はろ

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4/1/2025, 8:27:46 AM

 この街の冬はとても長い。

 十一月の末から雪がちらつき始めて、十二月の中頃には辺り一面真っ白になるほどに降り積もる。そしてその雪が少しも嵩を減らさないほどに、気温もぐんぐん冷え込んでいく。
 一月、二月にも積雪量は増え続け、冬の間は街中が除雪作業に追われることになる。三月になるとやっと寒さもゆるみ始め、雪も溶けていくが、それでも四月の半ば辺りまでは冬の名残りのようなものが執念深く居座り続ける。草木が芽吹き、いよいよ春だなと思える気候になるのは、せいぜい四月の末か五月の頭頃の話だ。
 すべてのものがしんと死に絶え、氷の中で身を縮こまらせながら、春になれば溶けるはずのものを必死に搔いて捨てるという不毛な労働に囚われる季節。
 俺は、そんなこの季節と、この街が嫌いだった。

「あたしはこの季節がいちばん好きだな」

 冬の終わり。三月の残雪の雪原を、寒々しくも素足に履いた下駄で駆け回りながら雪子は言う。
 俺は早く家に入りたいなあと思いながら、呆れたようにため息をついた。まるで春や夏や秋のことをよく知っているかのような口ぶりだったので。

「好きも何も冬しか知らないだろうが」
「えー、そんなこと言う?確かに知らないけどさぁ、絶対今が一番いいって」

 クスクスと笑いながら、雪子は素手で握った雪玉を投げつけてくる。白い着物をひらひらさせながら。不意の攻撃を避けられなかった俺の右頬のあたりにそれはぶち当たり、雪子はそれを見てさらに笑い始めた。
 雪子は雪合戦が得意だ。そして、この時期の溶けかけの雪で作った雪玉は硬くて痛い。だから出来れば張り合いたくはないけれど、腹が立ったので、俺も雪玉を握ると彼女に投げつけた。

「冬にだって色々あるんだもん。冬の始まりも好きだけど、冬の終わりも好き」

 俺が投げた雪玉をひらりと避けながら、雪子はさらに言う。そしてまた、雪玉を握って投げてくる。
 笑っているけど不機嫌なのが伝わってくる。俺がさっき、今年の豪雪に嫌気が差して『早く冬が終わらねぇかなぁ』と呟いたのが気に食わなかったのかもしれない。
 雪子が不機嫌になったら、この晩冬に大雪が降ってしまうかもしれない。そう思って、俺は早めに白旗を揚げた。

「悪かったよ、冬が早く終わってほしいなんて言って」

 謝る俺に、雪子は目を丸くして驚いたような顔をする。それから先ほどとは種類の違うにやけ顔に変わると、いつの間にか俺の目の前まで近づき、そして頬に唇を押し当ててきた。

「つめてっ」
「ふふっ、素直でよろしい」

 雪子の唇は真っ赤なくせに氷のように冷たく、俺の平熱の肌に触れるとそこから奇妙に水が滴った。

「雪が全部溶けちゃう前にね、クィーンアイスのトリプルをもう一回食べたいし、スノボにも行きたい。ハヤテ商店街のイルミネーションももう一回見に行きたいし……。付き合ってくれるでしょ?」

 途端に上機嫌になって、甘えたように言ってくる雪子に、俺はしぶしぶでも頷くしかない。この時期の雪子のわがままは、とにかく全部聞いてやらなければならないという気持ちになってしまうのだ。

 雪子と出会ったのは、もう覚えていないくらい前のこと。物心がついたかどうかという時期、俺が三歳や四歳の頃だったのだろうか。
 冬の初めの庭先にたたずむ、抜けるように白い肌をした髪の長い着物の女を初めてみた時の衝撃を、俺はいちおう今も覚えている。一番大きかったのは恐怖だったような気もするけれど、しかしどうにも目を離せないような、ずっと見つめていたくなるような魅力が彼女にはあった。
 彼女は確か、幼児だった俺を見るなり言ったのだ、「好き。一目惚れしました。付き合ってくれる?」と。
 あれからもう十年以上が過ぎたことになるわけだが、雪子の見てくれは出会った頃からほとんど変化していない。ずっと年上の謎めいたお姉さんだと思っていたはずが、気付けば近頃は同年代のように見え始めてきた。

「ねえ、なんでこの季節が一番好きか、聞かないの?」

 気付けば手袋をはめた俺の手に手を絡ませて、彼女が聞いてくる。さっぱりわからなかったから、素直に「なんで?」と聞くと、くすぐったそうに笑って「翔也が優しくなるからだよ」と囁いた。
 何を馬鹿なことを。しかし雪子は――この雪女は、始終この調子なのだ。彼女の言うところによれば、雪女というのはおしなべて恋に生きる生き物らしい。
 雪が溶けない気温でなければ実体化していられないらしい彼女たちは、冬以外の季節には深い眠りについて、冬になると全力で恋をするのだそうだ。
 そして俺は、それにずっと付き合わされている。冬の長いこの街から俺が出ていけないのも、すべてはこの雪女のせいだ。

「まぁ、とりあえず、新しいスノボのウェア買いに行くか」
「えー、今のでまだ大丈夫だよ。っていうか翔也照れてる?耳赤くなってるよ」
「……」

 恥ずかしいことをぐちゃぐちゃと言い続ける彼女の手を黙って引きながら、ザクザクと音を立てて二人で雪原を歩く。この冬もまた、まだまだ思い出を作ってやらなくちゃならないなと思いながら。
 彼女が『またね!』と明るく言って、消えてしまう春までに。

3/20/2025, 9:13:10 AM

『どこ?』

 年代物のガラケーが震えて、彼からの短いメッセージが届く。『今君はどこにいるの?』という意味だろうか。
 5W1Hの概念が完全に崩壊した疑問文は、彼の焦りと怒りの大きさの証かもしれない。私の勝手な行動に、彼はとても戸惑っているのだ。

『内緒。楽しみに待ってて』

 私がそう返事すると、またも激しくガラケーが震え始める。けれど私はそれを無視して、遠い海沿いの街へと行くための電車に飛び乗った。今日だけは、どうしてもわがままを聞いてほしくて。

 彼と出会ったのは、彼が八歳の頃だ。
 彼は可哀想な人だった。『可哀想』などという陳腐な言葉にまとめてしまうと、これまで懸命に生き抜いてきた彼に対して失礼な気もするけれど、とにかく出会ったその瞬間から、私は彼を可哀想だと思い続けているのだ。
 具体的に言えば、とにかく家庭環境が最悪だった。彼のお母さんは子どもを育てるには若く、貧しく、無知で孤独過ぎたし、さらにそのためにすがらざるを得なかった男が、最低最悪の人間だった。
 彼の戸籍上の父親ということになったその男は、とても口に出すのも躊躇われるようなやり方で、たった八歳の頃から彼を苛み続けた。あの男の、簡単に手が出る、あの自制心のなさ、傲慢さ、欲を抑える術を知らない、愚かさ、獣にすら勝る悍ましさ。
 彼と出会ったのは、彼がたった一人でその全てと戦っている最中だった。私はとにかく彼が可哀想で仕方なく、彼が立ち向かう苦しみを、肩代わりしてあげたいとすら何度も思っていた。世界のあまりの残酷さを彼の小さな身体が受け止めきれなくて、ついに壊れてしまいそうな夜には、実際に肩代わりしたこともある。
 出会った当初は、多分私は彼の友だちのようなものだったと思う。けれどそうして寄り添い、年齢を重ねるうち、自然といつしか私は彼の恋人になった。

「恋人?プレゼントの一つもくれたこと、ないのに?」

 ふいに、私の隣にいた背の高い女性がちゃちゃを入れてくる。彼女の名前は香菜といって、私の友だちだ。彼とは面識がないが、実は彼女は彼のお母さんに顔や名前がとても似ている。だからこそ、会ったら彼が辛くなるんじゃないかと思って、一度も会わせたことはない。

「そんなことないよ。ぬいぐるみとか、美味しいケーキとか、恋愛映画のチケットとか、買ってくれたことあるし」
「えー、あれ、プレゼントだったの?自分のために買ってるのかと思ってた」
「違うよ、私のため。私にはわかるの」

 私が断言すると、香菜はどこか含みのある顔でにやにや笑う。冷やかすように「らぶらぶだねえ」と言ったあと、少し間をおいて、ぽつりと呟いた。

「なら、ずっと一緒にいてあげればいいのに」

 その言葉に、私は少し切なくなる。もしかしたら、そうしたほうがいいのかもしれないと、私も何度も迷ったから。
 けれど、それではいけないという予感がするのだ。彼の中で、私は役目を終えつつあるような感覚がある。『感覚』だけで別れを告げられるなんて、彼にとってはたまったものではないかもしれないけれど。それでも、私は別れなければいけないと感じている。
 そしてそのために、今日、昔彼と行った海沿いの街へ行くのだ。

 平日の昼前だからか、或いは田舎町に向かう鈍行だからか、列車内はガラガラだった。

「で、どこに行くんだっけ?」
「あのねー、彼のおじいちゃんが住んでるとこ」
「え、おじいちゃん?いたんだ?」
「いるよ、そりゃ。おばあちゃんもいたけど、五年くらい前に亡くなったみたい」

 香菜とともに座席に座り、窓から差し込む心地よい日差しを浴びながらのんびり会話をする。
 彼のおじいちゃんは、その海沿いの街で暮らしている。もう十年以上前に会ったきりで、その時は無愛想でぶっきらぼうな人だなとしか思わなかった。けれど思い返せば、寡黙ながら優しい目をしていたし、分かりにくいながら常に彼のことを気遣っていたような気がする。
 父親だった男によるあらゆる暴力に晒され続けて育った彼に、やっと救いの手が差し伸べられたのは彼が十四歳の頃だった。気が付いてくれたのは、彼の当時の担任の先生。児童相談所への通報からやがて警察沙汰にもなり、最終的には親元で暮らすべきではないと判断された彼は、海辺の街で暮らす祖父母のお世話になることになった。
 地方ではあるがそこそこの都会で生まれ育った彼にとって、その潮の香りのする静かな街は異質な環境だった。あの街に、彼と二人で初めて足を踏み入れた瞬間の、何とも心細くささくれ立ったような感覚を、私もまた今でもよく覚えている。
 そもそも、痛みの根源が除去されたからといって、すでに血を流している場所が急に完治するわけはないのだ。あの頃、彼は今よりずっと精神的に不安定な状況で、心を固く閉ざしていた。

「結局ね、あそこにはあんまり長くはいられなかったの。だって彼、ほら……あのクソ野郎のせいで、大人の男の人が苦手でしょ。だからおじいちゃんにもひどい恐怖感を抱いちゃって、結局施設で暮らしたほうがいいってことになったんだよね」
「ふーん。それは、おじいちゃんが怖い人だったからってこと?」
「ううん。私もね、当時はちょっと怖い人なのかなと思ったこともあったんだけど……おじいちゃん、そのあとずっと、彼を心配して施設に手紙をくれたんだよね。それだけじゃなくて、クリスマスとか誕生日とか、イベントごとにプレゼントも送ってくれたり……心の底から、彼のこと、思ってくれてるんだと思う」

 とはいえ、彼はその手紙を今までろくに読んだこともない。プレゼントだって、開けもしなかったり、施設の他の子にあげてしまったりした。
 祖父母はつまり彼の母の両親ということになるが、彼はまずお母さんのことを全く信用していない。赤ん坊の頃からネグレクトと言って問題がないくらいほったらかしにされ続け、やっと家庭と呼べるようなものが手に入ったと思ったらあんな父親が付いてきて、しかもその男による暴力をお母さんは見て見ぬふりし続けたのだから、無理もないだろう。
 そしてお母さんを信用できないから、自動的に祖父母のことも信用できないのだ。彼にとって、血の繋がりはむしろ不信の理由になってしまう。これは理屈の問題ではなく、彼の心の深くまで根付いてしまった感覚なのだと思う。
 しかし私は、彼に隠れてこっそりその手紙を読んでいた。そして、肉親の当たり前の愛情を、彼にも注いでくれる存在がいるのだということを心の底から嬉しく思った。
 だから何度も、彼のガラケーにちゃんと読んだほうがいいってメッセージを送ったのに。けれど私が言えば言うほど彼は頑なになって、手紙を破ってしまったり燃やしてしまったりした。
 僕には君がいればそれでいい、君まで僕を見捨てるのかって取り乱すから、正直当時はちょっとつらかった。今思えば、私ももっと彼の心の状態を気遣うべきだったと思うけど。
 
 そのような過酷すぎる家庭環境で育ったのだから無理もないことだけれど、彼はずいぶん長い間心に問題を抱え、これまで何人ものお医者さんやカウンセラーにお世話になってきた。
 けれどまず言いたいのは、彼は闘い続けてきたということ。気力を失うことは何度もあったけれど、それでも彼の中には立ち直りたいという意欲が存在し続けた。だから彼は、悍ましい化け物にもたらされた泥のような苦しみの中でも、少しずつでも前に進み、今日まで生きてきたのだ。
 彼は今年の春で二十三歳になった。まだまだ苦しみは深いが、それでもまたもうひと段階、症状が改善する節目のときを迎えようとしている。

「どこか、心の拠り所になるような場所……いや、場所じゃなくてもいい。趣味でも、人でもいいんです。そんなものはないですか。あなたの心の中以外のどこかに」

 特に心の問題の場合、お医者さんやカウンセラーとの相性は重要だ。相性の良し悪しで症状が全く良くならなかったり、逆に劇的に改善したりする。
 彼は今のカウンセラーの先生にもう五年もお世話になっている。かなり相性がいいらしく、先生のことを深く信頼しているらしいことが伝わってくる。
 そんな先生が、先日彼にそんなことを聞いたという。つまり、心の拠り所を見つけることが、彼がさらに苦しみから解放されるためには必要だということなのだと思う。
 そんなものない、全く思いつかないと彼は私に言った。どこか現実を拒絶するみたいに。けれど私はすぐに、彼のおじいちゃんのことを思い出した。
 私は彼のことをとても深く想っている。多分、誰よりも深く。けれど――私なんかの愛情を知ることより、心の底から彼を想ってくれる肉親がこの世に存在することを彼が知ること、そしてそれを受け入れることのほうが、よほど彼にとって救いになるだろうことを私は知っている。

 その時、また激しくガラケーが震えた。
 この古いガラケーは、彼が幼児だった頃に彼が持っていたのと同じ物だ。
 水と菓子パンだけ用意して毎日彼を長時間一人きりにしていたというお母さんは、連絡手段としてこれを彼に与えた。これが震えたらお母さんとお喋りできるんだと思って、彼は健気にいつもガラケーを握りしめていたのだという。けれど、それが鳴ることは滅多に無かった。
 つまり、これは彼にとっては悪い思い出の象徴のはずだ。にも関わらず彼がこれを使って私と連絡を取りたがるのは、悪い思い出を乗り越えたいという気持ちの表れだと思う。
 カシャンと音をさせてガラケーを開くと、ディスプレイにこんなメッセージが表示されている。

『僕を捨てるつもりなの?』

 昔の記憶が蘇って少しヒヤリとするが、彼はもうあの時の彼と同じではないことを私は知っている。

『そうじゃないよ。知ってるくせに。私はもうすぐあなたにとって必要じゃなくなるの。そしてそれは、あなたにとってとてもいいこと』
『まだ必要だ』
『そう言ってもらえるのはとってもうれしい。でもね、私がいる場所じゃないところに、あなたの本当の幸せがあると思うの。あなたの心の拠り所になるところに』
『どこ?』

 列車は長い時間をかけて、やっと海沿いの街へと着いた。駅から海岸までは多少距離があるはずなのに、ホームに降り立った瞬間から潮の香りがする。
 この香りを嗅いだら、彼の胸は酷く騒いでしまうかもしれないと心配していたけれど、思ったよりずっと穏やかな気持ちのままであることに私は安堵した。
 気が付いたら、香菜はいなくなっていた。
 彼の心の中は、今とても静かだ。少し前まで、そこにはもっとたくさんの人がいたのに。けれどみな役目を終え、いつの間に消えていった。
 香菜は、お母さんの代わりに彼を愛してあげるために生まれたのだと思う。けれど彼の方で受け入れる準備が整わないようだったので、結局その本来の目的が果たされることはなかった。彼が立ち直りつつある今、香菜はもう二度と現れることはないのかもしれない。

 人の心は不思議だ。
 心理学上では、私は――私達は、彼の心が彼自身を守るために産み出した、一種の防衛機構でしかないということになっている。
 けれど私自身には、そんなこと到底信じられない。私は確かに、ここに魂を持って存在するような気がしている。
 そして同時に、そうであってほしいという気持ちもある。だって魂があれば、消えたあとも幽霊なりなんなりになって、彼を見守っていられるかもしれないから。

 私はそっと主人格の座を手放す。すると表層に意識を上らせた彼が、自分が今どこにいるかを理解する。海沿いの街の駅の、人のまばらなホーム。晴天の空。潮風と、遠くにかすかに聞こえる波の音。
 
『覚えてるでしょ、おじいちゃんが住んでる街』

 ガラケーにメッセージを打ち込む。彼が狼狽えながら、私の意図を理解していくのが伝わってくる。
 家を出る前、彼のおじいちゃんには連絡を入れてある。おじいちゃんはすごく喜んで、食事を用意しておくって言ってた。
 心の中の私たちではない、あなたを受け入れて、想ってくれる人が現実に生きているのだって、全身で理解して欲しい。
 あなたの居場所は、ここにあるんだって。

『愛してるよ。ずっと一緒にいるよ。
 幸せになってね』

 ゆっくりとメッセージを打つ。
 彼が惜しみ、あるいは悲しみながらも、先に進もうとしているのを感じて、私は静かに彼の中から消えた。

3/19/2025, 3:13:44 AM

 彼女は言葉を喋る。けれど、『大好き』とは言わない。

 暑さがゆるみ始める夕方の六時を過ぎると、僕は縁側で彼女を待つことにしている。初夏の夕暮れ、日が沈むまではもうしばらくあるが、太陽はもうずいぶんと低くなり、近くの空をカラスの群れが飛んでいく。

「待ってたの?ひまじんね」

 カラスに気を取られていたら、背後から帰ってきたようだ。彼女はトン、と微かな音を立てて縁側に飛び乗ると、しっぽをピンと立てて僕の脇腹の辺りにおでこを擦りつける。

「おかえり、ミケコ」
「ただいま。ね、ごはん」

 ほとんど反射的に手が出て、彼女の最もやわらかい喉元あたりの白い毛を弄る。彼女もそうされるのをわかりきっていたように少し顎を上げ、目を細めてゴロゴロ喉を鳴らし始めた。

「ごはん、ごはん、ごはん。今日は缶詰がいい」
「駄目だよ。カリカリで我慢しなさい。そもそも買い置きがないし」
「……そうなの?つかえないわね」

 とか言いながらも彼女の喉は鳴ったままで、僕がすこし腰を上げると途端にスキップするみたいな足取りで台所に走っていく。はやくはやくー!と大声で叫びながら。

 僕は子どもの頃から、何匹もの猫を飼ってきた。けれど喋る猫を飼ったのは、ミケコが初めてだ。
 僕が知らなかっただけで、世の中には喋る猫というものが一定数いるものなのか、それとも単純に僕の頭がおかしくなっただけなのかはわからないが、とにかくミケコは喋る。あの猫特有のにゃんという可愛い声ではなく、にゃんにかなり近しい感じの高くて甘い声で人のように日本語を喋るのだ。

「ミケコ、ご飯美味しかった?カリカリも結構イケるだろ」
「まあね……今毛繕いでいそがしいから話しかけないでくれる?」

 がっついて食事を終えると、彼女は定位置のキャットタワーの中段に収まって器用に背中を舐め始める。
 つれなくされると構いたくなるのが人間というもので、通りがかりに脇腹のあたりを撫でたら、きれいな黄色の瞳で睨まれた。触られたところを舐め直しながら、人間くさくなるからやめてよ!せっかくきれいにしたのに!などとぶつくさ言っている。
 創作物などの中で動物が言葉を話す場合、アホ面に見えていたペットが思った以上に理知的で可愛げのない発言をすることに驚くパターンや、純粋な好意や感謝の気持ちを伝えられて感動するパターンなどがあると思うが、ミケコの発言には特にそのような要素はない。ミケコは多分猫はこんなことを思っているんだろうなと人間が思うようなことを、そのまま喋る。
 つまり、やはり全て、僕の妄想である可能性が高いということなのかもしれない。

 そんなことを考えつつ、ミケコの夕食後の僕の日課である猫トイレ掃除に取り掛かる。スコップで砂をざっとかいてみて、僕は気が付いた。

「あれ、ミケコ、おしっこの回数多くない?」
「……」

 ミケコは無視をして毛繕いを続けている。僕は一日に一度しかトイレ掃除をしないが、それにしても多すぎる痕跡が猫砂に残されている。

「ミケコ、前おしっこしたのいつ?」
「……レディにそんなこと聞かないでよね」
「大事なことなんだからちゃんと答えて。どこか身体におかしいところ、ない?お腹が痛いとか」
「……しいて言うなら、おしっこするときにね、なんかチリチリするの」

 伸ばした舌をぺろんと仕舞いながら彼女が言った言葉に、僕は顔面蒼白になった。この時間でもやっている動物病院が近所にある。即座にケージを用意する僕の姿に、ミケコも何かを察したのかぎゃーぎゃーと叫び声をあげ始めた。


「膀胱炎ですね」
「……膀胱炎。食欲はあるみたいだったので、全然気付きませんでした」
「食欲が無くならないタイプの子もまあまあいるんですよね。痛み止めと抗生剤を出しますので、ご飯に混ぜるか何かして一日二回飲ませてください。それから、水分をたくさんとったほうがいいので、なるべく水を飲みやすい環境を作ってあげて、しばらくご飯もウェットフードに変えてください。ミケコちゃん、ウェットフードは食べますか?」
「はあ、やっぱり缶詰のほうが……」
「食べる!でもあんたは嫌い!薬は飲まない!」

 可愛くない事を言うミケコに、先生は無反応だ。やはり、僕にしかこの声は聞こえていないということだろうか。

「あの、先生。腎臓の数値は問題ないですか?」
「うん、それは大丈夫でした。膀胱炎が治りさえすれば、何も問題はありませんよ」

 最後に念押しをするように聞く僕に、先生は全てを察しているような様子で優しく答える。この先生とも、随分付き合いが長いのだ。

 薬と療養食のウェットフードを受付で受け取って、僕はミケコと帰路につく。行きにはどすの利いた声で「地獄に落ちろ!」などと叫ぶほどに取り乱していたミケコだが、帰りは別猫のようにおとなしくしている。家に帰れるのだとちゃんと分かっているのだろう。
 これは多分喋る猫だからというわけではなく、どんな猫でもその種の鋭さは生まれ持っているのだと思う。ミケコの前に飼っていた、シロタもそうだったからだ。
 真っ白い毛並みがきれいで、少し太り気味だったオス猫のシロタ。シロタは喋れない猫だったけれど、大体なにを考えているかはいつもお互い通じ合えていたように思う。シロタはミケコと比べてももっと人懐こくて天真爛漫なタイプで、家の中では犬のようについて回るし、抱っこされるのが大好きだった。
 けれど、やはり言葉が通じなければわからないこともある。数年前の同じ季節、僕は同じ病院にシロタを抱きかかえて駆け込んだ。シロタが突然に痙攣を起こしたからだ。
 先生には、急性腎不全だと言われた。腎臓の疾患は猫にはよくあることで、腎疾患の初期だとほとんど症状もないので気が付きにくい。シロタの場合、急性のものなので以前から疾患があったとは限らないらしいが、そもそも原因をはっきりさせる暇もないほどあっという間に、シロタは死んでしまった。
 シロタがそうなる少し前から、僕は仕事が忙しくて、彼の様子をあまりちゃんと見てやれていなかった。だから、きっと僕のせいだ、僕が兆候を見落として、シロタを見殺しにしたのだ――そう思って僕は酷く落ち込み、シロタが好きだった縁側で毎日泣いてばかりいた。
 そんなある日、ミケコはうちにやってきたのだった。まだ子猫だった彼女は、母猫とはぐれたのか一匹でてとてとと僕の家の庭に入ってきて、ぴーぴー泣きながら僕にこう言った。

「こんにちは!ごはんちょうだい!どうしてもっていうなら飼われてあげてもいいけど!」

 猫が喋ってる!と思わないわけではなかったが、そんなことよりその子猫のガリガリに痩せて震える様子が尋常ではなかったので、僕はすぐに彼女を毛布にくるむと病院に急いだ。



「ミケコちゃん、ご飯食べなさい。ウェットフードだぞ、美味しいよ」
「……さっきカリカリ食べたし。それになんか、それ、変な匂いするのよね。どうせ薬、混ぜてあるんでしょ?」
「……くそ、鼻が利きやがって。でもさ、口の中に指を突っ込まれて無理やり飲まされるよりはマシだろ?薬を飲んでちゃんと病気を治さなきゃ死んじゃうかもしれないんだよ、ミケコ。お願いだから食べてよ」

 無駄だろうなと思いながら根気強く言い聞かせる。するとミケコはぶつくさ言いながらも、最終的には食べてくれた。案外美味しかったのか、そこそこ勢いもいい。さすが喋れる猫、僕の言うことをちゃんとわかっているのだ。
 とにかく、大きな病気じゃなくて本当に良かったと思う。僕はほっとしながら、あぐらを組んで餌皿に顔を突っ込むミケコの姿を見つめる。
 やがて食べ終わったミケコは、珍しく僕のあぐらの上に乗ってきた。しばらくすねや太ももを踏みながら身の置き場所を模索しているような様子を見せたあと、器用にくるんと丸くなる。いきなり病院に連れて行かれた恨みは、もうすでに忘れたらしい。
 彼女の後頭部がまるで『撫でろ』と言っているようだったので、ご要望通り指で掻いたり撫でたりしてやると、彼女はまたグルグルと喉を鳴らし始めた。
 暖かくてやわらかいかたまりが、穏やかに震える振動が膝の上に優しく伝わる。幸福が物質化して、膝に乗っているみたいだと思う。

「………ミケコは、長生きしてね」
「うん」
「ねぇ……ミケコはさ、僕のこと、好き?」
「………………」

 依然ゴロゴロ言いながらも、つれなく無視をする様子が、彼女らしくてかわいい。思わず両手を使って体中を撫で回してやると、うれしそうにゆっくりとまばたきを始め、ゴロゴロ音がより大きくなる。
 例え言葉が喋れるとしても、ミケコは自分から『好き』などと言ってくるようなタイプではない。シロタだったら、言ってくれたような気がするけれど。
 けれど、言われなくても伝わってしまうことはある。言葉が通じなければ分からないこともあるが、分かることもあるのだ。
 特に猫には。

3/18/2025, 2:37:50 AM

私は叶わなかった夢の形をしているの、と
昔、母さんがよく言っていた。

クッキーを焼くのが上手いのは、
パティシエになりたくて勉強したからだし、
足がどのお母さんよりも早いのは、
中学の県大会を目指して一生懸命練習したから。
似顔絵を上手に描けるのは、
漫画家になろうと、Gペンと原稿用紙を買ったからだし、
クラシックとヴァイオリン協奏曲に詳しいのは、
コンサートミストレスに憧れて、指がしびれるまでヴァイオリンを弾いたから。

何度も夢を見たけれど、一つも叶わなかった。
才能がなかったから、努力が足りなかったから、
タイミングが合わなかったから、あるいは夢を見失ったから。
けれどその挫折のどの一つが欠けても、今の私にはならなかったわ。
だから私はね、そんなに後悔はないけれど、
でもあなたは、夢を叶えてね。
頭を撫でながら、母さんは何度も言った。
星に祈るように、あるいは、呪いのように。

大人になった私は、夢を叶えた。
特別才能があるわけでも、根気強いわけでもない。
長所も短所もない、平凡そのもの。
そんな私が、特出した何者かになろうとすれば、
何かを捧げなければならない。
まずは、時間。
あるいは夢の外にある楽しみや、興味。
夢の外にある人たちと同じ生活、幸せ。

私は夢に全てを捧げた。
そしてその、光り輝く一つを手にして、気付いたの。
私は叶った夢の形をしている。
夢を叶えるため、それ以外の全てを削ぎ落とし、夢に必要なものだけを詰め込んだ姿をしている。

母さんと同じように、多分そんなに後悔はない。
けれど時々夢見てしまうの、夢の外で生きた自分のこと。
叶わなかった夢の形をしている私のことを、夢見てしまう。

3/17/2025, 9:50:29 AM

「プルースト効果って知ってる?」

 甘い花の香りのお茶をティーポットからカップに注ぎながら、いつもと変わらず美しい妻が僕に聞く。
 目の前に置かれたティーカップは、彼女の気に入りのデンマークのブランドのものだ。滑らかな白磁にレースのような縁取り、涼やかな青色の線が目を引くそれは、それなりに値は張るが使い心地はとてもいい。
 とはいえ妻――綾音と結婚するまで、僕はこういったものに少しの興味も持っていなかった。綾音と結婚しなければ、食器に金をかけるという価値観すら知らないまま生きていただろうと思う。
 僕は綾音の質問には答えずに、まずはカップを持ち上げてお茶の香りを楽しむ。「何だっけ、これ」と尋ねると、彼女はダイニングチェアを引き、僕の向かいに座りながら「ジャスミンティーよ」と言った。

「なるほど、ジャスミンティー。……何度か聞いているはずだけど、こういうのはさっぱり覚えられないな。……いや、もしかして……以前の僕なら覚えていたのかな?」

 少し不安な気持ちになって聞くと、綾音は穏やかに微笑みながら「前から覚えてなかったわ、健吾くんはこういうことを覚えるのが苦手よね」と言う。

「それで、プルースト効果って知ってる?」

 綾音に再び聞かれて、僕は質問を無視していたことを思い出した。

「あぁ、ええと……知らないな。何なの?」
「私もついこの間知ったんだけど……あのね、人間の記憶は匂いと結びつきやすくて、特定の記憶に結びついた匂いを嗅ぐと、その記憶を思い出しやすくなるんですって。それを、プルースト効果っていうみたいよ」
「……へえ」
「お医者さんがね、健吾くんの症状にも効果があるんじゃないかって仰ってたの。認知症の患者さんも、懐かしい匂いを嗅ぐと、誰かわからなくなってしまった家族のことを急に思い出すことがあるらしいわ」
「……つまり、ジャスミンティーの香りには何か、僕の記憶が関連付けられているかもしれないということ?」

 僕は十日ほど前に記憶喪失になった。とはいっても、いわゆる自分がどこの誰なのかも全く分からなくなってしまうような完全な記憶喪失ではなく、部分記憶喪失というやつらしい。家の中で転倒し、どこかに頭をぶつけてからというもの、僕はここ半年あまりに起きた出来事を全て忘れてしまったのだ。
 けれど自分が何者なのか、そして愛する妻が誰なのかについてはしっかりと記憶している。だから正直、日常的にはそこまで大きな支障はない。
 医者にも、焦って記憶を取り戻す必要はないと言われているし、妻も思い出せないならそのままでいいわとよく言っている。けれどやはり心配ではあるのか、度々彼女はこのように、僕の失われた記憶に働きかけるようなことをしてくれる。

「……そうよ。あなた、ここ最近ジャスミンティーが気に入っていたの。でも何も思い当たるところがないなら、きっとやっぱり、思い出せないのかもしれないわね」
「……ごめん。せっかく僕のために淹れてくれたのに」

 どこか悲しげに言う綾音に申し訳ない気持ちになって、僕はティーカップを握る彼女の手に自分の手を重ねる。

「ふふ、別にいいのよ。例え私のことさえ忘れてしまったとしても、お芝居の台詞さえ覚えていられるなら、あなたはそれでいいの」
「すべてを忘れても、君のことだけは絶対に忘れないよ」
「……あら、本当かしら?」

 僕の名は相良健吾、職業は俳優だ。ここ数年は売れっ子と呼ばれて違和感がない程度に継続的に仕事が舞い込み、記憶喪失になってしまった今現在もドラマの撮影が一本、映画の撮影が一本控えている。幸い、新しく物事を覚える機能には影響がないらしく、彼女が懸念するように台本を覚えられないというようなことは起こっていない。
 綾音と出会う前まで、実を言うと僕は全く売れない俳優だった。地方の小劇団に所属し、時々上京して様々なオーディションに出ては落ちるを繰り返し、アルバイトをいくつもかけ持ちして何とか生活していた。劇団の中では主役級の存在ではあったが、それ以上の何かになれる気配はまるでなく、生活は充実していたが次第に閉塞感も覚え始めていた。
 そんなある日、綾音と出会ったのだ。彼女は、僕の所属する劇団の公演にお客として来ていた。客席の中でも光り輝くように見えていたほど、スポットライトの当たる側にいるのが僕らであることがおかしく思えるほどに、その時から彼女は美しかった。
 実は、彼女は知る人ぞ知る有名人なのだ。綾音はこの国の国民なら誰もが知っているほどに著名な大俳優、大川原行人の娘なのである。どうやらうちの劇団員の誰かの友達の友達の友達だったとかいう話で、地方旅行のついでにふらりと僕たちの公演に足を運んだのだという。
 そこで、僕は彼女に見初められた。公演が終わるなり楽屋を訪ねてきた彼女は、僕の手を握って「あなたはもっと光り輝く舞台にいるべき人よ」と囁いたのだ。出会った瞬間から、綾音は僕のプロデューサーになり、そして恋人にもなった。
 僕は綾音に導かれるようにして上京し、彼女の伝手で有名芸能事務所に所属させてもらえることになった。僕は彼女と同棲しながら事務所が薦めるオーディションに次々に出、そしてこれまでの体たらくが嘘のようにあらゆる役を手にしていった。
 僕自身の実力と、上京してからの彼女によるプロデュースが的確だったおかげ――と思いたいが、実際はかわいい一人娘が入れ込んでいる未来の婿の将来を案じて、大川原行人があちこちで話を通しておいてくれたおかげらしい。それを知った時には多少プライドが傷付けられたけれど、しかしコネであろうとなんだろうと、目の前のチャンスを掴まない奴は愚かだと思う。
 それに、その後も仕事が続いたのは、やはり努力あってこそのことであり、僕にそれなりの魅力があったからだろう。最初は逆玉の輿のコネ野郎などとひどい悪口を言う奴もいたけれど、近頃は『若手実力派イケメン俳優』という呼称が定着するほどに安定した実績を築きつつある。
 仕事が軌道に乗ると、綾音の父は僕と彼女の結婚を許可してくれた。今ではあの大俳優が、僕のことを自慢の息子だとすら言ってくれているのだ。それもまた、僕にとっては大変な誇りだ。

「……そういえば、さっきの電話ってマネージャーからでしょう?次の映画の相手役、やっぱり交代になりそうなの?」

 妻がふと思い出したように言う。確かに、僕はつい先ほどまでマネージャーと通話していた。

「そうみたいだ。春谷さん、まだ連絡が取れないんだって。心配だな」

 春谷優花は、僕が次に出る映画でヒロイン役をするはずだった女優である。まだ二十代前半で、雑誌モデルから昨年女優に転向したばかりだが、なかなか堂々とした良い演技をする。グラビアの経験もあるほど豊満な身体をしているが、それに反してどこか幼気な童顔をしているところが魅力で、かつ無邪気で天真爛漫なキャラクターが世間に受けている。プライベートでもニコニコと笑顔が絶えず、僕に対しても初対面から人懐こくて、「ずっとファンでした」なんて言いながら腕を組んできたっけ。
 しかしそんな彼女が、つい先日突然に失踪してしまったらしい。あの積極的な姿からは想像もつかないことだが、どうやら初めての映画出演のプレッシャーで近頃精神的に参っていたという。春谷さんから直接聞いたわけではないけれど、とにかく業界ではそのように噂されている。

「本当に心配ね。まだ若いのに……あなたも頑張りすぎないでね。特に今は病人みたいなものなんだから」

 優しい綾音に気遣わしげにそう言われ、僕は大丈夫だよと笑顔を返す。妻を安心させるためにも、次の映画ではさらにいい演技をしなくてはと思っている。


 ところで記憶を失ってからというもの、僕はふいに違和感に襲われることが多くなった。まあ、日常に支障はないとは言え半年間もの記憶を無くしているのだから、当たり前かもしれないが。
 例えば、部屋にドライフラワーを生ける妻の姿を見たとき。少なくとも半年前までは、妻が生けるのはいつも生花だったように思う。妻はフラワーアレンジメントの資格も持っていて、とにかく家に花を飾るのが好きなのだ。
 けれど彼女にそう指摘したら、不思議そうな顔で「前からドライフラワーを飾っていたわよ」と言われた。長持ちするからこっちの方が楽だもの、と。
 それから、スマートフォンを操作していても何か違和感を感じる。あったはずのアプリが無くなっているような、あるいは知らないアプリが突然増えているような、ちぐはぐな感覚に囚われるのだ。
 つまり、記憶のある半年前と、十日ほど前までの間に、僕のスマートフォンにインストールしてあるアプリのラインナップが変化したということなのかもしれない。妻に、半年間に僕のスマートフォンにどんな変化があったか知らないかと一応聞いてみたが、知るわけないでしょうと呆れたように言われてしまった。
 またなにより強い違和感を感じるのは、クローゼットの中身だ。僕は上京してからというもの、服も靴も何もかも妻がコーディネートしたものを身に着けてきた。地方の劇団員をやっていた頃はそもそも金がなく、着るものなんて適当なものだったけれど、彼女は見た目も売り物の商売でそんなことでは駄目だと、これまで身につけたことがないようなハイブランドの衣類を山ほどプレゼントしてくれたのだ。どれもシンプルながら高級感があり、シックな色合いのものばかりだ。
 しかし今のクローゼットの中には、明らかに妻が選んだのではない服が紛れ込んでいる。妙に派手で、僕が着るには若作りが過ぎると感じられるようなものが。さらに気味が悪いことに、下着もずいぶんと派手なものが何枚も増えている。
 この半年の間に僕が買ったということなのだろうが、なぜそんなことをしたのかがわからない。次の映画では実年齢より五歳若い役をやるし、劇中では回想シーンで高校時代も演じることになっているから、役作りの関係か何かだろうか。
 これについては、どうにも嫌な感じがして、妻にも何も聞けていない。

 記憶喪失になったことは、妻の他には事務所の数人にしか明かさず、その後も僕は忙しく仕事を続けた。キャリアは確固たるものになってきたとはいえ、まだまだ歩みを止めていい時期ではないからだ。
 そしてその合間を縫って、一応ちゃんと病院には経過観察に通っている。妻が僕を心配して、しきりにそう頼むからだ。

「相良さん、記憶はまだ戻らない……と」
「はい。……先生、それは別にいいんですが、半年分も忘れている記憶があると、日常的にもどうにも何か……違和感を覚えることがあって。気持ちが悪いんです」
「そう。まあ、そうでしょうねぇ……。しかしねえ、これほどまで長い間記憶が戻らないとなると、原因は頭を打ったことだけじゃないかもしれませんね」
「……というと?」

 病院に運び込まれた直後と、つい先程撮ったばかりの僕の頭部CT写真を見比べながら、医師はボソボソと言う。

「脳はパッと見て分からないことも多いから、注意はしてきたんだけどね。相良さんねぇ、実は頭の方にはそんなに問題は無さそうなんですよ。つまりね、他に原因がある可能性もあって……『解離性健忘』って、聞いたことありますか?」

 言いながら、医師は手元のメモ帳にその通りの文字を書く。見たこともない言葉である。

「これはね、いわゆる精神的な問題なんです。何かショックの大きい出来事に直面した場合に、精神が自己防衛して、負荷から逃れるために嫌な記憶を忘れちゃうことがあるんですよ。不思議でしょう?相良さん、特殊なお仕事だから、ストレスも多いんじゃないかと思いましてね。頭を打つ前後に、何か忘れてしまいたくなるほどに苦痛な出来事が起きた可能性はありませんか?」
「忘れたくなるほど、苦痛な出来事……?」

 医師の話は僕にはあまりに突拍子もなく思えた。確かに仕事が軌道に乗っているからこそ、同時にプレッシャーも大きくなり、ストレスを感じることが無いわけではない。
 映画でもドラマでも、その製作には百人規模の人間が関わる。そして主演級の役を任される場合、ある意味では僕の仕事の出来が彼ら全員の今後の生活の命運を握っていると言っても過言ではない状況になるのだ。売れていなかった頃には感じたことのないような責任を背負いながら、今僕は仕事をしている。
 けれど、だからってそのせいで記憶まで失ってしまうだろうか?そこまで、僕のメンタルが軟弱とは考えたくはない。

「……まあ、そう言われてもわかりませんよね。記憶を失っているわけだから。とにかくね、精神的な問題だった場合、理由があって思い出さずにいるということですから。つまり無理に思い出そうとするのは、自傷行為のようなものなんです。ですから思い出せないままだとしても、そんなに気に病まないで、ね」

 医師にわかりましたと答えながら、僕はこの話を綾音にするかどうか迷う。話したら、もっと心配させてしまうかもしれないからだ。
 綾音はいつでも僕のことを一番に考え、僕を深く想ってくれているから。

 ヒロイン役が未定という異例の状況ではあったが、演者がそれぞれに多忙であるためリスケジュールが困難だということで、予定通り次の映画の『本読み』が行われることになった。作家や演出が、演者に意図やニュアンスを説明しながら台本を読むという、作品づくりの初期に欠かせない過程である。
 春谷さんのことがあるので本読みの場にはどこか異様な緊張感が漂ってはいたけれど、だからこそみんなで力を合わせて苦境を乗り越えようという一体感も感じられ、なかなか良い現場になりそうな気配があった。本読みを終え、僕は撮影が今から楽しみで仕方がなくなってしまった。
 綾音にも今日の話をしてあげようと思いながら帰路につくとき、僕はふと、あの『解離性健忘』の話をやはり彼女にはするべきなのではないかと思い至った。悩み続けていたが、献身的に僕のフォローをしてくれている彼女には、伝えるべきだろうと思う。
 そして同時に、日頃の感謝も伝えようと思う。綾音の心配を和らげるためにも役立つだろうと思い、僕は家の近くの花屋へと立ち寄った。
 思い返してみれば、驚くべきことに、僕は花好きの綾音に今までで一度も花を贈ったことがなかった。綾音は基本的に僕なんかよりずっと上質でセンスのいいものを知っている人だから、恥ずかしくて自分で買ったものや選んだものを彼女にあげたことがないのだ。

「いらっしゃいませー……あら、」

 店主と思しき中年の女性が、僕の顔を見てはっとしたような顔をする。僕はバケットハットを目深にかぶってマスクまでしているが、相良健吾であることに気付かれてしまったかなと思っていたら、女性は思ってもみないことを言った。

「またいらして下さったんですね。お花、どうでしたか?奥様に喜んでいただけました?」

 僕がこの店に来たのは今日が初めてのはずだし、綾音に花をあげたこともない。だから誰かと人違いをしているに違いないと思ってから、僕ははっと気付いた。
 おそらく僕は記憶のない半年の間にこの店に来て、そして綾音に花を買ったのだ。
 その時、僕は以前聞いた綾音の言葉を思い出していた。『プルースト効果』――特定の記憶に結びついた匂いを嗅ぐと、その記憶を思い出しやすくなるという話。
 そして同時に思いついた。綾音に初めて花を贈った時の記念すべき記憶ならば、もしかしたら、思い出せるのではないか。

「はい、すごく喜んでくれて。なので、先日とまったく同じ花束をもう一度作ってもらえませんか?妻がその花を気に入ったようなので」

 僕が言うと、女性はうれしそうな様子で快く引き受けてくれる。彼女が作ったのは、白とピンクの花を中心にした可愛らしい花束だった。



「グランオマージュ、か……」

 花束を抱え、僕は自宅への道を急いでいた。花屋の女性は花束に使われている花の名前を一つ一つ丁寧に教えてくれたが、そのうちのピンクがかった白薔薇の名前がそう言うのだという。フランス語で、『大いなる尊敬』という意味らしい。
 僕が綾音に贈るのにぴったりの花だ。それに、甘く香しい芳香もする。僕はそれを思い切り吸い込み、きっと幸福な記憶だったのだろう失われたそれを取り戻そうとする。

『きれい!』

 その時、僕の脳裏に誰かの笑顔がよぎった。それから弾む声、屈託無く僕に抱きついてくる豊満な身体。

『とってもいい匂いですね!こんなもの用意して下さったなんて……とってもうれしいです!』

 可愛らしい声が耳元に蘇る。僕と彼女は自宅のマンションにいて……ダイニングテーブルには、二脚のデンマークのブランドのティーカップ。
 そこに注がれているのは、ジャスミンティー……ああ、綾音の言う通り、やはり僕はジャスミンティーをよく飲んでいたのだろうか。
 失われた記憶が少しでも蘇ったのは初めてのことで、僕は興奮気味にさらに朧気な痕跡を辿っていく。

『おみやげのジャスミンティー、美味しいね。ありがとう』
『いえいえ。この間、北京で撮影があったんですよ。でも健吾さん、お茶を淹れるのも上手なんですねー。奥様が羨ましいな』

 僕の目の前でそう話すのは、綾音――――ではない?

 二重でくりっとした大きな瞳、丸い輪郭、キメの整った若い肌、どこか幼気な雰囲気。明らかに、綾音――じゃ、ない。
 彼女がいるのは僕と綾音のマンションだけれど、けれど、彼女は綾音ではない。

『今は妻の話はしないでよ。君のことだけ考えていたいから』
『……ふふ。優花、幸せです』

 歯の浮くような口説き文句を言ったのは、確かに僕であるような気がする。そして僕に、やわらかい胸を押し付けながら抱きついてくるのは――彼女だ。春谷優花。
 僕は道の真ん中で花束を抱きしめながら、急激に全てを思い出していた。春谷優花と顔合わせをしてから、いかにして仲を深め、丁度綾音が泊まりで留守にしている自宅に、こっそり連れ込むまでになったのか。
 魔が差したのだ。
 いや、綾音も悪いと思う、とにかく彼女には感謝はしているけれど、彼女はあまりに束縛が強いところがあって、だから僕も息苦しくて仕方なかったのだ。地方で売れない俳優をしていた頃は全ての決定権は僕の手にあったのに、綾音と出会ってからは何もかも彼女に決められて彼女に与えられる暮らしで、それは大人の男としてはいささか情けなさを感じるようなものだったし、綾音が僕を尊重してくれないから、いやそもそも、綾音は美人だけど僕の好みはもっと童顔の――。
 どうしようもない言い訳のような、自己弁護のような思考が頭をぐるぐる巡る。そうしながら、気付けば僕は自宅に帰り着き、間抜けなことに玄関の敷居をまたいでから初めて、この花を綾音に見せるわけにはいかないことに気付いた。
 幸い、綾音は留守のようだ。僕は足をもつれさせながら台所に駆け込み、ゴミ箱に花束を押し込むと、今度は寝室に急ぐ。それからスーツケースを引っ張り出すと、そこに服を詰め込み始めた。
 気が動転していて、自分が今何をしているか、何をすべきかもよくわからない。けれど、綾音に会ってはいけないことだけはわかる。
 僕が思い出したのは、浮気をした事実だけではないのだ。僕はあの日、あの後、家の中で転倒し、頭を打って記憶喪失になった。そしてそこに居合わせていたはずの春谷優花が、一体どうなったのかと言えば。

「どうして捨ててしまったの?こんなに綺麗なのに」

 突然、背後で声が聞こえた。振り返ると、僕が捨てたせいでひしゃげた花束を抱えた綾音が、美しい微笑みを浮かべて立っている。

「いい香りよね、グランオマージュ。私、すごく好きよ……あの子も、好きだったのかしら?」

 妻がそう言いながら、片手に握りしめた、プラスチックで出来た四角く黒いものを僕に見せる。それはテレビのリモコンほどの大きさで、長方形の短辺のほうに金属の部品が2つ並んでくっついている。
 あれを、見たことがあった。見たことがあるだけではない、首筋に押し当てられたことがある。その途端、バチバチッという音と同時に電気性の刺激が全身に走り、僕は意識を失った。
 そしてそうなる前、僕はまず同じことをされて気絶する春谷優花の姿を目撃していた。
 あの日。数日家を空けると言って出掛けて行った綾音は、実は家の中に潜んでいたのだ。そして、僕と優花を……。

「健吾くん。……あなたが悪いのよ?」

 にっこり笑って、綾音が近付いてくる。スタンガンを片手に。
 僕はもう、一歩も動くことは出来なかった。

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