブレ、美味しかったって伝えておいてくれる?さすがにあたしの好み、よくわかってるよねー」
「だろ?あいつ、おれのファンである前にお前のファンだから。わかった、言っとく。喜ぶわ、あいつ」
そういって、彼はあたしの前で堂々と他の女に連絡を取り始める。けれどその姿に、あたしの心はみじんも波立つことはない。
あたしは今26歳。肉体年齢26歳での分裂は相場に比べれば大分早めだ。分裂の平均年齢は、たしか46.3歳だっけ。
24回目のあたしが分裂を早めなくてはならなくなった理由は、内臓に悪性の腫瘍が見つかったからだった。手術をしても予後は良くないだろうということで、医者に早期の分裂を進められた。面倒くさいなぁと思いながら、ふとあたしはこれはまたとないチャンスであると気が付いた。これを利用して、あたしと彼の汚名を返上するのだ。
はるか昔、あたしは彼と大恋愛をした。彼はあたしの一族にとって仇にあたる血筋の息子で、あたしたちの恋愛は周囲の誰しもに激しく反対された。
けれどあたしたちは秘密裏に逢瀬を重ね、突然襲い来る刺客やちょっかいを出してくる当て馬にも惑わされず、とても長い時間をかけてついに無事に結ばれた。その顛末だけで一本映画が撮れるくらい、それは素晴らしく感動的な恋だった。
そのあたしたちの恋の物語が世間に知られるようになったのは、4回目のこと。2回目も、3回目も、4回目も彼と夫婦を続けていたあたしは、不意に思いついて昔のその恋を本に書いてみた。そうしたら、それがおそろしく売れてしまったのだ。
繰り返し分裂する人間たちは、そもそも同じ相手と1回以上夫婦生活を繰り返す事自体が珍しい。4回目までずっと添い遂げているあたしたちは、いつしか『永遠の愛』の証だと言われるようになっていた。
あたしたちを題材にした映画が実際作られ、ドラマ化もされ、あたしたちは有名トーク番組にゲストとして呼ばれたり、CMに出たりするようになった。
仲睦まじく振る舞えば振る舞うほど、世間はそれを『永遠の愛』の証だと持ち上げる。
いつの頃からだったか、今となってはもうあまり覚えていない。けれどいつの間にか、彼もあたしも、その期待に応えるためだけに一緒にいるようになっていた。
なんでかって、儲かるからだ。今や、あたしたちの恋も結婚も、何もかもがものすごく儲かるのだ。
そしてついに、この24回目に事件は起こってしまった。彼とあたしのダブル不倫が、週刊誌にすっぱ抜かれたのである。とはいえ、実は随分前から――確か7回目くらいの頃から――あたしたちにはそれぞれ他にパートナーがいた。
自分で言ってはなんだけど、あたしは美女だし、彼も美男だ。あたしたちは、それはもう、とてつもなくモテるのである。チャンスは掃いて捨てるほど存在するのに、何百年も一人の男や女にしがみついていろというのは無理がある。
あたしと彼は今でもそこそこ仲良しだし、愛しているかいないかといえばまあまあ愛していると思う。その愛は、家族愛とか、人類愛に近いものではあるけれど。あの魂まで灼き尽くされるような激しい恋心は、残念ながらもはやどこにも見当たらない。
不倫がバレたあと、世間は『永遠の愛』が期待を裏切ったとあたしたちを袋叩きにした。叩かれるだけならまだ良かったのだけれど、規約違反を犯したという理由でCM契約を破棄され、多額の賠償金を背負うことにもなってしまったのは痛かった。
なんとかそれを返済しないといけない。それに、分裂にはなにかとお金がかかる。分裂後は乳児の姿からやり直すことになるので、ベビーシッターも雇わなくてはならないし。けれど幸い今日の香典で、その全てを十分まかなえそうだ。
二千年くらい前までは、人間は分裂出来なかったらしい。有性生殖という方法によって、女が腹の中で人体を製造する仕組みだったのだとか。かつその人体はけして複製されたものではなく、人の命はその肉体の活動限界によって永遠に終わるものだったという。お葬式という習慣は、その時代の名残らしい。
しかし人間は永遠を手に入れた。そして同時に、あらゆる『永遠』を証明する機会も得た。
例えば『永遠の愛』もその一つ。結果人間は、『永遠の愛』の実在可能性が相当に低いということに気づいてしまった。永遠の命は簡単で軽いものだが、永遠の愛は厳格で重いのである。『永遠の愛』は、とても価値がある。
つまり、儲かるのだ。お金になる。
だからあたしたちは、これからも夫婦であり続けると思う。1回目の純情なあたしたちの恋心を、踏みにじり続けているような気もしないでもないけれど。
「じゃあおれの25回目は、お前をある程度育児してからはじめることにするわ」
「うん、少し年は離れちゃうけど、それもまた『永遠の愛』っぽいよね。育児、表面的にやってるふりだけしてあとはベビーシッターに投げちゃっていいからね。ベビーシッター、もう契約してあるし」
「おお、助かるわ。じゃあ分裂、頑張ってな」
「うん、ありがと。じゃあ分裂後にねー」
愛しい女のもとに行く彼に笑って手を振りながら、ふとあたしは思う――もし1回目で終わることが出来ていたなら、あたしたちはもっと、美しい物語になれていたんじゃないかなって。
分裂前は、感傷的になって良くない。大脳が複製の準備を始め、自己実在性にゆらぎがうまれることが原因らしい。
やれやれと思いながら、あたしは分裂室に行くためのタクシーを呼ぶ。24回目を終え、25回目を始めるために。
ゴンベエ・ナナシノは宇宙人である。
彼の故郷は地球からだいたい150光年ほどの距離にある、Mel25ヒアデス星団おうし座ε星の周りを公転する巨大な惑星である。そこに暮らす人々はみな寛容で、お互いへの思いやりに溢れ、少しの諍いや困難もなく誰もが幸福に暮らしている。
しかし彼は母星で奇妙な病にかかってしまった。一度覚えたことを『忘れる』という機能を失ってしまったのである。ゴンベエ・ナナシノは日々の天気と気温から食事の献立から買い物リストまで、家を出てから何歩歩き、何度道を右折したか、一体どこの誰とすれ違い、誰と何を話して何をしたか、何もかもを忘れられなくなってしまったのだ。
これは便利であると同時になかなかに辛い症状であり、ついにゴンベエ・ナナシノは発狂寸前になった。そしてそんな彼の身体を案じて、母星の人々は彼に地球移住を勧めた。ゴンベエ・ナナシノのような症状には、地球で暮らすことが一番よく効くらしいのである。
そのようなわけで宇宙船に乗り込んだゴンベエ・ナナシノは、はるばる地球にやってきた。ちなみに、着陸するやいなや宇宙船はバラバラに壊れてしまったので、今のところ帰る手段はない。
「えっ、えっ……ブルース・リー!?」
ゴンベエ・ナナシノの姿を初めて見た地球人は、全員なぜかこのような反応をする。ブルース・リーとは、どうやら何らかの固有名詞であるらしい。しかもそれは非常に著名な存在であるらしく、ゴンベエ・ナナシノを前にすると地球人はみなが極度の混乱や興奮を示す。そして「違います、宇宙人です」と訂正すると、その反応は警戒と困惑に変化する。
ゴンベエ・ナナシノが初めて地球に降り立ったとき、その土地ではなにかとてつもなく酷い災害が起きた直後のようだった。辺り一面が瓦礫の山であり、多くの人が家を失い、また大切な人を亡くし、あるいはその行方を捜し続けていた。そして彼らは、あまり住環境が良いとは言えない大型の施設に、一時的に身を寄せ合って暮らしていた。
「あっ、えっ、宇宙人……?で、名前はゴンベエ・ナナシノ?そ、そう……。あの、大丈夫?怪我とかはないの?……ああ、そりゃ良かった。なら、とにかくあそこの区画にいていいから、ね。困ったことがあったら言うんだよ」
ひとまず地球人の密集している地点に行こうと思ってその施設を訪ねたゴンベエ・ナナシノに、入り口近くにいた中年の地球人男性はそう言った。詳しい状況は理解不能だが、施設に滞在することを許されたらしい。
地球における生活の基盤を持たないゴンベエ・ナナシノにとっては、それは大変にありがたいことだった。完全に狂ってしまう前に、腰を落ち着けて奇妙な病を治す方法を探す必要があると感じていたからだ。
そのようなわけで、ゴンベエ・ナナシノは広々とした板敷きの部屋の、背の低いパーテーションで区切られたささやかな空間で生活を送るようになった。
しかしそこで数週間を過ごしても、ゴンベエ・ナナシノはこれといった手がかりを見つけることは出来なかった。次第に地球人たちの中で『ブルース・リーに激似の自称宇宙人の自称ゴンベエ・ナナシノ』として有名になりつつはあったものの、だからこそ皆に妙に距離を置かれているように感じられ、聞き込みをしようにもままならなかったからである。しかもそこにいるのは、あまりに理不尽な不幸に見舞われたばかりの人たちだったから、誰しもがどこかで心の扉を閉じているように見えた。
そしてその間もゴンベエ・ナナシノの脳内では着々と記憶が積み上がり続けて、もはや頭が破裂しそうであった。
「ねぇ、あなた、宇宙人なんだっけ?」
地球人を怖がらせないように板敷きの床の上でじっと膝を抱えて座っていたら、ふいにそう声をかけられた。顔を上げてみれば、酷く疲れた様子の若い女性が何かを片手に立っている。
「はい、そうです、宇宙人です。地球で言うところの、Mel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星から来ました」
「…………そっか。あのさあ、この人のこと、どこかで見たこと無い?」
女性はゴンベエ・ナナシノに携帯型情報端末を見せた。電話以外にも多くの機能が搭載された小型の電子機器であるが、なぜか地球人はそれを携帯電話と呼ぶ。そのディスプレイには、ビールジョッキを片手に赤ら顔で笑う男性の姿が表示されていた。
それを見て、ゴンベエ・ナナシノは驚愕した。彼を見たことがあったからだ――それも、ゴンベエ・ナナシノの母星で。けして忘却されることのない無傷の記憶力によって、ゴンベエ・ナナシノは男の全てを覚えていた。
「ヨシムラ・ケンジ氏ですね。私の母星でパン屋を営まれている方です。七丁目の交差点の角にあるパン屋で、クリームパンが人気商品です。ヨシムラ氏は大変美味しいパンを作られます。陽気な人柄の方で、趣味は風景写真を撮ることです」
「えっ……?は?えっ……?」
ゴンベエ・ナナシノの言葉に、女性は酷く困惑した様子を見せた。それだけでなくどこか怒っているようでもあり、ゴンベエ・ナナシノを非難するように「あなた、夫の名前、どこで知ったんですか?どこかで会ったんですか?」と聞いてくる。ゴンベエ・ナナシノは包み隠さず知っていることを話した、彼の母星のヨシムラ・ケンジ氏がどのような人物であり、一体どのように幸福に暮らしているか。
女性はずっと怯えたような顔でそれを聞いていて、やがて何も言わずにゴンベエ・ナナシノの前から立ち去ってしまった。しかしその数日後、再びゴンベエ・ナナシノのところにやってきて、思い詰めたような顔でこう聞いてきた。
「……あなた、どうして夫の夢がいつかパン屋を開くことだったって知ってるの?夫は……その、あなたの星のヨシムラケンジさんは……元気なんですか?」
ゴンベエ・ナナシノは再び、追加の情報も付け加えて女性にヨシムラ・ケンジ氏の話をした。女性はゴンベエ・ナナシノの隣で膝を抱え、時々涙を流しながら、黙ってそれを聞いていた。
そしてやがてゴンベエ・ナナシノが、彼の知るヨシムラ・ケンジ氏の全てについて女性に語り終えたとき、彼は気が付いた。彼の記憶のうちいくらか、特に何十年分かの朝食の献立やその味や食感についてを、彼は綺麗さっぱり忘れることが出来ていたのだ。
「なるほど、ゴンベエさんは、病気を治すために地球に来たわけなのね」
ヨシムラ・ケンジ氏の全てを話してからというもの、女性はゴンベエ・ナナシノに友好的な態度を示してくれるようになった。
彼女の名前はアヤノ氏と言う。ゴンベエ・ナナシノが自身の身の上を打ち明け、そしてアヤノ氏に出会ったことで病を治すための手がかりをつかんだかもしれないと伝えると、アヤノ氏はゴンベエ・ナナシノを施設の一角に連れて行った。
そこには、人名がづらづらと書き連ねられた紙や、たくさんの顔写真や、誰かの住所と氏名や、個人的なメッセージとおぼしきものが壁一面に貼られていた。アヤノ氏はそのうちの顔写真を指差して、「この人たちに、見覚えあるんじゃない?」と聞いてくる。
ゴンベエ・ナナシノは、写真を見て驚愕した。その全てが、彼の母星で見たことのある人たちだったからだ。よく見てみると、写真だけではなく、紙に書かれた氏名のうちにも見覚えのあるものがあった。その中にはゴンベエ・ナナシノが直接関わったことのある人も、そうでない人もいたが、しかしゴンベエ・ナナシノはその彼らの細かい生活状況や人柄などについて全部を記憶していた。なにしろ、彼は何一つとして忘れることの出来ない病なのだ。
「私に話してくれたみたいに、この人たちの話、この人たちの大切な人に話してあげたら。そうしたら、また病気が良くなるかも」
アヤノ氏のアドバイスに、ゴンベエ・ナナシノはその通りかもしれないと感じた。だから彼はそこに写真や人名を貼り出した人を一人一人探して、彼らにその人の話をした。彼らが母星で、今どのような生活を送っているか。
彼らの反応は様々だった。大抵は、かつてのアヤノ氏と同じく、最初は戸惑うし怒りもする。そんなふざけた話は聞きたくないと、ペットボトルの水を浴びせかけてきた人もいた。けれど彼らのうちのいくらかは、時間が経つとこれもまたかつてのアヤノ氏と同じく、母星に暮らす人々の話をまた聞きたがった。特に、彼らがちゃんと元気で、幸せにやっているのかと、みなそれを知りたがっていた。
ゴンベエ・ナナシノの母星に暮らす人たちは、一人残らずみなが健康で、幸福である。ゴンベエ・ナナシノの星ではそれは当たり前のことだったので、彼は地球に来てからというもの、地球の環境が随分と過酷であることに酷く驚いていた。
「とても幸福そうにされていました。それにお元気ですよ。私の母星で開催される、地球で言うところの市民マラソン大会に出場されたこともあります」
ゴンベエ・ナナシノが高齢の地球人男性にそう告げると、男性はそうかい、足も良くなったんだね、よかったねぇと目に涙をいっぱいに溜めて言った。男性の弟と同じ顔と名前をしたその人物は、今ゴンベエ・ナナシノの母星で絵描きとして暮らしている。その彼の物語を余さず聞き終えると、男性はどこか気持ちが軽くなったような様子で微笑み、そしてゴンベエ・ナナシノの頭の中もまた少し軽くなった。母星に存在する歌曲のうち、特にゴンベエ・ナナシノが覚えている必要がないと感じるもの全てを、忘れることが出来たからだった。
「あっ、ブルース・リーだ!おいブルース・リー、ヌンチャク振れよ!」
真新しく建てられた建物ばかりの商店街で、ゴンベエ・ナナシノはカフェの店先を掃いていた。すると元気な駆け足で通りががった半ズボンの小学生が、いささか攻撃的な様子でそう話しかけてくる。
「ごめんねぇ、この人見た目はこんなんのくせに、めちゃくちゃ弱いしヌンチャクも振れないのよ」
「はい、申し訳ありません」
「えっそうなの?つまんねー。でもさ、宇宙人なんでしょ?ビームとか出せないの?」
「出せません、すみません」
あれから、数年が過ぎていた。人々はもう住環境の良くない大型の施設には暮らしておらず、それぞれが遠くへ引っ越したり、家を建てたり、以前よりは住環境のマシな急ごしらえの集合住宅に暮らしている。
ゴンベエ・ナナシノはと言えば、アヤノ氏が商店街に開いたカフェに居候をさせてもらっていた。
ゴンベエ・ナナシノは、あれから何百人もの人に母星に暮らす人たちの話をした。そのたびに彼は順調に不必要な記憶を忘却していったが、しかしまだ、病は完治したとは言えない。
「ふーん、まあいいよ。ブルース・リーのお陰でうちのじいちゃん元気になったし」
「それは良かったです。ちなみに、私の名前はゴンベエ・ナナシノです」
「そうだよ、だからゴンちゃんって呼びな」
アヤノ氏がそう言うと、小学生はダセェ名前ー!と叫びながら通り過ぎていった。
居候をさせてもらっている代わりに、ゴンベエ・ナナシノはアヤノ氏のカフェで手伝いのようなことをしている。店先を掃いたり、お客にコーヒーを運んだり、ごく簡単なことだけだが。けれどそのおかげカフェは繁盛しているのだと、アヤノ氏はいつも感謝してくれている。なんでも、アヤノ氏のカフェは宇宙人の働くカフェであると、知る人には知られているらしい。
ゴンベエ・ナナシノから、母星に暮らす人の話を聞きたがっている人は、今では大勢いる。ゴンベエ・ナナシノが訪ねていかなくても、いつしか彼らの方からカフェを訪ねてきてくれるようになった。彼らは紙の写真や、あるいは携帯型情報端末のディスプレイに表示された人物の姿をゴンベエ・ナナシノに見せては、この人は今どうしていますか、と聞いてくる。
「お子さんが二人いらして、女の子の双子さんです。いつもお母さんがお手製のお揃いの洋服を着せて、家族で公園を散歩されるのがお好きなようです。とてもかわいらしいお子さんたちで、公園にいるリスが大好きです」
ゴンベエ・ナナシノが中年の女性にそう告げると、女性はコーヒーカップを両手でぎゅっと握りしめながら、そう、そうなの。あの子ももう今ごろは子どもを産むような歳だもんね、そうよね。と呟いた。
この場所に暮らす人々をかつて襲った理不尽な悲劇について、そしてそれがもたらした苦しみについて、近頃ゴンベエ・ナナシノは、以前よりはよく想像できるようになった。かつて、膨大な記憶に脳内を埋め尽くされていた頃は、ゴンベエ・ナナシノはただそれを反芻することにばかり忙しくて、彼自身の感情すら上手く感じ取る余裕も失ってしまっていたのだ。
けれど地球でいくらか頭が軽くなって、ゴンベエ・ナナシノは感情を取り戻した。今では、母星で暮らす人たちの話を聞きたがる彼らの軋むような心の痛みが、ゴンベエ・ナナシノにもよくわかる。時々、ゴンベエ・ナナシノは、彼らとともに泣いてしまうようになった。
「ねえ、手紙か何か送れないのかしら。たった一言だけでもいいの、伝えられないのかしら」
女性にそう聞かれて、ゴンベエ・ナナシノは申し訳ない気持ちで答える。Mel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星はとてつもなく遠いところにあるし、今では宇宙船も壊れてしまった。だからその方法はない、と。
「……そう。でも、元気ならいいわ。元気で、幸せにしているなら、それでいい」
女性はそう言って帰っていった。母星の路面に敷かれていた敷石の形状と数について忘れながら、ゴンベエ・ナナシノは、女性の幸福を祈る。
冬の夜、ゴンベエ・ナナシノはアヤノ氏ととともに街の高台にある展望台に登る。おうし座は、日本の空からは冬の間しか見えない。そしてそのおうし座を構成する細々とした星群のどこかに、ゴンベエ・ナナシノの母星であるMel25ヒアデス星団おうし座ε星を周回する惑星はある。
とはいっても、ゴンベエ・ナナシノの母星は地球から見てあまり明るくはない。超高倍率の天体望遠鏡を使ってやっと見えるかどうかというレベルの話で、つまり肉眼で空を見上げたところでその姿が見えるものでもない。けれどそれでもアヤノ氏は、おうし座のヒアデス星団のあたりを見つめる。ヒアデス星団についてはアルデバランのすぐ隣にあるので、案外わかりやすい。
ゴンベエ・ナナシノの方はといえば、下界に煌めく夜景の方に目がいっていた。今では立派な街と呼べるものが存在するが、ゴンベエ・ナナシノが地球に降り立った頃には、そこは荒漠たる瓦礫の山だった。ゴンベエ・ナナシノが記憶を忘れることに懸命になっているうちに、いつの間にか様々な人が、様々なものを取り戻したのだと感じる。
「もう、全て元通りになったのでしょうか」
ぼんやりと、ゴンベエ・ナナシノは呟いた。彼の母星ではそうだからだ。そもそもあまり酷いことは何も起こらない場所だが、仮に起こったとしても、いずれ全ては何事もなかったかのように元通りになる。
「……ふふ、ならないわよ。何にも元通りになんか」
アヤノ氏はちらりとゴンベエ・ナナシノのほうをみて、呆れたように答えた。それからまた空を見つめ、一点を直視する。まるでしっかりと、その星の像を捉えているかのように。
それから、遠くの誰かに伝えるように呟いた。
「何も元通りにはならないし、何もかも変わっていく。けどね、それでも……生きていこうとすることが、一番大事なんだと思うわ」